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エッセイ『言葉を生きる』21作品を公開

エッセイ『言葉を生きる』(岩波書店/2012年)の21作品を本日公開いたしました。

01 否も応もなく

僕の母親は近江八幡に昔から続いた数珠屋の末娘だった。父親はハワイのマウイ島で生まれ育った日系二世だ。祖父の出身地である岩国を訪ねたとき、勧める人があり見合いをし、ふたりはやがて結婚した。国民精神総動員。ノモンハン。紀元二千六百年。米穀配給統制。大政翼賛会。こういった日本に僕は生まれ落ちることとなった。生まれ落ちたその瞬間から、赤子はさまざまなかたちで自分を感じ取り、周囲の人たちからも受けとめる。他の誰でもないこの自分という認識は幼子の内部に蓄積されていき、ほぼ限度に達したとき、その蓄積の総仕上げとして、「自分」という言葉をその幼子は自らに引き受ける。
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02  You and I

僕がめでたく赤子となったのは、東京・信濃町の慶應病院の産科でだった。数日後の僕は目白の自宅に移っていた。仰向けに横たわり、なにかが気に入らなければ泣き、手足を小さく振りまわし、よだれを垂らし、母乳を飲んでおしめを濡らしては眠っている、というごく当たり前の時間のなかで、たとえば母親と父親とを明確に識別したのはいつだっただろうか。僕はいちばん最初から識別していた、という記憶がある。無理して識別の能力を発揮した結果ではなく、いっさいなんの無理もなしに、ごく当然のこととして、赤子の僕にとって両親というふたりは明らかに異なった人たちだった。もっとも際立って異なっていたのは、ふたりの喋る言葉だった。母親の言葉は日本語、そして父親のは英語だった。
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03  東京の坊や

赤子の僕にとって、両親はもっとも身近にいた他者だった。そしてこのふたりの他者から、赤子は言葉というものを受け継いでいった。父親からの英語に関しては、問題はいっさいなかった。すべてが極めてすんなりとしていた。母親からは日本語を引き継いだ。彼女は人としての成り立ちが関西弁の日本人であり、終生を関西弁でとおした。さらにもうひとひねり、赤子から幼児にかけての僕に、専任の乳母がついた。当時の日本映画の主演女優のような美人で、年齢は20代なかばだったはずだ。東京生まれの東京育ちだった彼女は、完璧な東京言葉を喋る人だった。三歳になった頃には、最も重要な第一段階としての僕は、早くも出来上がっていた。東京に根を持たない両親のあいだで最初から浮いていた僕は、長屋の洟垂れ小僧ではないけれど、お屋敷のお坊っちゃまでもない、そのどこか中間に浮いていた。そのような僕を、東京の坊や、と僕は呼ぶ。
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04  陽に焼けた子供

アメリカ軍による日本の爆撃は熾烈さを増すいっぽうだった。どうすればいいか両親が相談した結果、祖父の家のある山口県の岩国へ緊急に避難することになった。僕たち一家を無事に岩国へ送り届けるにはどうすればいいか……。岩国までの通しの乗車券と座席の確保、別送する荷物の手配も乳母が完璧に整えてくれた。こうしたことをずっとあとになって僕は母親から聞いた。あのこには大恩がある、と目に涙をためて母親は言っていた。瀬戸内での日々には、生まれて初めてと言っていい日本の季節との直接の関係が、毎日いろんなかたちであったはずだ。しかし1945年8月6日までのおよそ10か月分、僕にはなにひとつない。8月6日に関しては、その日の出来事と同時に自分自身についても、鮮明に記憶している。4歳から13歳までの9年間を僕は瀬戸内で過ごした。前半が岩国、そして後半は広島県の呉だった。生活の状況や環境を子供は選ぶことが出来ない。子供の僕は環境のすべてを受けとめるほかなかった。
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05  空と無

父親が英語、母親が日本語という、もっとも身近にあった言語の二重性は、岩国へと移ったあと、いくつもの段階を急激に上昇することとなった。二重性は言語だけではなく、ある日を境にして、日本そのものが二重になった。戦前からどこにでも存在していた日本に、ごく一時的ではあったにせよ、オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)という性質の日本が、覆いかぶさることとなった。戦後における父親の仕事はGHQ民生局の現地雇いの職員、というものとなった。当然のこととして、日常生活はオキュパイする側へと大きく傾いた。これを日常の二重性と呼んでもいい。あらゆることの根底にあったのは言葉の二重性だが、他のことすべてがそれに準じた、という理解をいまの僕はしている。子供の僕の核心に、より深く届いていたほうがドミナントだったと考えるなら、それは英語のほうだ。なぜ英語だったのか。実用的だったからだ。
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06  好きな日本語

「ん」を自分のものにしたのは、いつ頃だったか。いまの僕が使うのとほぼ同じ「ん」を自分のものとして持つにいたったのは、12、3歳の頃だったのではなかったか。ほとんどの場合、この「ん」は音声としての日本語だ。ごく普通の状況での音声を平仮名で書くと「うん」となる。しかし言いかたにはいくつかある。明るく肯定的に、力を込めてはっきりと、そして短めに「うん」と言い切る言いかたが、もっとも標準的な「うん」だろう。応用や活用の幅はさして広いわけではないが、少なくとも日常的にはきわめて便利であり、それゆえに幼い頃に身についた日本語だ。「ん」に関して僕は日本人だと言っていい。英語のYesにくらべると、日本語の「うん」は不定型で柔らかい、ということは僕も感じている。しかし、「うん」というひと言ないしは一音が、その意味するところにおいても、不定型で柔らかい、とまでは思っていない。
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07  ペイパーバック

日本敗戦の翌年の春先から、岩国の自宅にアメリカのペイパーバック本が目立ち始めた。GHQで仕事をしていた父親が、仕事の現場でいろんな人たちからもらって自宅へ持って帰っていたからだ。当時のアメリカで出版されていたペイパーバックの数それ自体が、凄まじいものだったことを僕は知らなかった。戦後日本の片隅で、僕の家にペイパーバックが増えていった最大の理由は、そこにあった。大量にあるペイパーバックは、子供の僕にとってはまず遊び道具のひとつだった。岩国から広島県の呉に移ったとき、トラックに積んだ引っ越し荷物でもっともかさばり、しかも個数が多かったのはペイパーバックだった。13歳の夏の終わりに呉から東京へ戻ったが、ペイパーバックはさらにその数を増やしていた。世田谷区の代田というところに住み始めた僕は、自宅から歩いて5分のところに古書店を発見した。その店先に20冊ほどのペイパーバックがあり、僕は驚いた。
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08  世田谷の古書店

ペイパーバックが、世田谷区のあちこちの古書店で買えるという事実は、子供の僕にはたいそう面白いことだった。1冊が5円から20円だった。増やそうという意思はなかったのだが、腰の高さまで積み上げたペイパーバックの列によって、6畳ほどの広さの板張りの部屋の床面積は、占拠されてしまうこととなった。そこまでになると、僕の方にも変化があらわれた。買い集めたペイパーバックを1冊ずつ観察し、出版社別に分類することを思いついて実行に移した。それ以後の僕は、部屋にひとりですわり、出版社別に整理されたペイパーバックを一冊ずつ点検することが、日課のようになった。そして、そのペイパーバックの1冊1冊、そしてその全体はなんという不思議なものだろう、と僕は感じ始めた。同時に僕が感じたのは、ペイパーバックというものが体現している豊かさだった。
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09  鯨の油を燃やす

ある日、世田谷代田駅のすぐ近くにあった古書店で、表紙のない、しかしそれ以外は新品のペイパーバックを1冊、店主から渡された。その本は僕の気持ちをそのどこか深いところでとらえた。それはベス・ストリーター・オルドリッチというアメリカ女性が1928年に出版した、A Lantern In Her Handという作品だった。翻訳すれば『彼女は角灯を手に』とでもなるだろうか。角灯とは、この場合はおそらく、鯨の油を燃やして明かりとする、ガラスのホヤのついたカンテラだ。なにげなく読み始めた僕はたちまち夢中になった。波瀾万丈の物語の面白さ、そしてそこから受け取る感銘は大変なものだったが、それとは別に、文章というものが持つ力の不思議さが、14歳の少年の頭に充満した。他の作品をもっと読む他ない、と14歳の少年は直感した。だから僕は、それまでとおなじようにペイパーバックを買う少年であると同時に、1冊また1冊と読んでいく少年でもあることとなった。
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10  二音節の土曜日

良く書けた1編の小説を読んだ僕は、深いさまざまな感銘や強いひとつの感動を、生まれて初めての体験として受けとめた。赤子の日々から14歳のこの頃にいたるまで、自分という存在を認識して受けとめる営みを、僕は僕なりにさまざまなかたちと内容とで続けてきたはずだ。14年にも渡ってこれを繰り返せば、自分をめぐる課題は次の段階へと推移したとしてもなんの不思議もない。自分とはなにか。なにが自分なのか。この謎が謎としてかたちを整え始めたちょうどその頃、良く出来た作品を生まれて初めて読む体験を僕は持った。部分的に発見した自分への驚きが、僕の心のあちこちにしみ込むことによって多少は鎮静してから、僕は2冊目の小説をペイパーバックで読んだ。ポケット・ブックの山のなかを探すまでもなく目にとまったのは、ジョン・ワトスンという人の『赤いドレス』と題された作品だった。
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11  十年一滴

1953年からの日本は、あらゆる領域で身の丈を越えて、無理に無理を重ねていった日本だ。身の丈を越えてとは、技術開発に支えられた経済の高度な成長という、それまでどこにもなかった新世界と向き合ってそれを支えるための準備を、思想的に決定的に欠いたままだった、というほどの意味だ。13歳から10年後の僕は大学を卒業して新卒という種類の人になっていた。その10年間は、すべてを成りゆきにまかせてなし崩しにした10年間だった。大学での4年間でなにをしたのですかと問われたなら、僕の大嫌いな比喩で答えるほかない。なけなしの自分を4年かけて蒸留し、その4年の終わりに、これ以上には蒸留され得ないものとしての自分を、僕は一滴だけ手に入れた。その一滴とは、なにだったか。
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12  美人と湯麵

ほぼ半世紀前のこと、大学の敷地の南側のすぐ外にあった道の向こう側には、学生を相手とした主として小さな飲食店が軒をつらねていた。そのなかに1軒の中華の店があった。大学の2年生になった春、友人に誘われてこの店で初めて僕は昼食に湯麵を食べた。評判のとおり、それはおいしかった。このとき以来、僕にとってその店は、昼食に湯麵を食べる店となった。調理場で、30代のなかばを越えたかという年齢の男性がひとり、ただひたすら黙々と注文をこなしていた。接客していたのは彼の奥さんだった。30代になったばかりの年齢の、当時の日本における大人の女性のもっとも好ましい見本のような美人で、もの静かに美しい身のこなしは、僕がその店で初めて食べた、キャベツの盛大に盛られた上出来の湯麵以上に、印象に残った。彼女のような本当の美人は、体のどの部分を見ても美人なのだ、という発見は、ある程度まで蓄積されることによって僕の意識にのぼったもののひとつだった。
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13  神保町 1

神保町へいくことを勧めてくれた人がいた。神保町には洋書を専門に扱う露店が2軒あり、きみの好きなペイパーバックを売っている、最後の露店になるだろうからいまのうちに見ておきなさい、とその人は言った。駿河台下の靖国通りの北側、人生劇場というパチンコ店の裏の路地に、その路地をはさんで斜めに向き合って、確かに2軒の露店が店を出していた。この2軒の露店は、僕にとって初めて体験する、露店というものだった。僕は露店を好きになった。店頭の在庫は思いのほか豊富だった。1961年の神保町には、米軍放出品の洋書を扱った露店がこんなふうに店を出していた。驚くには当たらない。東京オリンピックの前後まで、東京のいたるところに、戦後だけではなく戦中や戦前が、経年によるもの以外の変化がほとんどないままに残っていた。東京オリンピックを境にして昔の東京が消えていく速度が加速されたことは確かだ。
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14  一枚の小切手

1961年の僕は大学の3年生だった。大学の勉強に関しては自主的にきわめて暇で、勉強をしない暇な大学生を許容した唯一の街が、当時の神保町だった。洋書だけを扱う露店が2軒あり、今日の昼はそこにいます、と先輩に電話しておけば、先輩は昼休みに会社を出て神保町まで来て、露店のすぐ隣の喫茶店で僕に会う、というようなこともあった。コーヒー一杯でのよもやま話は、アメリカのペイパーバック、特にハードボイルド風なミステリーをめぐる場合が多く、そのような話の延長として、あるときふと、きみがこれほどに暇なら翻訳を試みてみる気はあるか、と先輩は僕に訊いた。その気はあります、と僕は答えた。何度目かの確認をへたあと、僕が試みるための原典を、先輩は見つけてきてくれた。期限は特に設けないが、やる気があるならそれなりにかなり早くに訳してみろ、と先輩は言った。僕は原典を読んだ。なんだ、こういう話か、と僕は思った。僕は机に向かって椅子にすわり、左側に置いた原典を見ながら、原稿用紙に翻訳文を書いていった。
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15  神保町 2

大学最後の夏休みのある日の午後、学校で偶然に会った友人が「お前はもうきまったのか」と、僕に訊ねた。僕がまだ1社も試験を受けていなかったことを知ったその友人は、自分が願書を提出しようとしていた東京の商事会社に、僕の願書も出してくれた。夏のまっ盛りの暑い日に、学校でまず面接試験がおこなわれた。夏期講習に出席していた僕は、彼の上着とネクタイを借りて、めでたく面接を受けた。後日、確か9月になってからだったと思うが、その会社の本社の建物で筆記試験がおこなわれた。その1社だけ試験を受けた商事会社に、卒業後の就職は内定した。4月1日に出社したその会社を、ぼくは同年6月30日付けで退社した。このときの自分とは、それまでに自分のものとして持ち得た日本語と、それを自分で書く文章へとなんとか使っていく能力という、じつにわずかこれだけのものだった。最初から半分は冗談のような文章を、依頼があればなんでもどこにでも書く、という日常が始まった。
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16  テディというやつ

ペンネームが必要になったのは1962年のことだ。雑誌『マンハント』に僕にとって最初の仕事となった翻訳が掲載されたすぐあと、自前の文章による連載コラムが始まることになった。連載を始めるにあたって、ペンネームを使うことを僕は提案し了承された。ではどのようなペンネームにするといいか。すぐにでもきめなくてはいけない日が来て、僕は『マンハント』編集部の杉山正樹さんと神保町の喫茶店で待ち合わせの約束をした。当日は古書店へ立ち寄って何冊かのペイパーバックを買い、それを持って待ち合わせの喫茶店へいった。その中にJ・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』という短編集があり、目次のいちばん最後に『テディ』という題名があるのを僕は見た。そうだ、ペンネームはこれでいい、と僕は思った。このペンネームは1960年代いっぱい、ほぼ10年間、現役だった。いまでも、僕のいるところで、そしていないところでも、話題になっている。
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17  西伊豆とペン

26歳の僕は、ある日の夜、おそらく年上の編集者との待ち合わせのため、新宿のゴールデン街にあった1軒のバーに入った。カウンターには作家の田中小実昌さんがひとりでいた。田中さんは髪のない坊主頭をひとしきり撫でまわし、「じつはこないだね、俺はね」と僕に言った。「西伊豆へいったのよ。この俺が西伊豆へいったのだと思ってよ」という田中さんの言葉に、「西伊豆で何があったのですか」と、僕は訊いた。「西伊豆でね、俺はね、ペンを拾ったんだよ、ほら」と呆れたように指さしたビールの大瓶の隣に、どうでもいいような出来ばえの万年筆が1本、確かに横たわっていた。「テディ、お前さあ、英語が出来るんだろう。俺もちょっとだけ出来るんだよ。だからずっと考えてたんだけど、西伊豆でペンを拾ったことを英語でなんと言えばいいか、お前、わかるか」。西伊豆で万年筆を拾った。そのことを英語でなんと言えばいいのか、と田中さんは訊く。これはけっしてストレートかつ単純な話ではないということは、基本的にうかつな僕にでも察知することが出来た。
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18  三つ目の壁

そのときの僕はまだ大学生だった。原稿を書いていた『マンハント』の編集長の中田さんと歩いていた時に、大学を卒業したら編集者になろうかなあ、と僕は言った。その言葉を受けとめた中田さんは、なぜかひどくあわてた様子になり、真っ赤にした顔を僕に向け、「あなたは原稿を渡すほうの人におなりなさい」と言った。大学を卒業した僕は、3か月だけ会社勤めを経験したあとフリーランスの書き手になったのだから、中田さんの忠告を僕はひとまずは最低限のところで守ったと言っていい。これが僕の前にあらわれた最初の壁だったとすると、出入口を見つけた僕は、そこからなかに入り、壁を自分の背後にすることが出来た。ふたつ目の壁は、1960年代の終わり、というかたちをとって、僕の前にあらわれた。そして3つ目の壁は1973年の夏の終わりにやってきた。
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19  小説を書く

小説を書くためにまず最初に絶対に必要なのは、僕の場合、これは小説になる、と瞬間的に確信することの出来る、これ、というものだ。現在のただなかで外からそれが来る場合もあれば、僕の内部つまり記憶の中から浮かび上がって来る場合もある。どちらの場合も、なににも邪魔されることなく、なんら制約や制限を受けずに、ほぼ完全に自由な状態の中であらわれる。これは小説になる、これさえあれば小説を作ることが出来る、と僕が確信する、これ、とは、ほんのちょっとしたことだ。主題や核心となる場合もあれば、題名に落ち着く場合もある、そして編中のどこかに細部のひとつとして身を置くこともある。書きたいこと、とはまるで違っている。思いがけずに手に入った小さな断片が、何かないかと探す僕のすぐ傍で、思いもかけなかったものをまるで引き寄せるかのように、結びつく。何かと結びつけたいと願っている僕の願いとはほとんど無関係なところで、思いがけないものと勝手に結びつく。その結びつきの妙が小説を作っていく。
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20  居酒屋の壁から 1

昨年の夏、僕は電車でひと駅の、リトル・トーキョーと僕が呼んでいる街で写真をたくさん撮った。コンパクト・デジタル・カメラで撮った写真による一冊の写真集を作ろうとしていたからだ。その際、そこにある居酒屋の前を何度も歩くことになった。夏の始まりの季節のある日の5時少し前、思いをおなじくする友人たち4人でこの店に入った。店に入って左側の壁に寄せたテーブルの、ドア側の椅子にすわると、視線は店の奥に向かう。品書きが上下二列でいっぱいに貼ってある。グラスの生ビールをなめながらその品書きを読んでいった僕は、塩らっきょう、という品書きに興味を持った。塩らっきょうとは、なにか。注文してみれば問題はただちに解決したはずだが、そのときは注文しなかった。なぜなら僕の興味は、塩らっきょうの右隣に貼ってあった、えんどう豆、という品書きへと移ったからだ。塩らっきょうとえんどう豆。僕ひとりの頭ではけっして思いつくことのない、素晴らしい取り合わせではないか。
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21  居酒屋の壁から 2

居酒屋の壁をびっしりと埋めるたくさんの品書きのなかから、塩らっきょう、という言葉に僕の感覚は反応した。面白い言葉だ、というのが、その反応のいちばん最初の部分だ。塩らっきょう、という品書きの右隣に貼ってあったのは、えんどう豆、という品書きだった。塩らっきょう、そして、えんどう豆、このふたつの取り合わせは、僕をさらに反応させた。塩らっきょうの右隣にえんどう豆がある、という全体の認識のなかから、塩らっきょうの右隣、というフレーズを僕の感覚は抽出した。このフレーズは短編小説の題名になる、と僕は思った。後日、別の場所にある喫茶店で、僕はさらに考えをめぐらせた。塩らっきょうのほうから僕は考えた。日本では年齢をきめると、その人の背景のほとんどがなかば自動的にきまっていく、という傾向がある。塩らっきょうさんは五十三歳、という年齢にしようか。なにをしてる人なのか。五十代なかばが目の前なのだから、少なくとも経済的にはなんとか自立していないことには、話にならない。小説の主人公を作り出すにあたって、もっとも難しいのは、じつはここなのだ。
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2023年12月15日 00:00 | 電子化計画

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