タイを買い替える、黒い綿ニットで最大幅は5センチ
一九六八年、梅雨の晴れ間、平日の午後、僕は神保町にいた。神保町の交差点を西へ渡り、白山通りを北へ少しだけ歩いて、脇道に入った。その道に面した喫茶店の客になった。長居のひとり客だ。なぜならその日の僕は、そこで原稿を書くことにしていたから。
広い店内の奥まった壁ぎわの席にすわった。ウェイトレスが水のグラスを持って来た。顔なじみの僕に彼女はごく淡く微笑した。水のグラスと引き換えのように、
「コーヒーを」
と僕は注文した。彼女は僕に向けてかがみ込み、低い声で言った。
「うちのコーヒーはただ…
底本:『Free & Easy』二〇一六年一月〜三月号