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名手が明かす“最高の小説のつくりかた” 第2弾

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2019年7月下旬、片岡義男の新作長編『窓の外を見てください』が発売になりました。翌月22日、下北沢(東京)にある本屋B&Bにて、刊行記念イベントが行われました。熱烈な帯コメントを下さった江國香織さんと、東京新聞文芸時評にて本作を絶賛してくださった批評家・佐々木敦さんとのトークイベントです。当日は、100名を超える超満員。スタッフの居場所さえもないような状況でした。熱い視線を浴びながら、お三方の話は弾みました。片岡さん自身の口から、どのように小説を書き上げたのかを聞ける場面もあり、内容の濃いイベントとなりました。
『と、彼女は言った』(講談社)刊行記念が第1弾。今回は同じメンバーで語り合う、第2弾となります。
片岡義男(作家) × 江國香織(作家) × 佐々木敦(批評家)

構成:講談社 映像:VOYAGER


映画化もされた『スローなブギにしてくれ』の衝撃から半世紀近く――。80歳にしていまだ旺盛に小説を書き続け、しかも物語も文体も変わらず瑞々しいままの恐るべき作家・片岡義男。そんな彼の大ファンであるという直木賞作家・江國香織と批評家の佐々木敦が、小説の書き方をめぐって語り合いました。創作に欠かせない「言葉の正確率」に「ストーリーの論理」って?印象的なタイトルの付け方にも迫ります!
長編小説の書き方

佐々木敦さん、片岡義男さん、江國香織さん佐々木:本日は片岡義男さんの『窓の外を見てください』(講談社)刊行記念ということで、江國香織さんと片岡さんをお迎えしました。3年半前にもこの3人でイベントをしていまして、その時はお二人の小説の書き方を根掘り葉掘りうかがいました。『窓の外を見てください』は長編小説なんですね。江國さんも最近『彼女たちの場合は』(集英社)という長編を刊行されたということで、今日は「長編小説の書き方」というテーマで進めていこうと思っています。まずは江國さんに感想をお聞きしたいです。帯文を江國さんが書いていらっしゃって、まるで小説みたいになっている(笑)。

江國:この作品の感想を言うのはたいへん難しいのですが、短編小説を書こうとしている作家が主人公で、彼がいかにして短編小説を書くかという思考が短編として並んでいて、それがひとつの長編になっている。この仕掛けへの驚きがまずありましたね。

佐々木:そもそも長編小説って、どう書くんでしょうか。

片岡:簡単ですよ。ずっと同じ主人公で短編をいくつも書けばいい(笑)。僕は長編小説が書けないんですよ。でも編集者からは長編を依頼されてしまった。最初の章を書いたのは昨年の5月頃なんですが、そのときは短編として書いていたんです。2作目も短編として書いたはずです。ところが3作目の途中で、さすがの僕といえども気がつくんですよ。同じ主人公でずーっと書いていけば、長編になるのではないかと。

(一同笑)

片岡:小説の主人公はいろいろな人と出会って、いろいろな会話をしなければいけない。会話がストーリーを前に進めてくれるわけですから。そこで、作家になったばかりの日高という主人公が誰に会えばいいかと考えるわけです。1作目は偶然の出会い、2作目では能動的にかつての友人に会いに行く。さて、3作目でどうするか。編集者の考えということにしてしまうのが一番いい。文芸雑誌の編集者が、「30歳の年齢差」というテーマの対談を思いつくわけです。主人公は30歳になったばかり、そこからの30歳差というと60歳、60歳の現役作家はたくさんいるから丁度いい、と考えるんですよ。それで2人が対談をするわけです。そんな調子で主人公がさまざまな人と出会い、会話をし、そうして出来上がったのがこの小説なのです。

奇妙な物体として残る小説

窓の外を見てください佐々木:窓の外を見てください』は、6つの短編小説とも言えるし、6つの章に分かれている長編小説とも言えますよね。あとは完成に向けて最終章まで書いていったんですか?

片岡:後始末をしなければいけないんですよ。短編のままいってもいいんだけど、長編的な終わり方をしたほうがいいかなと思ったんです。終わり方がちょっと変わっていて、日高さんという30歳の作家はこれから全体を書くんですが、全体を書かないといけないなと思うときには、その全体は読者の手元に本としてあるわけです。ですから彼は、書くぞ、と言いますけれど、書かなくていいわけです。

佐々木:もう出来上がってますもんね。

片岡:そういう仕掛けなのです。

江國:それってものすごいことですよね。読み終わった時にはこの本が不思議な、奇妙な物体として読者の手元に残るんです。片岡さんの本を読んでいるつもりでいたのに、日高さんの本を手にしているかのような感覚になる。トリッキーですよね。入れ子のようなところがあって、主人公の日常と、主人公が書いている、あるいは想像している小説の境界がわからなくなるところがある。先ほどお話に出た30歳年上の作家との対談「笑ってはいるけれど」は、この本の中で重要な位置を占めていますね。

片岡:重要です。60歳の作家が大変いい人です。あんな人がいたらいいですよね。

この冬の私はあの蜜柑だ江國:対談の最中に、新人作家の日高がそのまま小説として発表できそうな面白い話をたくさん教えてくれる。それがまたひとつの短編のようなんですね。数年前に刊行された、『この冬の私はあの蜜柑だ』(講談社)というタイトルの……タイトルだけでも10メートルは後ろにぶっ飛ぶくらいびっくりしますけど(笑)、そのご本の中に「フォカッチャは夕暮れに焼ける」という短編が入ってるんです。そこでも小説家が主人公で、2編のごく短い小説を編集者に渡すんです。「3編目もあるんだが、必要かどうか判断してくれ」とメールすると、読み終えた編集者から「2編で大変結構です」と返信が来る。だから3編目は物語上存在しないんですが、こういう感じの話だって5行ぐらい説明が書いてある。その5行をぜひ皆さんに読んでほしい。女の人が主人公で、外からお家に帰ってきてシャワーを浴びる。シャワーを浴びたあとシャツを羽織って椅子に腰掛けてスニーカーの片方に紐を通す。もう片方に紐を通す前にボタンを3つとめて、そしてもう片方にも紐を通す。それだけの小品である、と書いてあるんです。「それだけ!?」って思うんですけど、読むとその光景は一枚の絵のようでありながら、ひとつの小説になる要素があるなと分かるんです。ある意味ものすごい贅沢ですよね。そういうものを最近すごくたくさん書いてらっしゃいますよね。

片岡:楽だからですよ。

佐々木・江國:いや、楽じゃないですよ!(笑)

片岡:「フォカッチャ」は3つ書く予定でいたんですけども、書くのが大変だからひとつしか書かなかった。小説に書いてあるとおり現実にあったことなのです。

江國:ここで騙されないようにしたいです(笑)。前回ちょっと騙された感が残ったので。

片岡:騙し方がまだ下手なのかなぁ……。

鉄火巻は「接近する」

江國:片岡さんの小説を読んでいると、いつも痒いところに手が届くような正確な描写が気持ちいいんです。「冷蔵庫を開けた」と書いてあったら閉めるところまでないと、私は気持ち悪いんですね。そこを割愛してあると「開けたままなのかな?」と思ってしまう。常識的に考えれば分かるんですが、どうしても気になる。そういう部分が片岡さんの小説にはなくて、開けたものは完璧に閉じられているんですね。もちろん省略もたくさんあるわけだけれども、必要なものがすべて入っている。私はその正確さに胸打たれるんです。今回の小説の中だと、「笑ってはいるけれど」で、年上の作家が話す昔話。貧乏学生が火鉢のあるアパートに住んでいる。「こんな状況で若い男がひとりでいたら想像するしかないからね。なにを想像するのか。なんだと思う」と、年上の作家が主人公に聞く。そして返事を待たずに「鉄火巻きだよ」と。彼は鉄火巻きが好物で、お腹が空いていて、お茶と一緒に鉄火巻きが食べたい、と。そのあと鉄火巻きの食べ方についての描写があるんですけど、お醬油を鉄火巻きにビショッとつけてはいけない、端っこにちょっとつけるんだよ、と言った時に、「醬油に対して鉄火巻きが斜めに接近していくのですか」と日高が聞くんです。私この一行、手帳に書き写しちゃったんですよ(笑)。それに対してさらに答えがあって、「丸い小さな皿の、ほぼ垂直に立った縁に、鉄火巻きを斜めに当ててから、醬油に向けて鉄火巻きをさらに下げればいい」。

佐々木:なんだか科学の実験みたいですね。

江國:「皿の縁を利用するのですね」という相槌を打つと、「皿にある醬油のまんなかに鉄火巻きを垂直に降ろしてはいけない」というふうになる。その動作や意味はもちろん分かるし、多くの人が醤油がつきすぎないように似たような動作をしてるわけですけど、それをこういうふうに言語化する。普段何気なく自分でもやっていることを「接近していく」という言葉にする。「接近」ですからね。

佐々木:鉄火巻が接近していくんですね、醬油に向かって。

江國:SF映画みたいですよね。現実がどうか、何が書いてあるかよりも、言葉にした時に何が発生するか、言葉になった時に何が見えるか、ということなんです。

「正解」の言葉を探して

片岡義男さん、江國香織さん片岡:「接近」という言葉を使った時は、多少考えた記憶がありますね。鉄火巻きを斜めに皿の醬油に近づける、その動作を何と言えば良いのか。醬油を付けるわけではない。醬油の皿に向かって鉄火巻きをどうするのか。

江國:これを読んだ人の少なくとも一部は、これから海苔巻きを食べるたびに、「接近」って思うんじゃないかな。それって、ささやかですが大きいことであって、お寿司を食べるうえでの自分の人生に「接近」という言葉が加わってしまうわけですよね。これからは醤油をつける動作をするたび、「接近」以外の何者でもなくなってしまう。書く時に考えてそれを選び取るというか、その言葉のほうがむしろ片岡さんに接近してきたに違いない。

片岡:そう、「接近」しかないんです。色々考えて言葉の候補が上がったわけではなくて、何と言えば良いのかなという空白状態が続いて、その空白状態の中に「接近」という言葉がある時に浮かんで、それをそのまま使ったわけです。言葉は不便ですよ。「接近」としか言えないのですから。

江國:いま新たにちょっと驚いたのは、「接近しかないんです」っておっしゃったこと。「接近だと思ったんです」でもなく、「接近がいいかな」とかでもなく、「接近しかないんです」っていう。もちろん言い換えることは可能だけれども正解というものがあるはずなんですよね、言葉には。その正解を探すこと、見つけることが、私も書いていて楽しいんです。

佐々木:江國さんも、ストーリーの進行からしたら細部に属することかもしれないけれど、どの言葉を使うのかですごく悩むということがしばしばあったりするんですか?

江國:ありますね。やっぱり私も自分にとっての正解を諦めたくないので。私の場合は悩むというより、どこかに正解があるはずだと思って、手探りで書いている感じがあります。

作家志望必須の一冊!?

江國:帯文にも書きましたが、作中にきび団子が出てくるじゃないですか。ちょっとだけで、本筋にはほぼなんの関係もない。でもそのきび団子も破壊力抜群なんですよね。あと、会ったばかりの女性が、助手席に乗せてもらっている立場で、「ちょっと石鹼を買いたい」って寄り道させるシーン。

片岡:東急ハンズです。あれは町田です。

江國:登場人物あるいは作者のひらめきというか、跳躍力がものすごい。きび団子には打ちのめされました。あれは考えて出て来るものじゃないですよね。

片岡:その女性は、これから一軒の家に住むことになるわけなんですね。その時に必要なものがある。石鹼が一番くせがなくていいかなと。水と石鹼成分だけの石鹼。

江國:それがぜんぶ正解なんですよ。あそこはきび団子しかない、温泉まんじゅうではだめだし、石鹼もシャンプーではだめ。

片岡:それは多少意識してるかも知れないですね。正しいもので揃えようという意識はあるかも知れないな。正しくないものが突然あったら、そこで論理が乱れるわけですよね。ストーリーごとに論理がありますから。その論理に沿って登場する人物たちは動いたり会話したりしてるわけだから、その論理に逆らうようなものが登場したらいけない。

佐々木:言葉を1個間違えただけで違う感じになっていっちゃう。

片岡:ほとんどの読者は気が付かないかもしれないけれど、書き手である僕は気が付いてるわけです。間違わないようにいきたいなと思っています。間違っているケースもたくさんあると思うんですけれど、幸い誰も気が付いていない(笑)。石鹼は正解です。きび団子も正解です。きび団子は男性が言うんですよ、セリフとして。きび団子そのものが出てくるわけじゃなくて。男性の性格の表現なんですよ。あそこで「きび団子」という言葉が出てくる男性の性格。

佐々木:その人の描写にもなってるんですね。その人がどういう人なのか、どういう言葉を使うのかっていう。

江國:それに対する女性の反応によって、女性がどういう人であるかもわかる。

佐々木:言葉が玉突きみたいになって、1つ使われるとそれに反応していって、また反応していって……と進んで行く。2ミリずれていたら違う軌道になるかもしれないけど、うまくいったときにきれいに入る。片岡さんの小説を読んでいると、いつもこれしかないよねという心地よさがありますね。

江國:ほんとですね。『窓の外を見てください』は主人公が作家で、短編小説を書こうとしているがゆえに、いろいろ書き上がるまでの過程をつまびらかにしているでしょう。小説家志望の若い人が読んだら、「なるほど、自分でも書ける」と思っちゃうかもしれない。

佐々木:僕も、小説の書き方を学ぶためには絶好のテキストだなと思いました。

江國:ただ、もちろん書けるわけはなく、そのこともちゃんと「笑ってはいるけれど」で書いてらっしゃるんですよね。「笑ってはいるけれど大変ね」って。でも、書きたい人が教科書のような意味も込めてこの小説を読んだとしたら、素質は底上げされると思います。ちゃんと読めば、ちょっとよくなる。

ストーリーの論理

佐々木敦さん、片岡義男さん佐々木:片岡さんの小説ってほとんど毎回のように登場人物や主人公が電車に乗ってどこかに降りたりするんだけど、読む側はまた同じことを書いているというふうには思わない。不思議ですが、書き方が少しずつ違っていたりするんでしょうね。

片岡:そうですね。その主人公の状態によって違いますから。ストーリーの論理に合わせて書いてあるわけです。ですから一番大事なのはストーリーの論理かな、という気がします。

江國:そのとおりだと思います。ただ、ストーリーの論理はそのストーリーに固有のものですよね。ストーリーの論理ってどういうものですか、どうやるのが正解ですかっていうことは言えないし、わからないわけですよね。でもすべての小説に論理が必ずあるわけでしょ。それを歪めてしまわないように作者は書いていかなくちゃいけない。片岡さんの小説は、その正解率が極めて高いんです。

佐々木:正解率!

江國:論理を歪めない率というか、論理見出し率と言ったほうがいいかもしれない。電車に同じように乗っても、しかも場所もだいたい下北沢だったり、梅ヶ丘だったりが多いですけど、それでも既視感がないのはその論理が無傷だからなんです。物語って一回性を持っているわけですよね。その物語の一回性が無傷だから、たとえ10話に同じ場面が出てきても、それぞれが1回しかないというのがとても伝わるんですよね。

片岡:どのストーリーも1回しかないんです。同じことを2度は書かないですから。それが1番僕にとっては大きいかな。同じことを書いていたらとてもやってられない。

佐々木:ストーリーの論理というものは、1つずつ、同じ小説家の方でも、1つの小説に最低1つの論理があって、1個1個全部違っている。でもトータルに見た時にその小説家ならではの論理性みたいなのがあるんだろうなって、読む側の方は思ったりするんです。でもそれって、書いてる時に、あるいは書き出す前に、もう論理としてはっきり見えているわけじゃないですよね。書いていく中でその論理はどう出てくるのか、どこにあるのか、すごく気になります。

片岡:ストーリーの論理は、おそらく最初からあるんだと思います。書き手が自覚していないだけで、決まったところにそれはあって、決まった方向へ向かっていくのです。気がつかないで書く場合が、ひょっとしたら多いかな。途中で、「ああ、こういう論理かな」と気がつく。ですから後半と前半で言葉遣いが違っているかも知れない。

佐々木:ああ、途中まではまだ手探りというか。

片岡:普遍性のある、汎用性の高い言葉を使っているはずです。

佐々木:何かがフォーカスされていくということによって後半に向かう。

片岡:その場でしか使えない言葉を使っている、ということもあります。

物語の邪魔をしない書き手

佐々木:江國さんはどうですか?

江國:私はストーリーの論理という言葉で思ったことはないですけれど、すべての小説には行くべき場所があるとは思っていて、作家にできるのはそれの邪魔をしないことですね。だから私は観察しながら書いていって、自分の都合で何も動かさないようにっていうことに気をつけています。行くべき場所、それから選ぶべき言葉、ちっちゃい場面に至るまで、例えばある登場人物が喫茶店に入ってコーヒーを飲むのか紅茶を飲むのか、にも絶対に正解がある。その小説なりの、あるいはその場面、その人にとっての。そのいちいちは間違えたくないですね。それが小説の、ストーリーの論理なんだろうと思うんですね。

片岡:そのとおりです。

江國:それは行くべき場所というふうに私は今まで思っていて。すべての小説には行き着くべき結末があって、と。ただ私はその結末を長編の場合特に、まったくわからずに書いていて。

佐々木:あるんだけど、自分がわかっているわけじゃないんですね。

江國:決めずに書くんですね。長編を書く時にある程度プロットを立てるっていう作家の方もいらっしゃいますけど、私はそれがだめで、最初、あるいは小説が始まる以前のことだけを決めて。登場人物がこうで、両親がこうで、お友達がこうでみたいなことを決めたら、そして何が起こるか、どこに行くかはわからないまま書くんです。でもその時から行くべき場所は絶対にあるはずなので。

佐々木:その確信はある。どこかはともかく。

江國:はい。どこかはわからないけれど、全部を、コーヒーなのか紅茶なのかを間違えずに書けば、赤い服を着てるのか青い服を着てるのかを間違えずに書いていけば、必ず正しいところにたどり着けると思って書いてるんです。それがたぶん、片岡さんのおっしゃる論理に近いものなのだと思います。

片岡:それはいいですね。自分の都合で変えたくないっていうのは、大変いいです。というのは、自分の都合で好き勝手に書いてる人たちが、大変多いと感じているからです。

佐々木:作者だからって好き勝手しちゃいけないんですね。

片岡:そうです。だから、書き手はストーリーの邪魔をしてないわけです。大変いいですよ。江國さんは書き手の見本みたいな人です。

小説にとって「移動」とは

彼女たちの場合は佐々木:江國さんが今年刊行された『彼女たちの場合は』という長編。僕は非常に感動しました。

江國:ありがとうございます。

佐々木:行き先という言葉と具体的に整合性がある小説です。これは、2人のアメリカに住んでいる10代のいとこ同士の女の子が家族に黙って家出というか、旅に出ちゃう話で、アメリカの中をいくつも移動していく。いまのお話だと江國さんは、最終的にどんな風になるか決めて書いていったわけではなく、むしろ書きながら色々と決めていらっしゃったと思うんですよね。片岡さんの小説の特に前半、日高が移動するじゃないですか。ベンツの車で、地方に住んでいる広島と呉と尾道。その3ヵ所に住んでいる、女性の友人を訪ねる。奇しくもお2人とも最新の長編小説が、「移動する」んですね。小説の中で登場人物が実在の場所に向かうということと、小説がどこに向かうのかというストーリーの論理がどんなふうに関係しているのか、気になるんです。具体的な場所が持っている力とか、そこに実際に移動するということが、小説自体に影響を及ぼしたりするんじゃないかと思うんですが、片岡さんの場合は、なぜこの3ヵ所を選んだんでしょう。

片岡:僕が一応は知ってるからです(笑)。それから、近くにまとまってた方がいい。鳥取や下関もいいんですけど、ちょっと外れすぎかと思います。かつて東京にいて仕事をしていて、日高さんとは仕事を通して付き合いがある3人の女性。彼女たちに順番に会ってみたら何かストーリーがあるのかなと彼は思うんですけれども、実は3人に会うだけで十分ストーリーなんですね。

佐々木:会いに行ったら小説になるんじゃないかと思って本当に会いに行ったら、これで十分小説になるよねって思っている人の話ですもんね。ややこしいですけど。(笑)『窓の外を見てください』を読んでいると、頭がグルグル回る感じがするんですよ。一種のメタフィクションになっているんだけど、非常に自然なんです。自然なんだけど、実はややこしいことがいっぱい起きている。

トリッキーなのに自然

佐々木敦さん、片岡義男さん、江國香織さん江國:そうなんです。日高さんがまず、「男が主人公で、女が入ってくる」と小説の構想を考え始める。続いて、「小説であるならば名前が必要だろう」と、男女それぞれにフルネームを与える。するととたんに、小説内の登場人物が考えている登場人物が……これもまたややこしいんですが……、立体的に小説内の一登場人物として出てくる。そんな風に物語が立ち上がってくる瞬間がいくつもあるんです。日高さんが書いた小説が、最後に「付録短編」として読めるでしょう。最初は日高さんを通して、一登場人物として服部さんに私たちは会う。その後、今度は直に主人公として服部さんに再会するわけです。

佐々木:未読の方に説明すると、第4章が「ため息をつく幸せ」というタイトルで、日高さんが編集者に頼まれて以下の小説を書いた、というようなことだけが最初に地の文で書いてある。あとは全部短編小説なんです。それが前提で、最後に付録短編として「踏切を渡ってコロッケ」という短い作品が収録されているんですが、それが「ため息をつく幸せ」のいわば別バージョンなんですね。初出を確認してみると、「ため息」は四月頭に「群像」で掲載されていて、『踏切を渡ってコロッケ』は「片岡義男.com」で4月19日に公開されている。執筆時期はほぼ同時ですよね。ある男性が結婚することになって、手狭だからと引っ越しを検討する。そのときに2000冊もある蔵書を売らなきゃならないと考えるわけですが、そこ以外は微妙に違っているんですね。後日譚も絶妙に異なっている。一体どういうところから、このアイディアが出てきたのか。

片岡:まず「群像」から依頼されて短編を書くでしょう。その短編を読んだ誰かが「これはテイク1ですから、テイク2を書くといいですね」と言うわけです。

佐々木:えっ、そんなこと言われたんですか?

片岡:半ば冗談で言っているんですよ(笑)。でも、状況はそのままだとしても視点を変えればテイク2はできる。だからすぐに書けるわけです。ふたりは結婚するわけですから、どこかに新しく部屋を借りるか、あるいは自分のところに彼女が来るかどっちかでしょう。考えていくと、家にあふれてる本を売ればひとり人が増えても別にいいんじゃないかな、っていう気がしてくるわけです。

佐々木:やはり非常に論理的ですね。

片岡:その論理に必ずや小説が成立するのです。

書くべきものは外側にある

佐々木:窓の外を見てください』はじめ、片岡さんは小説家を主人公にした作品をよく書いています。だから読者はどうしても、主人公と作者を結び付けたくなるんだけれど、毎回ものすごく絶妙な距離感があって、やっぱり想像上の人物だなと思わせてくれるんですよね。今回なら、作家が2人も出て来るけれど、片岡さんご本人とは年齢が全然違うとか。ご自分の等身大の人物っていうのは、出てこないですよね。ふつうは自分に近い人物のほうが書きやすいと思うんですが。

片岡:そうです。普通自分のことを書いたりするんです。自分のお母さんの話とかをね。僕は書かないですね。手が回らないんです。

佐々木:全部虚構であると。

片岡:全部虚構です。全部小説です。

佐々木:それが小説だということでしょうか?

片岡:正しい現実がいくら入っているか自分でも分からないほど、たくさん現実が入っているんです。全くの虚構ってのはありえなくて、たくさんの現実の断片を繋ぎ合わせて作り直したものが小説かもしれないです。ですから、小説はいろんなところにあるわけです。自分の中には決してなくて、外にあるわけです。外は無限大ですから、小説も無限にあるはずなんです。

江國:たしかに、内側から生まれてくるものではないんです、元は。ただ、内側に無数にある経験だったり、妄想だったり、人から聞いたこと、映画で見たものかもしれないんですけど、いろんな断片と何かが結び合わなくてはいけないわけだけれども、外にあるんですよね確かに。

佐々木:江國さんの『彼女たちの場合は』の中で、2人の少女がアメリカの中をどんどん移動するじゃないですか。片岡さんは土地勘のある場所を選ばれたということですが、江國さんはどのような気構えで、実際に存在しているアメリカの都市を選び、ここだと決めていったんですか。

江國:私も片岡さんと一緒で、多少知っているからアメリカを選んだんです。短編小説なら見知らぬ土地でもガイドブックを見るとか想像するとか、書きようによっては書けないことはないんです。ただ、主役の2人の少女のうち1人は前からそこに住んでいて、長い旅をする話にしたかった。すると、私にとって多少なりとも知っているのがアメリカで、多少なりともできるのが英語だったんですね。この小説では、言葉もすごく大事な要素です。1人は子供の頃から住んでいるので英語が達者ではあるものの、日本人の少女2人が2人きりで旅に出る。その時に現地の人たちと英語でやり取りをする。言語はすごく思考に影響しますから、彼女たちが日本語で2人で喋る時と、英語を使って違う人と喋る時との思考の筋道が違ったり、言葉の風情が同じ意味でも日本語と英語で違うのを読者に両方感じ分けてもらったりしたかったんです。ただ、いざ旅が始まってどこに行くかというのは、全く自分が決めたんじゃないという気がしてます。もちろん予定は何も決めてなかったですし、彼女たちに任せていたらこういうことになったんです。

土地の持つ力

佐々木:彼女たちが行きたい所に行ったんですね。

江國:そうなんです。だから、彼女たちが訪れた都市の半分ぐらいは、私が行ったことがない場所です。そういうところはガイドブックを見たり、編集の人に調べてもらったりして書きました。

佐々木:場所の描写だけじゃなくて、それぞれ行った都市で、いろいろな人と会うじゃないですか。その人たちの言動や、二人と話すことがものすごく「ありそう」というか、その場ならではという印象があるんですね。でもそれは、基本的には想像で書いたということですよね。

江國:はい、そうです。

佐々木:行ったことがない場所なら想像で書くしかないのだけれど、架空の場所を描くかのように自由に書けるわけではないんですよね。そのすごく微妙な感じが、書くべきものは自分の外にあるというようなことと関係があるんじゃないかと思いました。

江國:小説にとって場所ってすごく大事なんです。旅じゃなくてもそうで、例えば下北沢にするのと、千歳烏山にするのでは同じ世田谷区でも全く違うし、もちろん東京にするのと大阪にするのとも、言葉以外の問題でも違う。新宿と渋谷でも違う。『窓の外を見てください』も『彼女たちの場合は』も、たまたま主人公が移動するわけですが、旅をしない場合でも場所を決めるのはすごく大事です。そして、場所が決まって人がいて時間が流れれば、絶対に小説になる。

片岡:そうですね。

佐々木:なるほど。どこなのかというのは、すごく重要なことなんですね。

江國:すごく重要ですね。そこの場所の持つ力を借りられたり、影響したりしますから。そして人はもちろん作者が人為的に作るわけですけれども、一番難しいのは時間を流すというところなんでしょうね。場所は決めればいいし、人は作るしかないので作るんですが、きちんと時間を流すというのが難しいですね。だから場所は実際にある所の方が、その場所の持つ風情が小説に加わるのでいいと思います。

「アンソロジー餃子」

アンソロジー餃子佐々木:江國さんが冒頭、『この冬の私はあの蜜柑だ』というタイトルには10メートル後ろにぶっ飛ぶくらいびっくりしたとおっしゃいましたが……。

江國:今回は、「ラプソディック担担麵」(笑)。

片岡:タイトルがいいでしょう。ある日ね、『アンソロジー餃子』(パルコ)っていう本が、僕のところに送られてきたんですよ。『アンソロジー餃子』ですよ。すごいでしょう。

佐々木:『餃子アンソロジー』ならまだしも(笑)。

片岡:いろんな作家が餃子について書いた文章を1冊にまとめたから『アンソロジー餃子』で、僕も書いているんですよ。それで、『アンソロジー餃子』に対抗して、僕も何か作らないといけないと思ったんです。

(一同笑)

片岡:それでとっさにできたのが、「ラプソディック担担麵」だったんです。餃子と対抗できるのは担担麵しかない。

佐々木:担担麵しかない!

片岡:アンソロジーと対抗できるのはラプソディックしかない。

佐々木:アンソロジーでラプソディックになるのがすごい。どう飛躍しているのかわからない(笑)。

江國:その飛躍が何か特別なんだなあ。

片岡:だから、まずタイトルがあったわけです。きっと男と女が知り合って夕食に担担麵を食べるんですよ。食べ終えて夜の街を歩いていたら「ラプソディ・イン・ブルー」が聞こえてくる。そういう設定でしょう、きっと。

佐々木:まさにそういう短編でした(笑)。先に言葉があって、この言葉って一体どういう小説なんだろうと考えていくわけですね。

ちょうちんそで片岡:そうです。タイトルといえば、江國さんの『ちょうちんそで』という長編小説があるでしょう。『ちょうちんそで』というタイトルで長編小説を書く度胸は僕にはない。

江國:まさかタイトルについて片岡さんからそう言われるとは(笑)。

佐々木:お二人ともタイトルが常に凄いから……。

江國:凄さにはいろいろあるじゃないですか。もちろんうまいなと思う、かっこいいなと思うタイトルも片岡さんは全部やっていらっしゃいますけど、『この冬の私はあの蜜柑だ』みたいに、意表を突く、想像したこともない、どんな話なのか想像もつかない、単にびっくりする、本当にチャーミングなタイトルの宝庫でもあるんですよね。喚起させることの天才なんだと思うんですよ、片岡さんは。『ちょうちんそで』なんて全然おとなしいものですよ。

片岡:ちょうちんそで』はいいですよ。僕が「ちょうちんそで」という日本語を知ったのは、7歳頃です。同じ頃に「ちょうちんそで」を英語では”lantern sleeve”と言うんだ、ということも知ったわけです。戦後間もない頃、アメリカから入ってきた型紙に”lantern sleeve”と書いてあって、これを日本語にするにあたって”sleeve”は「そで」でいいけれど、”lantern”は「ちょうちん」にしようとしたんでしょう。それをまさかタイトルにして長編を書くとは……。

佐々木:お互いに言い合ってますね(笑)。お二人ともやっぱりフレーズというか、ある1つのまとまりの言葉が、それ自体として持っている喚起力みたいなのがものすごく強いと思うんですよね。だからタイトルを見るだけで惹きつけられるものがある。実際読んでみると、そのタイトルとかその言葉からこちらが想像していたものとは違うものが中にあって、それもまたすごく独特だなって思うし、言葉っていうものが、センスと言ってしまえばそうなのかもしれないですけど、論理っていうものと重なって、小説ってものを作っているんだなあと感じました。なぜこんな話をしているかというと、もう時間だからです(笑)。

片岡:もう? 早いなあ。

(2019年8月22日、下北沢B&Bにて)


『窓の外を見てください』片岡義男(講談社)
2019年7月24日刊行



◆片岡義男.comで公開・販売している関連作品
短編小説の航路シリーズ『踏切を渡ってコロッケ』
『愛は真夏の砂浜』
『いい女さまよう』
『銭湯ビール冷奴』
『春菊とミニ・スカートで完璧』
『フォカッチャは夕暮れに焼ける』
『ティラミスを分け合う』
『蛇の目でお迎え』はこう作られた ※無料公開中(書き下ろしメイキング&本編)
『蛇の目でお迎え』はどうつくられたか ※無料公開中


◆関連情報 – 現代ビジネス
【第1弾|前編】小説ってこんなふうに書くのか! 片岡義男と江國香織が惜しげもなく明かす「最高の小説のつくりかた」
【第1弾|後編】日本語で小説を書くことの難しさと楽しさ〜男と女をどう描く? 人称はどうする?
【第2弾|前編】江國香織が驚愕! 片岡義男の「言葉をあやつる」凄いテクニック
【第2弾|後編】天才的な喚起力! 作家・片岡義男と江國香織が語る「フレーズの選び方」


2019年11月2日 06:00