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エッセイ『シヴォレーで新聞配達──雑誌広告で読むアメリカ』より49作品を公開

『シヴォレーで新聞配達──雑誌広告で読むアメリカ』(研究社出版/1991年)より49作品を本日公開いたしました(収録作品は51作品ですが、このうち2作品は既に公開されているものです)。

01 雑誌のバック・イシューはタイム・マシーンだ(一九四〇年代〜現在)

雑誌のバック・イシューはタイム・マシーンだ。刻一刻と過ぎ去っていくそのような時間が、バック・イシューのなかでは、紙という2次元に印刷されて、大量に残っている。これから書こうとしている文章のための材料に使えそうな広告を捜しながら、僕はバック・イシューの山という過去のなかに数時間だけ遊んだ。今日はいまのところまだ現在だが、明日になればとっくに過ぎ去った過去でしかなく、過去はいっさいの機能を失ったものとして、ただうち捨てられていく。そのようにして捨てられてきた時間が、たとえは悪いかもしれないが、累々たる屍の山となって、バック・イシューのなかに堆積されていた。1948年から1970年までの広告を眺めたあと、僕は現在(編注:1991年)に戻ってきた。現在の広告はどれもアメリカらしさに満ちている。それはいまのアメリカだ。そしてどの広告にも、女性が登場している。意図して選んでそうなったのではなく、僕の直感的な好みで選んだら、偶然こうなった。アメリカは、女性にたいへん大きく依存した、男たちの国だと、しめくくりに僕は書いておこう。
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02 ポップコーンがはじけそこなうとき

ポップコーンに反対語はない。しかし、造語することは可能だ。たとえば、ひとつの例として、flopcornというのはどうだろう。うまくpopしていない、つまりうまくはじけていないポップコーンに対する失望感をうまくもりこんで、flop(失敗)cornとしたところは、平凡だけれど面白い。
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03 完璧とは言いがたい状況にはぜひともコーヒーを

ウィーク・デーの朝七時なんて、まず第一に眠い。一日のはじまり、ただでさえ大変なのに、ここでコーヒー・メーカーが扱いにくいぼんくらであったなら、大変な朝はさらに大変になってしまう。以上のようなことを、写真とヘッド・コピーで伝えておいてから、ボディ・コピーがこまかな字で念を押していく。こういう文章は一種の名文だろう。
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04 三千マイル離れている人に自分を伝える簡単な方法

愛しい彼女から届いた手紙を、いま彼はくつろぎながら読んでいる。封筒の右端は、彼の鼻のすぐ下に来ている。封筒の香りを彼はかいでいる。封筒は彼女の香りがするのだ。「おたがいに三千マイルも離れていながら、これほどに相手を近くに感じることが出来るとは」というような意味のボディ・コピーは、つまり彼の気持ちの代弁だ。
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05 パンにピーナツ・バターをつける。そしてミルクをグラスに一杯

この広告のなかの子供が代表している多くの子供に対して、同情の気持ちをぼくは覚える。グラスにミルクを注ぎ、パンにピーナツ・バターを塗っただけの朝食。おやまあ、可愛そうに、と思いながらも、やがて懐かしさにかられ、ピーナツ・バターをつけたパンにコーヒー一杯だけの朝食を、明日にでも食べたい気持ちになっていく。
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06 十個の窓からセントラル・パークを見おろす眺めのいい部屋

この建物は本当にセントラル・パーク・サウスに建っているらしい。だとすると、壁にずらっと並んでいる十個の窓からは、セントラル・パークを南の端から北の果てまで、いつだって見渡すことが出来る。眺めのいい部屋、と言っていい。しかし間取りというものを作るにあたっての基本的な考えかたは、きわめて単純だ。
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07 現実を記号に置きかえた道路地図という幻の世界

「古いアトラスを持って旅をするのは、アトラスを持たずに旅をするよりももっとよくない」と、広告のヘッド・コピーにはうたってある。アメリカの道路システムは、1年間にじつに21,073件もの変更があったという。だからアメリカを旅していて、ロード・アトラスが今年のものではないことほど落ち着かないものはない。
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08 フレンチ・フライド・ポテトにかかわるアメリカらしさの一例

Ore-Idaのフレンチ・フライド・ポテトはアメリカ国内では、ものすごく平凡な、しかし日常的に必需の、したがってここにアメリカがある、と言っていっこうにかまわない、そのような大量生産食品のひとつだ。コピーに使われているworking the wrinkles into itという語法が、アメリカの日常を強く感じさせる。
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09 「手をのばして誰かに触れなさい」=「もっと電話をかけなさい」

もっと電話をかけなさい、と人々に促している広告だ。きわめて単純な構成の広告だが、どこにも無理がなく普通であるという意味において実によくできている。電話機のハンド・セットの色と彼女の瞳の色が、ブルー系で統一してある。洒落たことをするものだなあ、と日本人の感覚だと感心してしまうかもしれないが、自分の瞳の色にほかのものの色を合わせるのは、ごく普通に行われていることだ。
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10 貧しい国の子供がこのような目であなたを見るとき

Save the Childrenという名称のこの団体は、恵まれない国の子供たちのスポンサーになりませんかと、読者に呼びかけている。この広告の文脈で使用されているスポンサーという動詞は、確かな事実にもとづいて後ろ盾となる、というような意味だ。写真の子供の目を見るといい。このような目で子供に見られたなら、その子供を助けるための具体的な行動を、人はとらなくてはいけない。
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11 「これはこのヘア・ドライアーの広告です」という広告

「これはこのヘア・ドライアーの広告です」という、単純にしてきわめて明快な一本のヘッド・コピーが、ヘッド・コピーとして立派に成立している雑誌広告だ。うまく出来ていればそれでいいのだといういさぎよさのようなものを、ぼくはこの広告に感じる。ヘア・ドライアーは単純な機能の機械だから、数多くの能書きは必要ではない。この広告は一枚の魅力的な写真によって、あっさりとすべてを解決している。
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12 一本のキャンディ・バーが心の底につくるアメリカ的な共感

このキャンディ・バー、スニッカーズの雑誌広告は、子供を相手にスニッカーズを広告しているものではないし、たとえば子供のおやつにスニッカーズをどうぞと、母親にむけて宣伝しているのでもない、とぼくは思う。かつてはこの広告写真のなかにいるような子供たちであり、いまはすっかり大人となって忙しく仕事をしている男性たちにむけて、懐かしい思い出をこの広告は伝えようとしている。
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13 中流以上の競争社会に参加するには完璧に清潔でなくてはならない

いつも清潔であることは、神を敬い信心深くあることの次に来る重要な徳目である、という言いかたが昔からあり、身のまわりのものを清潔にしておきたい、そして自分自身も清潔でありたい、と強迫観念的に願う気持ちが、アメリカにはある。一方、アメリカではほとんどあらゆるものに香りがつけてあり、その香りは、たいへんに人工的であることが多い。香りのついていないタイプの洗剤の登場は、人工的な香りをうとましく思う人たちの登場を語ってくれている。
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14 一本の万年筆。失われた品位への、回帰の願望

パーカー万年筆から1927年にアメリカで発売されていた、デュオフォルドというモデルの復刻版の広告だ。上部にある写真は、1925年のヒスパーノ・スーザという自動車の前部で、前輪のフェンダーの上に、デュオフォルドが一本、横たえてある。大量生産される商品が出回れば出回るほど、人々の身の周りからは、気品が失われていく。人々が品位をとり戻そうとするとき、最も確実なやりかたは、過去、つまり伝統のなかに置き去りにされた品位を現在まで引っぱり出してくることだ。
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15 清潔で匂いのない人は、自分自身に関して確固たる自信を持つことができる

モノクロームによる写真が、スペースいっぱいにレイアウトしてある。広告すべき商品だけが、カラーではめこんである。いい写真だなと、まず思う。適量の良いセンスと、おなじく適量のこまかな配慮が、写真全体にさりげなく及んでいる。その結果として、写真は視覚的に心地良い。写真の中の女性はよく見るとやや不自然なポーズだが、広告すべき商品がわきの下の汗と匂いを抑える薬品だから、広告としては正しく、したがって、それを見る人に視覚を通して訴える力を持つ。
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16 自由を完全に実感できるとき、アメリカの人たちはもっとも幸せだ

アメリカ陸軍に入隊してみませんかと、やや遠まわしに勧誘している広告だ。写真の下に12行で入っているボディ・コピーには、アメリカという国の、きわめて基本的な理念があますところなく表現されている。アメリカという文化はなにをもっとも大切にしているか、この12行を読むだけで端的に理解できる。これは、まさにアメリカだ。コピーに添えてある写真は、この写真のために演出して撮影したものだろうと、ぼくは思う。有色系の人たちの配置にこの時代のアメリカを感じる。
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17 いまのアメリカでもっともひどい状況を生きるのは、子供たちだ

「ストリート・スマート」とは、「都市の只中に住むにあたっての、さまざまな事情をよく心得ていて、どんなことが起こってもそれに対して最適な反応をし、生きのびていく方法を身につけているような」といった意味だ。『子供をストリート・スマートに育てるには』という啓蒙用のビデオの広告には、砂場で砂遊びをしている女の子の下に「次の犠牲者は、あなたの子供か?」と、コピーがある。今のアメリカにおける大きな受難者グループのひとつは子供たちだ。数多くの幼い子供たちが、およそ正気の沙汰とは思えないような状況の中へ、多くの場合、最近親者たちの手によってつき落とされている。
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18 ダヴ・バーを一本手に持ち、たったいま、ひと口みとって食べた

美人が右手に持っているダヴ・バーは、ひと口だけ嚙んである。そして、彼女が左手に持っている、ダヴ・バーの三本入った箱に描いてあるダヴ・バーも、三本のうち左側の一本は、ひと口だけ嚙みとってある。どちらの場合も、嚙みとってない完全なものの場合よりも、見た目においしそうに見える。あ、食べたい、という気持ちを、この広告を見る人の心のなかに引き起こす。
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19 不自然なほどに白くて汚れのない歯をセクシーととらえる文化

日本国内での歯みがきの広告は、三人家族ないしは四人家族が一列にならんでこちらをむき、全員がぐいぐいと歯ブラシで歯をみがいている。日本では歯みがきはまだご家族のものだ。ひとりの男性とひとりの女性とのあいだの問題として、歯みがきが認識される日が日本に来るのはいつだろうか、などとぼくは思う。そのような日は来ないかもしれない。
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20 歯ごたえのいい、生彩に満ちた冷たいレタスをまず最初にみ抜く

ページをくっていくと、すこし厚手の白い紙が右側にあらわれる。丸い穴が五つ、あいている。その五つの穴に、指定のとおり左手の指先をさしこみ、ページをくってみた。裏にはマクドナルドのきわめてクラシックな出来ばえのハンバーガーの現物がひとつ、カラーで印刷してあった。穴にさしこんである僕の左手の五本の指先は、そのハンバーガーをしっかりと持っているのだった。単純なしかけではあるけれど、面白い。
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21 日常そのものである一本のジーンズが、広告のなかで脱日常に変わるとき

リーという名前やそのジーンズを僕は子供の頃から知っているが、かつては無骨なジーンズや同じく無骨な作業衣のメーカーだった。それがこんなふうになろうとは。リーのジーンズという、もうどうしようもないほどに日常的な衣服を身につけ、コイン・ランドリーへ洗濯物を持っていき洗濯していると、この広告写真にあるような光景の主役になれるかもしれない、というイメージ広告だ。
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22 ニューヨークの公立図書館が歴史のなかで果たす役割

この広告の中にあしらってある新聞は、『ザ・ニューヨーク・タイムズ』だ。1954年5月18日付ではないかと思う。アメリカの現代史に少しでも関心があるなら、これが1954年5月17日に最高裁が下した「ブラウン判決」(公立の学校において人種を差別した上での教育は憲法違反であるとした判決)についてのものだとすぐわかるはずだ。その判決においてニューヨーク公立図書館が大きな役割を果たしたことを、この広告は伝えている。
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23 二階にいる赤ちゃんの泣き声を無線受信機のスピーカーから聞く

なんの広告だかわかるだろうか。2階の寝室にあるベッドに寝かせた赤ちゃんの、無線による音声のモニターだ。赤ちゃんが泣けば、その声は無線によって母親や父親のもとに、たちどころに届く。ひょっとしたら便利かもしれない、家庭用の小さな装置だ。機能最優先のデザインが僕の胸を打つ。5歩も歩けば赤ちゃんのところへいけるという日本の住宅事情では、こういうものは必要ないかもしれない。
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24 アメリカにおける幼年期の記憶。弁当の一部分として学校へ持っていったヨーグルト

このヨーグルトの缶詰は、子供が学校へ持っていく弁当のなかの一品だ。広告の対象は子供たちではなく、食べさせる大人たちだ。お母さんは白いプラスティックのスプーンを添えて、ランチ・ボックスのなかに入れればそれでいい。なんという簡便なことだろう。ひと口を口にふくんだ瞬間の味や香り、そして感触も、実体験とほとんど変わらないほどのせつなさをともなって、僕は想像出来る。例えばストロベリー味のヨーグルトの感触や香りの彼方に、アメリカでアメリカ印に育つ人たちの、幼年期の記憶がある。
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25 アメリカン・ビートとは、シヴォレーの新車で新聞を配る少年

GMの一部門であるシヴォレーが作っている、セレブリティという名前の自動車の1988年モデルの広告だ。いつもなら自転車で走りながら、家々の前庭に新聞を投げていくのだが、今日は雨の日のため、大人に自動車を運転してもらって配達している。このシヴォレー・セレブリティを買うことは、子供たちにおかねの価値を教えるための、たいへんに優れたいい機会になるはずだと、コピーは言っている。その日本に、この広告写真に描かれているような光景が日常のひと齣となる日が、はたして来るだろうか。僕は、来ないと思う。だからこの広告は、ふたつの国の根本的な差というものを教えてくれている。
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26 街角から次の番号へ電話をかける1-800-USA-ARMY

アメリカ陸軍が志願兵を募集するための広告だが、陸軍というものに対して興味を抱いてもらう切実なきっかけがひとつでも生まれるならそれで十分であるという、間接的な募集広告だ。Before you start your career, it pays to learn the ropes.というヘッド・コピーは、ロープを使った降下訓練の写真との語呂合わせになっている。そして本文コピーは妙に工夫をこらした文章ではなく、平凡に、しかし真正面からそれを読む人を説得していく。
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27 二十五セントの切手一枚から学ぶ、アメリカの歴史と現在(既公開作品)

この25セント切手の人物は、エイサ・フィリップ・ランドルフという人物だ。彼は、アメリカにおける黒人の人権の拡大に関して大きな努力をした人として知られている。パブリック・メッセージのヘッド・コピーもそしてボディ・コピーも、ほんとにアメリカらしい名文だ。アメリカは、自分がかつて掲げた理想を、まだ降ろしていない。そしてその事実を、ことあるごとに自らに対して、アメリカは確認している。このような記念切手も、その作業のうちのひとつだ。
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28 ほかの色は禁止されてでもいるかのように圧倒的にブルー

自分が妊娠したかどうか、自分だけで確認することの出来る検査確認用の医療器具の広告だ。女性の生理的なメカニズムにかかわる医薬品その他の品物の広告やパッケージには、アメリカではブルーが多用されている。ほかの色は禁止されてでもいるかのように、圧倒的にブルーだ。
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29 すくなくとも昨夜は、彼女は彼とともに過ごした

画面の隅々まで充分に配慮のいきとどいた様子は、まさにアメリカの広告写真だ。そしてその画面のなかで、演出されきったさりげない自然さで堂々としているのは、彼女の脚だ。むこうずねはつるつるに輝き、見るからにすべすべと美しい。日本にも、女性用のむだ毛剃りシェイヴァーは何種類もある。雑誌で広告されるとき、ここにあるこのような写真が使用される日が、果たして来るだろうか。そんな日は来ない、と僕は思う。
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30 人は絶対にコンフォタブルでなくてはならないという、強迫観念

Make yourself comfortable. という、日常生活のなかで多用するフレーズがコピーとして使ってある、スニーカーの広告だ。板張りのフロアが持つ清潔感、色や模様の心地良さが、母親と幼児の着ているものにもよく調和している。演出されつくして到達した自然な感じと、画面の中にあるさまざまな要素に関して、こまかく丁寧にそして繊細に、配慮と神経をめぐらせた結果としての、バランスと統一は見事だ。一枚の広告写真からも、学ぶべきことは多い。
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31 味をつけた炒めごはんにしてようやく、米はつけあわせとして食卓に乗る

ただ炊いただけの白いごはんは、アメリカの人たちにとっては主食として毎日食べ続けることなどとても出来ない、位置の低い食品だ。この広告に出ているようなシーズニングを使い、炒めごはんのようにしてようやく、アメリカの人たちは米を食べることが出来る。レシピ・カードのかたちを模したパッケージは、アメリカの大衆好みだし、紹介されているレシピの一例も、読んでいくだけでもう食べたような気持ちになれるほどに、アメリカ的だ。
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32 朝食は文化だ。そしてその文化は、他の文化を排除する

一日のはじまりである朝食が、違和感のかたまりのようなものとして何日も連続したなら、どこの国のどのような人たちも、つらい思いを心のなかに蓄積させていくはずだ。だから、ここにあるこのような広告が、広告として成立する。目玉焼き二つと、火を通したベーコンが二本、皿の上にただ置いてある。これこそ我が心の朝食だと心の底から思う人たちが、アメリカには圧倒的にたくさんいる。
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33 一九七四年のアメリカでは煙草を喫うことがまだ肯定的な意志の表明だった

1974にアメリカで刊行された婦人雑誌を見ていたら、感銘的な広告をみつけることができた。強い意志とそれによく釣り合った現実的な能力を自分のものとして持った、美しく若い女性が、自分のありったけを表面に出して、広告写真のなかからこちらを見ている。ウインストン・スーパー・キングという銘柄の煙草の広告だ。いまではとても言えないような言葉がならんでいる。この一点の雑誌広告のなかに、1974年からこちらにむけての、アメリカにおける文化的な変化の時間の経過がある。
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34 タータ・コントロール・フレッシュ・ミント・ジェルを使っているのは誰ですか

クレストという、よく知られたブランド名で出ている歯みがき6種類だ。ヘッド・コピーもボディ・コピーも、特別に人の目をひくものではない。ごくおだやかな出来ばえだ。平凡だ、と言ってもいい。しかし、雑誌に掲載される一ページの広告としての、画面の構成に関わるアイディアと、そのアイディアを一枚の写真に仕上げるまでの、のどかで牧歌的でさえある丁寧さは、注目に値する。
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35 高きをめざせ。新しい地平に手をのばせ。それは偉大なるウェイ・オヴ・ライフだ

最近の大衆雑誌に掲載されていた、アメリカ空軍への入隊勧誘の広告だ。ボディ・コピーは、熟読玩味に値する。凡庸さときわどい紙一重の平明さを基調に、定石的な前進力をたたえたアメリカ英語で、空軍への入隊を四つのパラグラフで訴えている。パラグラフごとの字数と構成、そしてたたみかけかたは、アメリカ的説得文の見本のようだ。
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36 失われて久しい遠いあの頃。まだ健在だった家族の物語。絵に描いたようなバターの味

今は東京に住んでいる生粋のアメリカ人がこの広告をふと見たなら、その瞬間、このような朝食を食べたいという切なる思いに彼は体をふるわせるだろう。平凡な朝食の訴求力は大なのだ。ランド・オ・レイクスという名のこのバターは「あの頃へ連れ戻してくれる味」なのだそうだ。パッケージも雑誌広告として描かれている絵も、すでに失われて久しい世界や価値観に土台を置いている。そして、ボディ・コピーがすべての仕上げをしている。
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37 ヌードル・ローニ・パーメザーノを讃えるアメリカふうな一篇の詩

ローニとはマカローニのローニであり、なんとかローニときたら、アメリカの一般大衆の食卓では、それはパスタのサイド・ディッシュだ。マイクロウェーヴやレンジ・トップで、ほんの数分間調理するだけで、簡単に出来あがる。僕は、アメリカの雑誌でこのような広告を見ると、次の食事はこれだ、とかならず思う。そしてそれだけで安心する。
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38 ビューイックの新車に犬を加えて、アメリカの五人家族という幻想のファミリー・ポートレート

アメリカの人たちにとって、もっとも大事なものは家族だ。アメリカの歴史は、ファミリーの物語だ。ファミリーというものに託された、アメリカの人たちの従来どおりの価値観が、この広告写真のなかに表現してある。日本の自動車メーカーが、日本車の広告のために、この写真とおなじような広告写真を作ってアメリカの雑誌に使用したなら、それはマナーあるいはエティケットの違反になるだろうか、と僕はふと思う。
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39 リーヴァイス九〇〇シリーズの、完璧な着こなしの一例

モデルの女性は、じつに着心地良さそうにしている。気持ち良さそうだ、と言ってもいい。とにかく、この広告の最大のポイントは、そこにある。一着のジーンズで、こんなに気持ち良くなれている写真を、雑誌のなかに見かけたなら、さっそく自分も買おうと思う人は、多いのではないだろうか。ここまでよく出来た広告写真は、なかなか作れるものではない。額に入れてしばらくは壁に飾っておきたい、と思うほどの出来ばえだ。
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40 アメリカでアメリカ的な頭痛にみまわれたときの、よく効くはずの頭痛薬

ニュープリンは生理痛を和らげる薬として知られているらしい。この広告に使ってある写真の女性は、相当にひどい生理痛に耐えている人として、演出してある。「ほんとにひどい生理痛をとおして、素晴らしい頭痛薬を私はみつけました」と、ヘッド・コピーが言っている。細かな文字によるボディ・コピーは、ニュープリンについての、ごく普通の、おだやかな説明となっている。
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41 アメリカの食文化のなかでホイップド・クリームが占める重要な位置

アメリカの食文化のなかで、ホイップド・クリームは興味深い重要な位置を占めていると、僕はかねてより確信している。たとえばここにあるこの広告のようなイメージおよびありかたで、ホイップド・クリームは、アメリカの文化のなかに定位置を得ている。もっとも重要な要素は、赤いベリーの上にかけてある白いホイップド・クリームの、形や質感であり、見る人の心のなかに喚起する味や舌ざわり、口に含んだ瞬間の快感的な感触と広がるイメージなどだ。
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42 手に入れた一軒の家は、アメリカの物語を自分たちもまた継承していく場所だ

自分の家を買いたい、売りたい、あるいは買い換えたい、と思っている人たちのための、イメージに訴えることを目的とした広告だ。しかしこの広告の写真は、いくらイメージ広告とはいえ、実体から離れすぎてはいないだろうか。しかも写真のなかの家は、相当に遠い過去を指向している、と僕は感じる。広告の一番下に、小さな文字で二行にわたって印刷してある文句が、厳しい現実の一端を映していて、僕には興味深い。
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43 明るさを基調とする風とおしの良い社会は、個人の尊厳を土台にしている

見開き2ページで広告してあるのは、EPT (early pregnancy test)のテスト棒だ。棒の先端がピンクに変化すれば、その女性は妊娠している。白いままなら、妊娠はしていない。奇をてらった広告ではない。見る人のどぎもを抜くような広告でもない。ごく普通の、淡々とした平凡な広告だ。その広告をつくづく見て、僕は結論として思う。これはまさにアメリカなのだ、と。
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44 ひとりの小学校の先生をアメリカ的に演出すると、一例としてこうなる

女性の衣料品や靴そしてアクセサリーなどを全般的に扱う、カタログ通信販売の会社の広告だ。特別にどうということもない発想の広告だが、アメリカふうにのんびりした余裕がぜんたいに漂っていて、そこを細かく見ていくとかなり楽しめる。ターゲットは小学校の女性の先生だ。コピーはスピーゲルで買った服を着ていると、クラスの子供たちだけでなく、体育の男の先生も関心や注意力を寄せてくれます、などという内容だ。苦笑してしまうが、これはこれでいいのだろう。
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45 デザインという秩序世界にもエントロピーの法則は働いている

ジーニスという、かつては非常に有名だったブランドの、ラジオの広告だ。雑誌に掲載されていた広告なのだが、掲載されてから少なくとも二十年は経過している。ラジオやスピーカーの造形もさることながら、広告全体のデザイン処理に、まず最初の懐かしさを僕は感じる。白いスペースと黒いスペースとの、面積の配分や配置の工夫など、これは鑑賞に値する。いまもしこのラジオが市販されているなら、僕はほぼ必ず買う。
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46 さらにもっとアメリカ人らしく、という理想をベイビー・パウダーをとおして、追求する

大きなサイズの容器に入ったベイビー・パウダーと、年月をへたテディ・ベア、真珠の首飾りなどが、ドレッシング・テーブルの上に置いてある。鏡に映っている若い女性の、アメリカという母国における過去と現在そして未来が、この写真の中でひとつに統合され、提示されている。そして、It's a feeling you never outgrow.というボディ・コピーが、その統合の仕上げをしている。つまりこの広告はベイビー・パウダーというよく知られている日常的な製品を介して、ひとつの理想を描いてみせている。
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47 バターをつけシロップをかけたパンケーキを食べる人の、理想像の一例

「ジェマイマ伯母さん」印のシロップは糖分が半分です、ということをこの広告は伝えようとしている。メイプル・シロップとはうたってないから、人工的に作ったメイプル・シロップ風味のシロップなのだろう。この男の子を見てほしい。自分が所属する文化のなかで、自分がもっともよくなじんだ、そしてもっとも好んでいる朝食を心ゆくまで食べたとき、たとえばこの年齢の男の子はこのような目をする。ひとつの理想像をこの広告写真は描いている。
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48 ホリデー・シーズンのための、まっ白なオレオ! クリスマスはホワイト・ファッジにくるまれて

まっ黒と言っていい色の丸い二枚のクッキーの間に、白い「あんこ」が挟んである。このとりあわせは、いま見てもどこか不思議だ。食べるものではないような雰囲気がどこかにあり、そこが楽しいと言ってもいい。ナビスコ・ブランズという会社が作って売っているオレオだ。まっ黒なオレオの、まっ白な新種が、クリスマスのホリデー・シーズンに合わせて発売された。これは面白い。僕としては、これは食べたい。と言うよりも、まず買いたい。
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49 ヴァイス・グリップを持っていない男性は信用できない。なぜなら彼には、日常生活がないから

1982年12月号の『グッド・ハウスキーピング』というアメリカの家庭雑誌にこの広告を見つけた。女性から男性へのクリスマス・プレゼントに、ヴァイス・グリップの2本組を贈る提案をしている。ヴァイス・グリップは本当に素晴らしい道具だ。身のまわりにどうしても持っていたい物品の数が僕はきわめて少ないけれど、その少ない物品のなかにヴァイス・グリップは確実に含まれる。したがって、ヴァイス・グリップを持っていない男性は、明らかに信用出来ない。
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50 いまのアメリカ英語によるスープの魅力のとらえかた

キャンベルズというブランドの新製品、スペシャル・リクエストという種類のスープが、ここに広告されている。従来のものよりも塩分が3分の1少なく、コレステロールも少ない、カロリーも150あるいは100以下である、ということが新製品としての魅力の中心になっている。小さな文字によるボディ・コピーの第一節は、そのことをワン・センテンスで、ものの見事に表現している。こういうものの言いかた、つまりものの考えかたは、完全にいまのアメリカ英語のものだ。
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51 フリーダムを守ることが3Kになったら、その国はもはや国ではない(既公開作品)

湾岸戦争で連合軍が地上戦に入る期限が目前にせまった頃、アメリカのごく一般的な週刊誌に掲載された、軍への入隊を勧めるための広告だ。この広告では、アメリカという国が死守せずにはおかない原理と原則だけが、きわめてアメリカ的な調子で提示してある。湾岸戦争を強く意識した結果であることは明らかだ。アメリカにとって最も大事なものは自由だ。その自由に制限を加えようとするものに対して、アメリカは立ち上がる。その結果がどのような戦争になっても、その戦争は正義の戦争だ。
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2023年10月13日 00:00 | 電子化計画

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