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静止と列挙と固い枠

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 日本語の文章は、それがどれほど複雑なかたちのものであっても、核心に向けて削り込んでいくと、最終的には「—は—である」という構造にまで還元することが出来るという説を僕はかつてなにかの本で読んだ。僕にとってはたいへん気になることだから、大切なものとしていまも記憶している。

「—-は—である」という構造が、ふたつの「—」が対等に対置されている構造であることは、見ればすぐにわかる。ふたつのものが対等に対置されると、それらはそこで静止する、と僕は思う。「—-は—である」という構造は、静止力そして静止感を強く持つ。なにごとであれ、「—-は—である」と言いあらわされたとたん、言いあらわされたことすべてが、いったんはそこで静止する。

 ものの表現のしかたの核心として、日本語が「—-は—である」という構造を持っているとは、「—-は—である」というもののとらえかたと言いあらわしかたが、日本語にとっての基本的な性能である、ということにほかならない。日本語で言いあらわされる世界の基本は、対等に対置された関係が作り出す、強く静止した状態なのだ。日本語によれば、現状とは、いまここに静止して存在するこの状態、というものを意味する。

 日本語は話し手を世界の中心に据えた言葉だ。なにごとも話し手の視点でとらえられ理解され、すべての表現はその話し手の認識からなされる。そのような話し手が、「—-は—である」という構造を、自国語ゆえの無自覚さで使っていくとき、その構造に託されて表現される内容のすべては、ごく無理のない成りゆきとして、話し手の主観に立脚したものとなる。話し手の主観からなされる、話し手の主観だけを内容とした表現だ。

 そのときどきの視点のとりかたのままに、気持ちのおもむくままに、話し手は自分の主観を自在に操り、それを言葉にしていく。主観というものは、じつは、充分すぎるほどに固い枠なのだ、と僕は思う。話し手の主観を受けとめる人は、話し手の主観という固い枠を、ひとまずは否応なしに、強制されることになる。

 話し手の主観というこのような枠は、他者をなんら考慮することなしに、話し手の内側に成立する。だからその枠は、閉鎖性そのものだ、ととらえることが可能だ。「—-は—である」という構造は、ひとりの人の主観という固い枠の内側における、閉鎖的に認識された世界を表現するためのものだ。もっとも極端な例をあげるなら、「白は本当は黒である」というような、話し手の主観のなかでしか成立しない認識の表現だ。

「—-は—である」という構造は、ものごとをただ列挙していく構造だ、ととらえることも出来る。たとえば英語におけるように、言いあらわされる事柄が前へ前へと前進していき、文章ごとに変化がもたらされるのとは正反対に、日本語では、「—-は—である」という構造とその性能によって、ものごとの静止した状態の列挙が続いていく。

 列挙されていくだけの静止したものごとには、ときどき注意を向ければそれで充分だ。のんびりしていることが許される。気を抜いた状態が、通常の状態となる。これに慣れてしまうと、急激にしかも複雑に変化していく状況を的確にとらえて表現することが、大の不得意という習性になるのではないか。

「—-は—である」という構造によって対等に対置され、なおかつ静止した状態でものごとが列挙的に表現されていく日本語世界は、たいへんに固い規則正しさという枠によってすべてが運営されている世界である、という視点も成立する。

 日本語で言いあらわされることはすべて、枠のなかに入っている。日本語がもっとも無理なく言いあらわすことの出来る世界とは、あらゆる領域で待ちかまえている、無数の固い枠にほかならない。自国語の基本的な構造とその性能は、それを常に無自覚に駆使するその国の人たちの精神に、もっとも深いところで、そしてもっとも自覚しにくいかたちで決定的な影響をあたえる。

 言葉で言いあらわされるあらゆることが、どれもみなそれぞれに枠のなかに収まるのだから、人もまた最初から所定の枠のなかにいる、と考えていいと僕は思う。人は枠というものを受け入れ、その枠のなかで、枠のままに、枠とともに、存在する。いつ、どこでも、どんなときにも、人は自分専用の枠のなかにいれば、それでいい。

 日本語の性能の基本である、固い規則正しさという枠と表裏一体に存在するのは、規則正しさの枠に収まらないものすべてに対する、強い排除力のともなった閉鎖性だ。日本語にとってもっとも基本的な表現能力である、「—-は—である」という構造によってものごとや事柄などが言いあらわされるときには、静止した状態の列挙がなされ、この静止した状態の列挙は、主観という固い枠のなかでの認識にもとづいておこなわれる。

 表現されるものすべては、固い規則性の枠のなかに収まる。表現されればされるほど、固い規則性という枠が増えていく。表現活動は人がおこなうものだ。だからなによりもまず先に人こそ枠のなかにいる存在なのだ。

 日本語による表現はこのような枠の内部でなされ枠の内側においてひとまず完結する。日本語は内側のために奉仕する内向きの言語だ。日本語が持っている表現能力の駆使のされかたの現実において、もっとも大事なのはこの内側という世界なのだ。当然の結果として、外に対する基本的な態度は、排除的な閉鎖性だ。

 日本におけるひとりの人のありかたの基本は、誰もが自分ひとりだけの専用の枠のなかに、常にしっかりと入っているというありかただ、と僕は思う。この意味では、日本人はたいへんに個人主義的な人たちだ。欧米に確立されているという個人主義と混同されないよう、孤独主義あるいは孤立主義と言っておいてもいいし、自分主義という言いかたもあるかと思う。

 どこの誰もが、ひとりずつ、「自分」という専用の枠のなかにいる。僕の観察によれば自分だけのためのこの枠なしでは、日本の「自分」という人は、安心して存在していくことが出来ないようだ。

 自分という人は、常に「自分」という枠のなかにいる。「自分」という専用の枠は、自分というひとりの人にとっての、すべての立脚点として機能している。自分という人は、その枠のなかから、すべてを見ている。なにをどう見るにせよ、「自分」という枠ごしに 「自分」という視点から、 自分」の主観をとおして、すべてのものを見る。

 自分という人は、あらゆるものを、そのときどきの「自分」という視点から見る。「自分」がそのときなにをどう見たか。「自分」がどのように感じたか。「自分」はそれをどう解釈するのか。それを見て「自分」はなにを思ったか。「自分」にとって、それはどう影響するのか、あるいはしないのか。「自分」にとってそれはどうあってほしいのか。すべての判断の基準は、あくまでも「自分」の感じかたにある。

 その「自分」にとっていまのところ関係はなく、将来にわたっても関係など持つはずもない人たちは、要するに赤の他人という、漠然とした多数だ。自分にとって関係のある人たちは、自分にとってどのような質と位置にある関係の人かを精緻に見定めたのち、どの人をも所定の枠のなかに収める。その枠と、自分の入っている枠との接近や接触が、他者との関係となっていく。

 すでに書いたような、英語における「アイ」と「ユー」のような自他の区別のしかたを、日本の「自分」という人は持っていない。英語の世界では、自分が発話者となるとき、その自分は絶対に「アイ」という人であり、ほかのすべての人たちは、ひとりずつでも大勢ひとまとめでも、「ユー」と呼べばそれで足りる存在だ。

 その「アイ」が、ほかの発話者の話を受けとめる側にまわるときには、「アイ」はくるっと反転して「ユー」となる。ひとりの「アイ」は絶対にひとりの「アイ」であると同時に、無数の「ユー」でもある。

 英語の世界で人々がいつも使う言葉のなかに、自分と他者との、ひとまずは完璧と言っていいこのような純粋に一対の関係が、大原則という種類の基本性能として、内蔵されている。英語という言葉が持つこのような性能は、たとえば公共性といった価値を、理の当然としてなんの無理もなく生み出す。

 日本語の性能のなかには、自分と他者とのこのような完璧な反転の関係は、まったくない。自分は他者のどの人でもあり得るという、抽象と具象のみごとな中間での、自分と他者との公共性は、どこにもない。現実の問題としては、その完全な逆があるだけだ。

 そのことの当然の結果として、自分と他者との関係が公共性という価値の出発点として機能するといったことは、誰も思いもつかない。さんざん説明されてやっとわかるかどうかという現状のなかにとどまり続けるほかない。

 日本の「自分」という人は、いつも専用の固い枠のなかにいることによって、欧米の個人主義とは異なった質とかたちで、すべての他者から常に画然と隔たっている。自分はあくまでも「自分」という人であり、その「自分」は常に自分専用の枠のなかにいる。枠の外へ出てくることはない。

 だから常に自分専用の枠のなかにいる「自分」をめぐって、他者との真の連帯は成立しにくい。「自分」という人はみごとに孤立している。寂しく不安な「自分」にとっての基本的なありかたは、誰もがそれぞれ「自分」という枠に入ったままおこなう、他者との横ならびの確認の日々だ。

 規則とは固い枠だ。日本語によるものの言いあらわしかたの能力の、もっとも基本的なかたちが、「—-は—である」なのは、ひとつの規則だ。人が常に入っている「自分」という枠も、人のありかたに関する第一の規則として、機能しているはずだ。規則は固い枠であり、人はそのなかに囲い込まれる。

 日本語世界のひとつの際立った特徴は、固い枠としての規則性の内部に、人々は囲い込まれているということだ。頭で考えたことを言葉で言いあらわしていくとき、その言葉を音声にしていく音に関しても、たいへんに明確な、それゆえに固いと表現するなら存分に固い規則が、日本語にはある。

 日本語では、すべての音がと言っていいほどに多くの音が一音節に発音される。ごく普通の出しかたの音はもちろん、長くのばす音、短く詰まる音、撥ねる音など、すべての音がおなじ長さで発音されそのどれもが一音節となる。そして、この一音節がふたつ集まって、二音節という一対の音を作る。この一対の二音節という規則が、日本語の音の基本的な一単位として、機能している。

 日本語の音の基本的な一単位とは、それを音声にしたときに、日本語の音としてなんの抵抗もなしに受けとめてもらえる音の、最小単位という意味だ。音声にする人もそれを受けとめる人も、慣れ親しんだ日本語の音として、安心しきって口から出したり耳で聞いたりすることの出来る、機能上の、そして気持ちの上での、音の最小単位だ。

 「カ」という一音節の音ひとつだけの言葉、たとえば「カ」と発音されるひとつの漢字は手もとにある用字用語辞典を見ると、四十六もある。しかし、「カ」という一音節の音ひとつを音声にしても、通常は日本語の音として機能しない。「カ」という一音節の音ひとつが言葉として機能する場合を想像すると、「これはいったいなにに刺されたのかしら」と訊く人に対して、「蚊」と答える場面しか僕には思いつかない。「タ」という音についても、まったくおなじことが言える。しかし、「カ」とタ」とが組み合わさり、「カタ」という一対の二音節になると、これは完全に日本語の音だ。

 カ・タ・オ・カ・ヨ・シ・オという僕の名を構成するどのひとつの音も、おなじ長さに発音され、どれもみな一音節だ。ただしどの音も一音節のままでは、日本語としての意味の発端を作れない。意味への手がかりを持った音の最小単位は、日本語では二音節だ。

 だから「カ・タ・オ・カ・ヨ・シ・オ」は、「カタ・オカ・ヨシ・オ◯」とならなければいけない。「カタ」や「オカ」のような二音節が、日本語の音の最小単位だ。「ヨシ・オ◯」の場合の「オ」は、「オ」という音のあとに、おなじ一拍の休止符がひとつある、と理解するといい。それは無音の音として「オ」と組み合わされて、「オ◯」という二音節の規則を守る。

 このようなルールをまったく知らず、したがってそのルールになんら縛られない人たち、たとえばアメリカの人は、英文字で綴った僕の名前を、「カタ・オカ・ヨシ・オ○」とはまず言えない。シンガポール空港の構内アナウンスで呼び出されたとき、アナウンスする係の女性は、アルファベットで書いてあったはずの僕の名を、「ケーイ・テーイオ・ケーイ」と発音していた。彼女も日本語の音を支配する規則に縛られない人であり、そのような人として僕の名をなんとか音声にしようとしたら、そうなったのだ。

 日本語の音の単位である二音節は、一音節の音がふたつ、均等に対置されているという、規則的な構造をしている。そしてこの二音節というひとつの単位は、日本語にとっておそらく唯一であるはずの、四分の四拍子というリズム規則のなかの一拍となる。「カタ」「オカ」「ヨシ」「オ○」で、合計すると四拍だ。日本語の音としてじつにきっちりとかたちの定まった四分の四拍子というルールのなかに、僕の名前という意味は固定されている。

 日本語の音は、四分の四拍子という固い規則によって隅々まで統制されている。日本語世界の人たちは、自分たちの言葉を支配する四分の四拍子という強固な音の規則性から逃れることが出来ない。言葉を音声そしてリズムの側面から固く強く統制しているこの規則性は、当然のことながら、思考のありかたの隅々までを支配する。きわめて強固な規則性、これが日本語による発想や思考の根底にある、と僕は考える。

 音の最小単位から思考や論理にいたるまで、四分の四拍子という規則性の内部に、日本語は完結している。この四分の四拍子のルールのなかには、さきほど書いたとおり、音のない部分が頻繁に登場する。音のない部分が一拍の休止符として機能していることは、日本語のルールの理解にかかわる、暗黙の了解事項のひとつだ。

 四分の四拍子という、規則性と完結性の高い日本語の音のなかで生きてきた人たちに、いくつものセンテンスが急速につながっていく英語の音声が、なかなか正しく聞き取れるものではないことは、たやすく想像がつく。聞き取れないし、自分でもとうてい正しく言えるものではない。日本語の四分の四拍子に対して、英語の音は比喩として徹底した四分の三拍子だとするなら、それは強弱の変化に富んだ、不規則性そのもののような音の連続に聞こえるはずだから。

(『日本語で生きるとは』1999年所収)

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1999年 『日本語で生きるとは』 日本 日本語 英語 言葉 関係
2016年11月19日 05:30
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