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忘れがたき故郷(2)

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 出身地はまだ誰にでもある。生まれただけの場所は、出身地とは言わないようだ。生まれたのち、少なくとも子供の日々は、そこで過ごした場所だ。出身地があるなら、実家もまだある。老いた両親がいまも住んでいる家、そしてその家のある場所と周辺だ。出身地や実家は、農村部や僻地にあるとはかぎらないが、もし地方にあるなら、それはうかつに使った言葉としての、田舎であり故郷であるだけだ。田舎は消え故郷はなくなり、出身地だけがまだ残っている。

 誰もが故郷に住んでいた時代が、かつてあった。生まれ育ったところにそれ以後もずっと住み、そこで一生を過ごした。どこかへ移ると言っても、移る先はせいぜいが近隣の村や町だった。主として仕事の都合で日本各地を転々とする人はもちろんいたけれど、多くの人が基本的にはずっと故郷にいた時代があった。

 次に来た時代は、労働力としての若年層が、故郷を遠く離れなければならない時代だった。戦後の日本が一九五〇年代に入ってから、つまり日本の経済が復興して立ち上がり始め、それまでの日本とは質的にまったく異なった日本へと、転換していった時代だ。

 それまでの日本とは質的にまったく異なる日本に向けての変化とは、かつては故郷にずっと暮らしていた人たちが、いまは単なる労働力となり、故郷を出てどこかへいってしまう人となる、というような変化だ。農村部から都市部への、このような内容の人口移動は、一九六〇年代をとおして急激に高まり続けた。

 住みなれた故郷から東京なら東京へ出ていき、その東京の片隅で労働する日々にとって、故郷はどのように存在したか。自分ひとりだけの時間にふと空を見上げると、その空は故郷につながっていた。つながりに託して馳せる思いは空を伝わって届き、故郷へ舞い降りた。懐かしく愛しい場所のまま、故郷はそこにあった。静かに安定して、それなりに豊かな、なんの緊張も強いられることのない、優しい故郷だ。

 東京と故郷とが、こんなふうに互角に均衡を保っていた時代が、ごく短かったにせよ、確かにあったようだ。しかし、そのような時代は、すぐに消えた。若い人が単なる未熟練労働者として都市部へと出ていかなければならないことじたい、質的にきわめて大きな変化だ。経済的な理由によって、人は故郷に住み続けることが出来ない、という時代の到来だ。故郷が消えていく時代の始まりだ。

 農業政策の大失敗であることは明らかだが、なにかを試みようとして失敗したと言うよりも、そんなことはどうでもいい、とにかく工業製品を大量に作って大量に売るのだという方針による、農業の切り捨てだった。右肩上がりを始めた日本経済のなかで、地方は官僚によって捨てられた。価値のないものとされた。政治家にとっては投票者の頭数、という意味しか持たないことになった。

 敗戦から五年ほど、一九四五年から一九五〇年くらいまでの期間、日本の農村部は安定していた。都市部にくらべると、はるかに豊かですらあった。しかし日本のぜんたいとしては、この期間は低迷し混乱していた。方向がまだ見つからなかったからだ。

 ところが一九五〇年に朝鮮戦争が始まった。これによって戦後の日本は、進むべき方向を確定させることが出来た。大量に生産してそれをすべて買ってもらうと、たいへん儲かるだけではなく、経済力の基礎構造を作ることにつながる、という方向だ。アメリカ軍の注文に応じてさまざまなものを大量に作っては納入する、というかたちでの朝鮮戦争体験をとおして、日本は進むべき方向を見つけた。

 マッカーサー元帥が去り、講和条約が結ばれ、一九五五年にはいまの言葉で言う五五年体制が出来、それは現在まで続いている。一九五六年、もはや戦後ではない、と日本政府は宣言し、日本は戦後第一回の質的転換をとげた。日本はそれまでとは別の日本になった。

 どんなふうに別なのか。一例としてさきほど書いたとおり、人が故郷にずっと住んでいることが出来なくなるほどに、別なのだ。日本経済は轟々と立ち上がる。労働者は大量に必要だ。農村部が彼らを供給した。彼らが故郷から出ていった先は、新しい時代の夢の実現に向けて、苦労を重ねつつ耐えていく場所だった。

 農村部からの労働力の流出は続いた。中卒や高卒の子供たちを中心として労働力の移動は続いても、やがて適当なところでおさまるのではないか、と人々は思っていた。しかし、流出はおさまらなかった。はるかに年上の大人たちも出ていくようになり、一九六六年にはついに、日本の農村部の人口に関して、過疎という言葉が使われるまでになった。

 稼ぐか稼がないか。どこへいけば稼げるのか。価値は経済のみという支配律だから、経済活動の場を求めて、農村部から都市部へと、人口の流出は続いた。都市部が夢を実現させる場所ではなく、労働と消費の繰り返しのなかで消耗していくだけの場所であることは、一九六〇年代が終わる頃には、すでに確定していた。

 と同時に、故郷であり続けるはずだった農村部も、そこならではの良さを急速に失い、取り残されてなにもなく、ただ寂しいだけの場所へと変わった。このようにして故郷は失われた。

 いまどこか地方に住んでいても、東京ではないところに住んでいる、という程度の意味しか持たない。田舎は消えた。故郷はもうない。と同時に、あるいは入れ替えに、田舎も故郷も、金銭で買うものとなった。豊かな田園、青い空、おいしい空気、懐かしい農村の風情、新鮮な食べ物、こまやかな人情、温かい関係、山のなかでも海辺でも、優しく抱きとめてくれるような土地柄など、すべてはそのつど買うものとなった。

 始まりは庭つき一戸建てではなかったか、と僕は思う。庭つき一戸建ての庭は、じつは故郷の田園や裏山だった。この庭がかなわない夢となって、生活に緑を、という願望あるいは要求へと、変化した。自宅の周辺に樹が多ければそれでいい、しかし落ち葉はやっかいだから、一年をとおして緑の葉をつけている樹を、という要求だ。

 束の間の、もちろん疑似的な故郷や田舎を求めての小旅行はさらに進化して、リゾート地へでかけていく消費活動となった。青い空に青い海、そして夏の権化のような強い陽ざしへと特化すると、それは南の島のリゾート地だ。国内のリゾートは崩壊したようだが、故郷探しの旅はいまも続いている。海外のリゾート地は、いまだに消費の対象だ。

 田舎や故郷はすべて消え去り、イメージや疑似イヴェントとして、消費の対象に生まれ変わった。世のなかのすべてが経済活動へと転換されていくことを許し、物やおかねだけを価値としてきた日々の、これはごく当然の到達点だ。

(完)[全2回]

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2000年 『坊やはこうして作家になる』 戦後 日本 東京
2017年3月2日 05:30
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