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忘れがたき故郷(1)

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 こきょうと平仮名で入力し、変換する。故郷、という漢字が画面に出る。ふるさと、と入力して変換すると、この場合も、故郷という言葉が、画面に浮かび出る。こきょうは、やや硬い言いかただろうか。ふるさとは、明らかに柔らかい言いかただ。変換されたまま画面にある故郷という言葉を、僕は見つめる。この言葉はもう死語ではないか、と僕はやがて思う。

 故郷という言葉は、たいそう便利な言葉だ。漢字ふたつによる、どんなに小さな具体物にも、あるいはどれほど大きな概念にも、ごく気楽に、しばしばうかつに、使われることの多い言葉だ。この言葉がすでに死語だと僕が思う根拠は、なになのか。

 ワード・プロセサーの画面にある故郷という言葉を見ながら、これはいったいなになのか、と僕は思う。故郷という言葉よ、こんなところでいま頃なにをしているのか。いまはもう、どこへ出ても場違いではないのか。きみの居場所はどこにもないよ。と、僕は故郷という言葉に言う。

 どうにも使いようのない言葉でありながら、そして僕は死語だと言うけれど、いかにうかつに使っても文句の出ない言葉だから、故郷という言葉はいまでも頻繁に使用されている。実体を持たない多くの漢字言葉がそうであるように、故郷という言葉もイメージの喚起力だけは強い。しかし、故郷という漢字を見ても、いっさいなんのイメージも喚起されない人は、いまの日本には多いはずだ。

 故郷をひとまず置いて、田舎という言葉について考えてみたい。これもいまとなっては奇妙な言葉だ。自分に関して田舎という言葉を使われるのを嫌がる人が多いから、使わないようにしているうちに現実のなかでなんとなくなじまなくなってしまった、というような意味で奇妙なのではなく、時間的に相当にさかのぼった昔のことを書くとき以外に、本来の意味での出番はないという意味において、田舎という言葉は奇妙なのだ。

 田舎という言葉は、いまはどのような意味を持っているのか。端的に言って、東京以外のすべて、というような意味ではないか。大きな建物がたくさんあり、夜遅くまでさまざまに電車が走り自動車がいきかい、どこへいっても店があり、にぎやかに照明が輝き、多くの人たちがいたるところに歩いていて、ぜんたいとしていつも祭りのようであるのが東京だとすると、東京といくつかの都会以外のすべては、その反対だ。

 町などないに等しく、明かりは数少なく人は歩いていず、あるかなしかの店はみんな閉まっていて、なにもない寂しいところ、それが東京といくつかの都会以外の、すべてだ。にぎやかな大きな都会ではないところ、それが田舎という言葉の、いまの意味だ。本来の意味も価値もすっかり失ってしまった田舎という言葉は、都会ではないところ、という意味しか持っていない。

 内容的に、質的に、本来の正しい田舎というものは、もう日本にはない。東京への一極集中の歴史は、明治からたどるとしても、すでに充分に長い。一極集中させようという官僚による統制の試みは、大成功をおさめた。東京への集中がここまで完成しても、田舎は依然として田舎である、というわけにはいかない。

 あらゆる情報の発信源は東京である、というありかたが完成しただけではない。いったん発信されたなら、瞬時にして日本の隅々にまでいきわたるシステムが、完成した。そのおかげで、人々の気持ちのありかたとしては、日本のどこもみな東京となった。人が歩いていず、暗くて寂しくても、東京への一極集中に完全にのみこまれたという意味で、日本のあらゆる部分が、質的に東京となんら変わらない世界となった。

 現実の場所としての東京が、かろうじてどうにか、ほかのどこでもない東京だ。そしてそれ以外のすべての場所は、場所としては東京ではないけれど質的には東京だから、したがって日本のどこに対しても、田舎という言葉は使いにくい。

 ここは田舎ですよ、と日本のどこで言われても、ここも東京だよ、東京から離れてるだけの東京だよ、という感想を僕は持つ。離れてはいても、遠くはない。情報の伝播力はきわめて速い、多数の人々が日本中を頻繁にいきかっている。東京からの発信に動かされやすいという意味でも、日本のどこも東京にごく近い。

 東京への一極集中の最終的な結果として、日本から田舎が消えた。あらゆることに関していろいろと遅れた場所、という意味の田舎があるが、遅れているということで言うなら、東京もおなじようなものだ。出身地、あるいは、都会地ではない生まれ育った場所、という意味の田舎もある。そのような意味をあらわす言葉として、便宜的に、あるいは昔の名残として、田舎という言葉がいまも使われているだけだ。

 心理的な抵抗をなんら覚えることなく、故郷という言葉をいまも使うことが出来るかどうか。なにごとかを大きく無視しないかぎり、あるいはどこかに大きな無理をしないかぎり、故郷という言葉はもう使えないのではないか。日本全国が質的に東京となんら変わらないとき、故郷という言葉をどう成立させることが出来るか。故郷とはどんな意味ですか、と外国の人に質問されたと想定して、どんなふうに答えればいいのか。

 生まれ育った場所をあとにして、東京へ、あるいはほかの都会地へ、あるいは都会ではなくてもほかの場所へ、なんらかの都合で出ていった人が、帰りたくなったときに帰っていくと、懐かしい人たちが昔のままに自分を迎えてくれ、子供の頃となんら変わっていない、安定して豊かな、静かに落ち着いた時間がゆったりと流れている愛しい山や川が、自分を優しく抱きとめてくれるところ。

 平均的な回答として、これは一例になり得る。こんな場所が、いまの日本のどこにあるというのか。こういう場所の意味や価値をかたっぱしから破壊して消していったのが、戦後の日本だったではないか。こんな場所を日本のなかにいまも持っている人が、どこにいるのか。そんな場所はないと僕は思うから、故郷という言葉は死語なのだ。

(2)につづく[全2回]

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2000年 『坊やはこうして作家になる』 戦後 日本 東京 都市
2017年3月1日 05:30
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