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アロハ・シャツの歴史を旅する

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 いまから十二年くらい前、アロハ・シャツの起源とその後の展開、つまりアロハ・シャツの歴史に関して、ぼくはハワイで調べたことがある。ふと思いつき、面白そうだったのでちょっとやってみたのだ。人を訪ねまわることはせずに、図書館や博物館に日参しては、文献および写真資料だけを頼りに、アロハ・シャツの歴史をぼくは調べた。たいへん面白かったし、それまで知らなかったいろんなことがわかり、ふと思いついてやってみたこととしては、たいへんに実りが大きかった。このときのことは、一篇の物語にして、そのうちに書こうと思っている。

 文献および写真だけによるリサーチによっても、アロハ・シャツの歴史は、ほぼつかまえることが出来た。歴史だけではなく、アロハ・シャツというもののたとえばコレクションとしての対象などについても、よくわかった。一九二〇年代から一九五〇年代いっぱいにかけての四十年間にハワイおよびカリフォルニアで製造されたアロハ・シャツのうち、上出来のしかも保存状態のいいものは、いまではほとんどすべてコレクターの手に渡っている。

 この時期のアロハ・シャツはハワイにもカリフォルニアにもすでにない。しかし、アメリカ各地の思いがけないところにすこしずつまだ散在していて、これをいまコレクターたちは狙っている。一九三〇年代の終わりごろから、ハワイはまず最初にアメリカにとっての観光地となった。ただの観光地ではなく、太平洋のまんなかの、トロピカルなアイランド・パラダイスとしての観光地であったから、たとえばおみやげ物は、サウス・シー・アイランド・パラダイスをひと目で具現させてくれるようなエキゾチックなものでなくてはならず、そのようなおみやげ物のチャンピオンは、観光化のごく初期から、ハワイアン・シャツだった。アメリカ本土からやって来た白人のヴァケイショナーたちは、それぞれにハワイアン・シャツを買って帰った。カジュアルなスポーツウエアがいまほどは広まっていない時代だったから、色鮮やかで大胆なデザインのハワイアン・シャツは、ハワイ以外では身につけるチャンスがまずない。したがって、再びハワイへ遊ぶときまで、クロゼットの奥深くにモスボールとともにしまいこまれたままとなってしまう。

 このような、ヴァケイショナー持ち帰りのヴィンテージ・アロハが、まわりまわって古着ブティークに出て来る。いまコレクターたちがもっとも鋭く狙っているのは、このようなハワイアン・シャツだ。

 コレクションの対象としてのハワイアン・シャツは、非常に面白い。いろんな角度から、コレクションにアプローチすることが出来る。たとえば、一九五〇年代のアメリカ映画の最高傑作のひとつである『地上より永遠に』という映画には、ニューヨークのシスコという有名な会社がつくったハワイアン・シャツが、メイル・キャストに提供された。モンゴメリー・クリフトやバート・ランカスターが着たのも含めて、このときのメイル・キャスト用のハワイアン・シャツは、その大部分がコレクターの手に渡っている。ハリウッド映画のなかに使用されたハワイアン・シャツを専門に収集しているコレクターがいるのだ。

 カリフォルニアからハワイまでのたとえばマトソン・ラインの客船内の売店だけでしか手に入らなかった一九三〇年代のハワイアン・シャツのコレクション、などというコレクションも存在する。当時のハワイ航路の豪華客船の一等ダイニング・ルームにおけるメニューの表紙を飾っていた、たとえばフランク・マッキントッシュの優美な絵をそのままパタンの一部として使っている美しいシルクのハワイアン・シャツが、そのようなコレクションのなかには新品同然のミント・コンディションで存在するという。

 ハワイアン・シャツの現物のコレクションは、こんなふうに、きりがない。しかし、文献と写真とによるリサーチでは、ハワイアン・シャツのおおよその起源も、そしてその後の展開の歴史も、かなりのところまで精緻に追いつめることが出来る。ハワイアン・シャツのそもそものはじまりは、キャプテン・クック以降、主としてアメリカからハワイにやって来た白人宣教師たちの、現地住民たちの裸体に対する驚きだった。

 現地住民といえども布切れを身につけてはいたのだが、白人宣教師たちの目には裸体同然だった。この、「野蛮なる異教徒の裸体」に宣教師たちはとりあえずごく簡単なつくりの服を着せた。その服のトップは当然シャツであり、ハワイアン・シャツはここからはじまった。裸体を服によっておおいかくすことと同時に、現地住民たちは、働くということを教えられ、強制された。したがって宣教師たちによって彼らが着せられた簡単なシャツは、裸体をかくすための服であると同時に、作業衣でもあった。その後ハワイアン・シャツの歴史は、宣教師によって異教徒が着せられた作業衣が、たとえばシルクの上に五色のカラーによる複雑な模様のハンド・スクリーンというようなレジャー・ウエアへと、いかに美的に作業衣から遠のいていったかの歴史であると、大ざっぱには言いきっていいとぼくは思う。ハワイアン・シャツの歴史は、ハワイがその歴史のなかで外部から年代順に受けて来たさまざまな影響の歴史だ。

 現地住民たちが裸の体をかくしなおかつ仕事というものをするために着せられたシャツは、そのつくりがあまりに簡単であるから、そのようなシャツがなにをモデルにしたものか調べてもあまり意味はないと思うのだが、北アメリカのオレゴン街道やオーヴァランド街道を東からえんえん陸路でカリフォルニアまで来た人たちがよく着ていた、サウザンド・マイル・シャツ(千マイルを旅しても破れないシャツ)が原型となっているという説もある。

 作業衣としてのシャツをつくったり、宣教師たちの簡素な服をコピーしてハワイの人たちが着るものをつくっていたのは、中国や日本のハワイに渡った人たちのなかの、服の仕立てのできる人たちが多かった。このワーク・シャツにほどこされた最初の模様プリントは、ぼくがオーセンティック・ハワイアン・プリントと自分ひとりで呼んでいる、宣教師到来以前からハワイにあった伝統的なパタンの模様であったにちがいない。

 木の皮を叩いてつくったタパという布のようなものに、主として植物の染料を用いて型押しするようにプリントしていた模様だ。博物館へいくと、このタパ・プリントの古いものを見ることが出来る。色はいまではくすんでいるが出来たてのときは鮮明であり、色使いには厳しいルールがあった。パタンは渋く、同時にたいへん洒落ている。

 コットン、シルク、そして一九二四年にデュポンが世に出したレーヨンを生地として、一九二〇年代後半からの観光化と同調しつつ、ハワイアン・シャツ独特の美しい色とパタンのシャツが大量に生み出されていく。ここからのハワイアン・シャツの歴史は、ぼくのリサーチだけでも材料がありすぎるため、手みじかにまとめるのはかなりむずかしい。

 いまハワイアン・シャツに対して興味を持つなら、やはりデザインからアプローチするのが正解だろう。デザイン的に見てハワイアン・シャツは非常に面白く、アメリカにおけるハワイアン・シャツのコレクターにはデザイナーが多い。『ザ・ハワイアン・シャツ』という本を出したトミー・スティールも、そんなコレクターのひとりだ。

 ロサンジェルスのグラフィック・デザイナーであるスティールの名は、ロック音楽のLPジャケットで知っている人も多いだろう。一九二〇年代から現在にいたるまでのハワイアン・シャツ一万点をカラー・スライドに撮って彼は持っているそうだ。上出来のハワイアン・シャツをカラーで数多く紹介しているこの本、『ザ・ハワイアン・シャツ』は、デザインというものに興味のある人にとっては、マスト・アイテムだろう。

『紙のプールで泳ぐ』新潮社 一九八五年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 一九九五年

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170106|ホノルルのムサシヤ・ショーテン|アロハ・シャツと日系移民

今日の一冊|『アロハ・シャツは嘆いた』

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観光地化する以前のハワイ。その類まれな美しさを象徴する1つの実物として、アロハ・シャツ、というものがある。

タグで読む02▼|あと少しお正月。クリックでハワイへどうぞ。

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1985年 1995年 『紙のプールで泳ぐ』 アメリカ アロハ・シャツ ハワイ 日系 片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』 移民
2017年1月6日 05:30
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