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わたしの片岡義男 No.2北條一浩「いくらなんでも六杯は多すぎる、と感じている凡庸な読者として」

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北條一浩(ほうじょう・かずひろ):
フリーのライター/編集者。著書に『わたしのブックストア』。取材・構成で『西荻窪の古本屋さん 音羽館の日々と仕事』、編集仕事は『冬の本』『いちべついらい 田村和子さんのこと』など。片岡義男.com 編集人。ツイッターアカウント @akaifusen
少しだけ身を剥がすことのできる場所

 片岡義男さんに初めてお目にかかったのは東京・町田の喫茶店だった。『洋食屋から歩いて5分』が出たばかりの頃で、著者インタビューのためだ。
「ここはね、駒沢敏器が教えてくれた店なんだ」。たしかぼくが、「ここにはよくいらっしゃるんですか?」とかなんとか、ありきたりなことを聞いた時に、片岡さんはそう言ったはずだ。あまりに緊張していてその日の会話のほとんどを忘れているけれど、ドトールコーヒーについて話す時に片岡さんがいちばん楽しそうだったことだけは、ハッキリ憶えている。


『洋食屋から歩いて5分』表紙
『洋食屋から歩いて5分』

 片岡さんとコーヒー、ということでは、もう一つ強烈な体験がある。始点の渋谷駅から終点の阿佐ヶ谷駅まで都営バスに乗った時、エクセルシオールでテイクアウトしたコーヒーを持って乗り込んだはいいが、最後部座席に座り、たった一口飲んだだけで残りをすべてバスの床にぶちまけてしまったのだ。この顛末は『本の雑誌』に掲載してもらったことがあるので詳しくは書かないが、その時、コーヒーと一緒に手に持っていたのが『ナポリへの道』だった。しかし、コーヒーを盛大にぶちまけたおかげで、隣に座った女性とその後ずっと、楽しく会話をすることができた。彼女は「これで拭いてください」と真新しいハンカチを目の前に差し出し、そしてこう言った。「料理の勉強をされているんですか?」

 そんな、1杯のコーヒーで思い出に浸っている男にとっては、片岡さんの短編『六杯のブラック・コーヒー』は、まるで遠いあこがれの世界である。アメリカの長距離トラック・ドライヴァーの時間を描き出したこの短編では、冒頭から、アメリカのハイウェイを襲うものすごい物量の雨水、そして死の描写に圧倒されてしまう。アメリカ、という国が北米「大陸」にあるという事実を端的に突きつけられるような文章の連綿とした連なりを、ただただ、時折瞬きしながら見つめるほかはない。

 あまりの非人間的な世界(自分で書いていて思うが、「非人間的」という言葉はあまりに非片岡義男的だ)からドライヴァーたちが少しだけ身を剥がすことのできる場所がドライヴ・インである。そこでアメリカのトラック・ドライヴァーたちは「ハムエッグにマッシュド・ポテト、クリーム・グレイヴィにひたしたパン、キューブ・ステーキ、グリーン・ビーン。ローラ・ベル・チェリー・パイにデキシー・アイスクリーム」という「ヘヴィな朝食」(書いただけで胸焼けがする)を取り、そしてそのあとで六杯ものブラック・コーヒーを飲む。

 六杯。六杯だよ。飲めませんよね? ファミレスのうすーいのでもムリじゃないかな。何倍飲んでもかまわないあのシステムで、どうせなら飲めるだけ飲んでやろうというせこい魂胆で、うすーいコーヒーをチマチマ飲んだとしても…… 六杯はキツい。

 しかし『六杯のブラック・コーヒー』という作品にあっては、ウエートレスのメイベルがドライヴァーのジョーのところにコーヒーを六回運ぶことに、何の不思議もない。メイベルはいつだって、六杯目のコーヒーをどのタイミングで運んだらいいか、ちゃんとわきまえている。
 大陸の、アメリカの広がりを、悲しみを相手にしている連中には、六杯くらいなければ足りないのだ。その荒野。空虚。風が、胃袋の中にまで広がっている。

 このエッセイが掲載される頃には、片岡さんの2018年最初の本が読めるようになっているはずだ。タイトルは『珈琲が呼ぶ』(光文社)である。

ライター/編集者 北條一浩

今回の一冊 電子版『六杯のブラック・コーヒー』(1973年)

『六杯のブラック・コーヒー』表紙

大陸の広がりを恋しはじめたら、
もうカウボーイなのだ

ドライヴ・インのウエートレスが運ぶブラック・コーヒー
北アメリカ大陸の途方もない距離と雨と風が相手の
長距離トラック・ドライヴァーには
六杯くらいはないと足りない

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2018年1月23日 00:00

わたしの片岡義男

不定期更新。作家、ライター、編集者……さまざまな立場から片岡作品への思いを語っていただきました。読んだことのある作品でも違った面が見えてくるかもしれません。