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珈琲に呼ばれた

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1「旅と、音楽と、珈琲と」

『珈琲が呼ぶ』という本は二〇一八年の一月に発売された。編集を担当して一冊の本にまとめたしのはらつねさんが、最初に僕に見せたエッセイは、こうのさんによるものだった。題名とともにその全文を引用しておこう。

旅と、音楽と、珈琲と

鴻巣友季子

 私は珈琲が体質的に苦手なのだけれど、むしょうに飲みたくなる時がある。毎年、何週間かニューヨークに滞在する時と、片岡義男の本を読んでいる時だ。前者の場合は、朝の忙しないダイナーかデリで、スザンヌ・ヴェガを気取って飲みたい。かたや後者は、アナログレコードのかかるクラシックな喫茶店などで飲むのがいい。

 珈琲は片岡義男の創作のミューズであり、無数の名作が珈琲から生まれてきた。この珈琲エッセイ集のなかでも、彼はそれを飲むためだけに、東京から京都へ出向く。上七軒にある老舗喫茶の椅子を愛おしみ、卵サンドやビーフカレーなど喫茶店の食事を楽しむ。

 はしご酒ならぬ、はしご珈琲もよくある。神保町のタンゴ喫茶「ミロンガ・ヌオーバ」と、そこから数歩の「ラドリオ」。その古いままの路地が、いまや彼にとって唯一の東京だという。

 ビートルズマニアと珈琲を飲みつつ語り合う一編は、一枚の写真をめぐる、エッセイというより極上の短編だ。このイギリスのグループは初来日時、機内で配られたJALの社名入りのハッピを着て羽田に降り立った。四人がどの順番でタラップを降りてきたかという質問に、マニアは即答する。

 名曲も盛りだくさんだ。谷川俊太郎作詞の「ブラック・コーヒー」、ボブ・ディランの「One More Cup of Coffee」、映画『パルプ・フィクション』の挿入歌「Coffee Shop Music」、ブラジル音楽の雄バーデン・パウエルのカバー「知床旅情」。

 時には、こだわらない珈琲も出てくる。タヒチのパペーテで「おやつの時間」に、町はずれの「食堂」で注文すると、巨大な瓶入りのインスタント・コーヒーと、でこぼこのやかんに入ったお湯が、どんっと卓上に届いたという。そんな珈琲もまたよきかな。

 珈琲をめぐる長い旅は、二両編成のローカル線で締めくくられる。その小さな終着駅の近くにも、珈琲の名店はもちろんあるのだ。

2「つげ義春、片岡義男、父 松本正彦、そしてローマ」

 鴻巣さんと作家の三浦しをんさんが語り合う会合に、僕は友人とともに出席した。町田の文学館だった。鴻巣さんの語りを、観客のひとりとして受けとめてみたくなったからだ。三浦しをんさんとの語り合いがあることを知った瞬間、そのような願望がはっきりしたかたちになったのを、僕は意識した。確か地震のあった年の五月ではなかったか。晴天の気持ちのいい日だった。

 ふたりの女性たちの語りはたいそう興味深いものだった。聴いている僕は何度となく啓発された。観客のひとりとなって、彼女たちふたりの語り合いを受けとめる体験は、僕にとって初めてのことだった。観客とはどういうことなのか。受けとめるとはどんなことなのか。さらには、語るとは、なになのか。それぞれの語り手が、すぐ隣りにいる相手とどのような関係を作るのか。

 観客は客席からふたりを見ている。僕もそうだった。見えるかぎりの物がすべて見えていた。見えていた物と、彼女たちふたりの言葉とは、不可分の関係にあるのかどうか。観客席、という位置。そこにいる自分。見えている語り手たち。そして語り手たちがそれぞれに発する言葉。ふたりの語り合いが終わるとき、最後に残るのは言葉だろう、という結論は急であるような気がする。言葉に付着するいろんな物が、言葉とともに、記憶のなかにあるのだから。しかもその言葉は、観客の記憶から、もっとも消えやすいのではないか。

 篠原恒木さんが次に僕に見せたのは、松本知彦さんのブログだった。これも全文を引用することにしよう。松本知彦さんは『たばこ屋の娘』の作者である、松本正彦さんの子息だ。『たばこ屋の娘』は僕の好きな作品だ。あの単行本を手に入れたのは、新宿駅のルミネと言っただろうか、上のほうの階にブック・ファーストという書店があり、そこのコミックスの棚の、大人が読む漫画、というような仕切りのなかで見つけた。

「父の作品に出て来る街の情景が、西武新宿線の中井駅であると言い当てていることに相当驚きました。舞台は中落合とはどこにも書いていないのに、絵を見ただけでそれがわかるっていうのはなぜだろう」と松本さんはブログに書いている。「中井に住んだことがあるのかな」とも彼は書いている。

 僕は中井に住んだことはないが、あの踏切の絵を見れば、これは中井だ、と断言出来るほどには、中井を知っている。『コーヒーの味』という短編の主人公の男女は、歌舞伎町二丁目の区役所通りと大久保公園とのあいだの、やや西寄りにいる。そこからふと西へいけば、西武新宿線の新宿駅だ。そしてここで時間と場所が飛んで、次のコマにはあの踏切があり、ふたりはその踏切の前に立っている。ふたりは西武新宿駅から電車に乗ったのだ。物語をつらぬく法則として、そうなる。降りる駅はいくつかあるけれど、飛んでいる時間はせいぜい三十分だし、踏切の絵を見ればこれは中井だとすぐにわかるのだから、歌舞伎町二丁目からふたりが移動した先は、中井しかないことになる。

つげ義春、片岡義男、父 松本正彦、そしてローマ

松本知彦

 僕の父が漫画家であったことは、このブログでも時々紹介しているので、既にご存知の方もいるでしょう。

 専業主婦の家庭が九〇%以上だった昭和の時代、一日中家で机に向かっている父と、外に働きに出る母の二人に僕は育てられました。

最近2冊同時に刊行されました。新刊です。

 自分の家が他人の家庭と少し違っていることに気がつくのは、中学校を過ぎたあたりからだったでしょうか。その差異を知れば知るほど、だんだんと自分の家のことを他人には話さなくなっていきました。心地よかったこともあったけれど、どちらかというとコンプレックスに感じていて、その期間がすごく長かった。自分の育った環境を他人に話せるようになったのは、最近になってからです。以前の自分なら、みんなに見られるかもしれないブログに書くなんて、絶対にできなかったでしょう。

 今ではそうした環境だったからこそ、気がつけたことも多かったなぁと思えるようになりました。もちろん他の人が普通に気がつくことが、自分にはわからないということも多々あると思います(そっちの方が多いかな)。男にとって父親は近くにいながら、背中しか見えない、近いようで遠い存在です。常に身近な存在である母親とは違う。自分の思う父親像は、他人が考えるそれとは若干異なっているのではないかと思うことがあります。世の中と自分、好きなことと仕事、家族、愛情、お金、大切なこと、人生、幸せ、そうしたことを大人になってから考える度に父を思い出さないことはありません。

『SPECTATOR』つげ義春特集です。

 さて前置きが長くなりましたが、今回は父親が紹介されている書籍が二冊新刊で出ているので紹介したいと思います。

 最初は『SPECTATOR』という雑誌です。今回はつげ義春特集で、その中で僕の父は、つげ義春に影響を与えた作家として紹介されています。取り上げてくれたのは、劇画研究の第一人者である編集者の浅川さんです。生前つげさんと交流のあった父は、つげさんのことについて僕に話してくれたこともありました。つげさんと父は『迷路』(一九五八年発行)という貸本雑誌で一緒に描いていたことがあるのです。

「おばけ煙突」が収録された『迷路』の表紙には父の名前もあります。

 大阪で活動していた父は、劇画というジャンルを作ったグループの中心メンバーでした。彼ら七人は、のちに劇画工房というグループを作り、団体で活動するようになります。彼らは自分たちの作品=劇画工房のメンバーだけの作品を掲載して発行する雑誌を自分達で作り始めていました。東京のつげさんは、関西の作家たちで作られた劇画工房のメンバーには入っていません。それがなぜ父と同じ雑誌に描くようになったのか?

『影』1号に収録されている父の作品「隣室の男」から。

蒸気機関車が出てくるつげさんの作品と父の作品の比較。

 その頃の父は、「劇画工房」のメンバーには入らず、一人で「駒画工房」の看板を掲げて活動していました。ともに共同生活を送りながら劇画というジャンルを作った仲間、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかを(いずれも劇画工房メンバー)とは合流せず、一人で別行動を取って活動していました。「劇画」のルーツとなる「駒画」という表現ジャンルを先に作り上げていた父は、駒画に対抗して一年半後に作られた劇画=劇画工房には特に入る必要がなかった、と生前僕に語っていました。自分の作った「駒画」に愛着もあったのだと思います。だから大阪の劇画工房の作家たちによって次々と世に出てくる雑誌を尻目に、一人東京の作家=つげさんたちと東京の出版社で作品を描いていたのでした。つげさんの傑作「おばけ煙突」の貸本雑誌には、父の作品も一緒に収録されています。しかし、辰巳さんやさいとうさんなど、大阪の友人たちが出版する雑誌に掲載するには劇画工房に入らなければならない。最終的には父も、劇画工房へ合流することになるのでした。このエピソードにも父の性格が表れていると、息子は感じます。

こちらは光文社から出ている片岡義男エッセイの新刊。

 もう一冊は片岡義男のエッセイ集『珈琲が呼ぶ』です。

 片岡義男さんといえば、『スローなブギにしてくれ』が一番有名ですね。父が七〇年代に描いた「たばこ屋の娘」という作品を自分の本に載せたい、という連絡をもらった時には、片岡義男が父の作品を知ってるのか? マジか? と、かなり戸惑いました。彼のようなメジャーな有名人と、父のインディペンデントな作品に接点があるとは到底思えなかったです。

 送っていただいた本を読ませてもらいましたが、これまたびっくり。その描写が的確で(プロなんで当たり前ですが)、特に父の作品に出て来る街の情景が、西武新宿線の中井駅であると言い当てていることに相当驚きました。舞台は中落合とはどこにも書いていないのに、絵を見ただけでそれがわかるっていうのはなぜだろう? 以前もブログで書いたことがありますが、それは僕と父だけしか知らない親子の秘密のようなことだと思っていました。自分が小学校のころ、学校まで通った情景がマンガの中に描かれていて、見る度に家族で暮らした中井での様々な思い出が浮かんで来て、ノスタルジックな気分になります。それは極めて個人的な感情で、他人にはわかり得ないこと、作品は日本のどこか架空の街が舞台となったストーリーと読者は思うはずと思っていたのですが、本に書かれているその指摘には本当に驚きました。彼は中井に住んだことがあるのかな。でないと、絶対にわからないと思うのです。

「たばこ屋の娘」に出て来る中井の踏切。

「たばこ屋の娘」「劇画バカたち」どちらもamazonで買えますので是非。

 他にも父の別の作品で、劇画の誕生秘話を描いた「劇画バカたち」も取り上げてくれたり、『松本正彦駒画短編集』の中で、父の亡くなる一週間前に僕が聞いて書いたインタビューの内容を取り上げてくれていました。父がいなくなって十年以上が経ちますが、こうして今でも誰かがどこかで読んで話題に出してくれるのは、本当に嬉しいことですね。

今ローマで開かれている展覧会です。

 最後に。

 ちょっと話は飛びますが、今ローマの美術館で、アジアのマンガヒストリーを紹介するMANGASIAという展覧会が開かれています。そこに父の作品も展示されています。

 日本だけでなく、世界中で一人でも多くの人が、父の作品に触れる機会があるのは嬉しい限りです。この展覧会は五年をかけて、世界中を回る展示です。ローマの前はロンドンで開かれていました。僕も招待されたのですが、その頃ちょうど仕事が忙しくてロンドンには行けなかった。残念。次はどこの国で開かれるのかはわかりませんが、日本にも来ないかなぁ。

3「近年『私語り』をし始めた著者が明かす出版社嘱託期」

 次に全文を引用するのは、坪内祐三さんによる書評の記事だ。これのコピーも篠原さんから受け取った。僕は「ここ数年、私語りをするようになった」と、坪内さんは書いている。書く文章の内容によっては、自分について書かざるを得ない。だから書く。この場合は、辰巳ヨシヒロについて書くなら龍円正憲という編集者について書かねばならず、彼について書くなら、この自分に関しても、書かないわけにはいかない。龍円は『潮流ジャーナル』という週刊誌の編集部に在籍していたという。当人からそう聞いた。これについて書くなら、『潮流ジャーナル』についても書かなくてはいけなくなる。ただし自分の記憶は断片的であり、しかも記憶している内容が正しいのかどうか、いまとなっては確かめようがないのだから、「私語り」はどうにもならない。どうにもならない、ということを承知した上で、出来事の順番を事実どおりにならべ、そこでなにがあったのか、これも可能なかぎり正しく思い出していく作業は、僕が得意としてはいない領域だ。「私語り」を避けるのは、得意ではない領域を迂回するためだ。

近年「私語り」をし始めた著者が明かす出版社嘱託期

坪内祐三

 身内誉めに受け取られるかもしれないが、二〇一六年九月に出た佐久間文子『「文藝」戦後文学史』(河出書房新社)はとても内容のある出版文化史だった。

 私もそのジャンルの専門家を自称しているから、それに関する本を(私家版も含めて)多く読破している。

 そんな私であってもこの本で教えられたことが幾つもある。

 その内の一つが、あの片岡義男(当時はテディ片岡)が短期間とは言え、河出書房に在籍していたという事実だ。

 まったく知らなかった。

 というのは、片岡氏はこれまで自分のライフヒストリーを語ることが殆どなかったからだ。

 その片岡氏がここ数年、私語りをするようになった。

 この書き下ろしの新刊『珈琲が呼ぶ』(片岡氏の初めての「珈琲エッセイ本」だという)に目を通していたら、河出書房時代のことが登場した。「一九六六年から六八年にかけて、二年ほどの期間、僕は河出書房の嘱託だった」。

 彼を河出に導いてくれたのは『マンハント』や『ハードボイルド・ミステリー・マガジン』という雑誌の編集長をつとめたのち、「新しい雑誌を作りたい」という社長の意向で河出の社員(新雑誌企画室の責任者)になった中田雅久だった。

 当時の河出には龍円正憲という編集者がいて、辰巳ヨシヒロの漫画を彼から教わった。龍円は、「これは面白いよ」と言って辰巳の作品の載っている雑誌『漫画Q』を片岡氏に手渡し、二人は人形町にあった同誌の編集部を尋ね、仕事をもらおうとしたが、編集長は、「どこへいってもすぐに仕事になる人たちとお見受けするから」と言ってやんわりと断わった。

 編集者龍円の最大の功績は片岡義男のテナー・サックスの師匠である広瀬正のSF小説『マイナス・ゼロ』と、それに続く計四冊を河出から刊行したことだ。

 ところで片岡氏の参加していた新雑誌は結局創刊されることがなかった。

4「夢でまた逢えたら」

 二〇一九年の一月号そして二月号の『小説宝石』から、亀和田武さんの連載『夢でまた逢えたら』の全文を引用しよう。

「下北沢の狭いインド料理店」に空席をみつけた亀和田さんは、「腰を下ろし何を注文しようかと顔を上げたとき、すぐ近くの止まり木に座って食事する片岡義男さんの姿があり、私たちの視線が一、二秒ほど交差した。けっこう長い時間だ。そう、森茉莉さんも常連だった下北沢の狭いインド料理屋で、およそ四十年前に私と片岡さんは同じ空間にいたのだ」と、二月号の連載のいちばんおしまいのところで、亀和田さんは書いている。

「下北沢の狭いインド料理店」とは、僕が記憶しているかぎりでは、バンガロールという名の、洋食の店だった。テーブル席は十人でいっぱいになっただろう。僕は止まり木に座って食事をしていた、と亀和田さんは書いている。止まり木とは、カウンターのことだ。空いているテーブルがなかったので、僕はカウンターの椅子にすわったのだろう。その僕と亀和田さんの視線が、一、二秒、交差したという。

 かつての下北沢駅の南口だった階段を降りてくると、右側に名店街のような建物があった。いろんな店が寄り集まっている建物だ。僕がまだ十代の半ばだった頃、ここに中村屋があり、パンを買いにいくのが僕の日課のひとつになっていた。

 この名店街の建物を右に見ながら、下北沢南口商店街の道に入ってすぐ右側に、眼鏡店があった。その左隣りは確か宝飾と時計の店で、経営はおなじだったという。この二軒の店舗のあいだに細い道があり、入ってまっすぐに行くと、二軒の店舗を出はずれたところの左側に、バンガロールがあった。店に入るとすぐ右側が調理場で、正面の壁には小さな窓があり、その窓から店主は常に、調理をしながら南口の階段とその周辺を、見ていた。外国航路の貨物船の調理人をしていた人だ、と誰かが言った。僕の好みでは味がやや濃かったが、僕は何度もここで食べた。

 一九七八年あるいは七九年だった、と亀和田さんは書く。僕の記憶はまったく当てにならない。どのくらい当てにならないか、当人もよく知っている。だからここでも、亀和田さんの説にすんなりと従う。年号を言われれば、なるほど、あの頃か、と見当はつく。夕食には早すぎる時間だったはずだ。昼食にしては遅い。つまり、ごく曖昧な時間に洋食の店に入って食事をする、というような生活を僕はしていたことになる。

 バンガロールからは歩いて自宅へ帰ったはずだ。十二、三分だったろうか。代田二丁目の高台からその南側の梅丘通りへ下りていく途中の、いまはもうない集合住宅の三階の部屋に、当時の僕は住んでいた。ここから邪宗門という喫茶店まで、足早に歩いて六分ほどだった。

夢でまた逢えたら

亀和田武

片岡さんのコーヒー本から、世田谷の「邪宗門」と国分寺「田園」の記憶が蘇る。

 片岡義男さんに、また逢うことができた。こんなことって、あるんだなあ。

 この連載タイトルじゃないけど、〈夢でまた逢えたら〉それだけで充分と、自分に言いきかせていた。なのにあることが契機となって、片岡さんと私に再び接点が生まれ、事態はあれよあれよという間に動きだし、私は小田急線の経堂駅近くにある洋食バルで再会を果たすこととなった。

 一冊の本が、きっかけだ。今年一月に片岡さんの『珈琲が呼ぶ』という本が出版された。帯に〝なぜ今まで片岡義男の珈琲エッセイ本がなかったのか?〟のコピーがある。

 この本がじわりじわりと読者を増やして〝重版出来!〟、ついに五刷に達した。私はある新聞の読書面で〝売れてる本〟という企画コーナーの原稿を書いている。ちょっと意外な本が、売れてますと紹介する欄だ。

 担当記者から「カメワダさんにぴったりと感じる本と出会いましたよ」と興奮した口調の電話があり、届いた本が『珈琲が呼ぶ』だった。記者は、私が片岡義男の愛読者であることを知らない。そんな余計な予備知識もなしに、『珈琲が呼ぶ』と私の相性がぴったりと見極めた記者の直感は鋭い。私の書いた書評記事を、光文社の担当者であるSさんが片岡さんに報告し、この日の経堂での再会となった。

 コーヒーといえば喫茶店。瞬時にそう連想する人は、いまどのくらいの割合で存在するのか。なにしろコンビニでは百円コーヒーが提供されている。インスタントコーヒーを飲んでいる層は、いまも確実に存在する。

 片岡さんは内省的な人だから、コーヒーを巡る経済的な変化や、社会的な価値観の移ろいにも目を向け、四十五篇の長短さまざまな、そして内容も多岐にわたるコーヒー本を一冊の書籍として、私たちに提示した。

 音楽や映画のワンシーンに出てくる印象的なコーヒーにまつわるスケッチもワクワクする。しかし、やはりコーヒーと喫茶店は、切っても切れない関係にある。

 片岡さんの本にも、数多くの喫茶店の名前が記されている。ご自分が原稿を書くためにひんぱんに通った喫茶店から、つげ義春のマンガ作品や回顧録に登場する喫茶店、さらには趣味と嗜好が嵩じてなのか京都の各所に残る、味わい深い老舗の喫茶店まで。私は単純な性格ゆえか、コーヒーといえば喫茶店しか思い浮かばない男だから片岡本に登場する喫茶店の固有名詞を見るだけで、興奮したり感傷に浸ったり、記憶が刺激されること大であった。

 じつはこの本に記された喫茶店のうち八割以上の店で、私はコーヒーを飲んでいる。私がこの本を読んで紹介記事を書くまでには幾つかの偶然が介在しているけれど、『珈琲が呼ぶ』と私の巡り合いは、必然とまではいわないが、何か強い縁に結びつけられた結果のように思えてくる。

 たとえば巻末近くに配された「ときには森さんの席にすわることもあった」という、やや長めのエッセイで描かれた、世田谷の代沢近くにある「邪宗門」という喫茶店。森さんとは、文豪・森鷗外の娘である作家、森茉莉さんのことだ。森茉莉さんはこの店の常連だった。いや、常連の枠を大きく逸脱した客だったのだが、そのことは後で記そう。

 このエッセイには、そのとき三十七歳だった片岡義男が体験したあるエピソードが記されている。レコード会社の女性ディレクターから依頼された原稿を渡さなければならないその日、彼は自宅から六分の場所にある邪宗門に向かう。

 原稿には、まだとりかかってもいない。自宅を出てから坂を下る。「用水路を暗渠にして緑道と称している道を鎌倉通りまで歩き、鎌倉橋南の信号で梅丘通りを渡り、最初の脇道を右へ曲がった」。懐かしい。十七歳の高校生だった私も、下北沢の駅からけっこうな時間をかけて「緑道」まで歩き、そこから邪宗門を目指したことが何度かある。

 邪宗門の場所を女性ディレクターに説明する会話が、いかにもこの作者らしい。

「なんというお店でしたっけ?」「邪宗門。僕のような邪悪な人が宗教を求めて入る門」「邪悪なら私は負けてないのよ」「代田一丁目です」「ひょっとして、白秋の」「邪宗門秘曲、という題名の」「そこへいきます」「では、三時三十分に」

 マイッタね。さすが片岡義男だ。以前に「国立・邪宗門」のことを、この連載で書いた。アマチュアの奇術師たちが作った邪宗門グループの第一号が国立店だ。高校二年から三年にかけ、学校を早退しては国立駅前の路地にある邪宗門に通った。

 三十歳になって、また国立の近くに戻ってきたころ、私も女性編集者たちと邪宗門で会って、打ち合わせをしたり、原稿を渡すことが何度かあった。しかし「僕のような邪悪な人が宗教を求めて入る門」というフレーズを使って、店名を説明する発想は、まったく思いつくことがなかった。私にも片岡さんの〝邪悪さ〟の、ほんのひと欠片でもいいから持ち合わせがあったなら、こんなスリリングな会話を楽しめたのに。残念。

 片岡さんは店に入り、コーヒーを注文するとすぐに原稿を書きだす。指定は二千字。彼は一時間三十分で原稿を書きあげる。二杯目のコーヒーを注文した直後だ。「時間どおりに美人の彼女があらわれた」。

 やはりね。美人のレコード会社ディレクターが登場するんだよ。うらやましいな。片岡さんが原稿を書いていたのは「店に入ってすぐ左の、窓を背にした席」である。ここが、やはり近所に住んでいた森茉莉さんの指定席だった。もちろん、高校生の私は、そんなことを知る由もなかったが。

 当時の代田・邪宗門ではいつも美空ひばりの歌が流れていたという。美人ディレクターに原稿を渡してから何日かしたとき、片岡さんは〝入ってすぐ左の、窓を背にした席〟に、また一時間ほどいた。店の外に出ると、ひとりの中年の女性が立っていた。店を出てきた「僕」を見つめる「彼女」の視線を受けとめた瞬間に、その意味が伝わった。「あなたがすわっていた席が空くのを私はここで待っていました、という意味だ」

 十年近く前に、邪宗門の御主人から、当時の森さんの話を聞く機会があった。早朝のテレビで放映する十五分ほどの散歩番組に出演したときだった。下北沢篇を担当したとき、懐かしいスポットを何箇所か巡った。その中のひとつが代田の邪宗門だった。

 代田の邪宗門に初めて行ったのは高校三年生の夏だった。私は早生まれで十七歳だったが、環七に近い代田に住んでいた隣のクラスの藤沢君はもう十八歳の誕生日を過ぎ、運転免許もすぐに取った。「藤沢が、今夜は江の島までドライブだって。一緒に行かないか?」。共通の友人である浜田君に誘われ、邪宗門で待ち合わせたのだ。

 下北の近くにも邪宗門があるらしいぞ。そんな噂を聞いていたから、気になっていた。国立店の成功に刺激され、奇術師サークルの人たちは趣味と実益を兼ねた喫茶店を開くことを夢みた。二号店が荻窪にオープンし、代田店は第三号店だった。一号店は骨董品を陳列し、三号店は美空ひばりを流し、興が乗ればどの店もプロ並みの奇術を店主が披露する。

 あの夏、藤沢君の運転する車で江の島まで遠出した私たち四人は、結局オンナの子に声を掛ける勇気もなく、何ひとつ心躍る体験をすることなく代田に夜遅く帰った。運転することに純粋な喜びを感じている藤沢君は満足気な表情だったな。ナイーブな少年だったんだよ、彼は。植物系男子の先駆けみたいなタイプかな。

 彼の顔を見ているうちに、私の邪悪な心も薄らいでいった。考えてみれば、江の島まで夜のドライブなんて、生まれて初めての体験だ。男ばかり四人。ちょっと残念だけど、高校三年の夏のメモリアルとしては、意義ある一日だったのかもな。ようやく、自分をそう納得させることができた。

 森さんの話題に戻そう。店主によれば、森さんは朝九時か十時の開店と同時にドアを開けると、指定席に座る。コーヒーを飲みながら原稿を書いたかと思うと、自宅から持参したパンを食べ、筆が進まなくなると、手荷物一式を指定席に置いたまま外出する。本屋に入ったり、買い物をしたり。それから邪宗門に戻ると、執筆に集中する。そしてまた気分転換をはかるため、店を出ていく。そんな具合いに、朝から閉店近くまで、邪宗門を自分の仕事部屋と居間と食卓を兼ねたような空間として、何年間か使用していたようだ。

 片岡さんは原稿を渡したひと月ほど後に、美人ディレクターともう一度、邪宗門で会う。待ち合わせ時刻は、午後の三時三十分。コーヒーを飲みながら話しているとき、美空ひばりの「花笠道中」が流れた。やがて二人は店を出て、鎌倉橋南で彼女はタクシーを待つ。

「ひばりさんの歌ばかりかかるお店なのね」と彼女が言う。「花笠道中」の話になった。「あの歌をご存知なの?」「僕が高校生だった頃の歌です。ごく最近、あの店で知りました」。そう言った途端に「彼女はその歌を歌い始めた」。この後が、すごい。興味を惹かれた読者は、ぜひ本を購入して、これに続く意表を衝く展開と、その後に待つ不思議な余談を味わってほしい。

 片岡さんが、つげ義春や辰巳ヨシヒロ、松本正彦といったマンガ家たちの作品や生活にも、かなり興味を抱いていたことを、『珈琲が呼ぶ』を読んで初めて知った。

 ひょっとしたら、そのことはもう他の片岡本には書かれているのかもしれない。私も片岡さんの本はかなり読んでいるつもりだが、なにしろ片岡さんの著作数はあまりに多すぎて、追いつかない。いま名前をあげた、つげ義春、辰巳ヨシヒロ、松本正彦の三人は、いわゆる〈劇画家〉である。辰巳などは六〇年代末から、少部数ながら異彩を放った『ガロ』出身の劇画家ではなく、そのずっと以前に大阪の日の丸文庫など貸本マンガ出版社のメインを張っていた人で、「劇画」という言葉も五〇年代末に辰巳が考えたものだ。

 その直後に、後に『ゴルゴ13』で不動の地位を得る、さいとう・たかを、松本らと上京して、中央線の国分寺のアパートに住む。それにしても、なぜ国分寺を選んだのだろう。松本正彦が当時を回顧したマンガが、紹介されている。「東京と思うて出てきたら、えらい田舎やで」と、三人の中の誰かがいう。

 多摩地区(この頃、国分寺は北多摩郡に属する町だった)の田舎町でも喫茶店くらいは幾つかあった。若いウェイトレスは「らっしゃーせ」と客を出迎える。「これやな、しびれるわ」「コーヒーや、ブルマンやで」と彼らは騒ぐ。松本のインタビューが紹介されていて、映画館は二軒、「喫茶店は、田園、バセロン、リリーなどで、田園は美人のウェイトレスがたくさんいることで評判だった。コーヒーは五十円だ」とある。

 私が田園に初めて入ってコーヒーを飲んだのは高校二年生の春だから、一九六五年だ。小ぢんまりした、薄暗い照明の名曲喫茶だった。当時は西国分寺駅がまだなかったから、国分寺は高校のあった国立の隣り駅だ。

 学校をサボッて、デキの悪い生徒二、三人でツルんで入ることが多かった。奥のボックス席に座ってブレンド・コーヒーを注文すると、すぐに誰もが煙草に火をつける。

 そう、高校生にとって喫茶店とはコーヒーを飲む場所というよりは、隠れて煙草を吸うための場所だった。学校の教師や、警察の少年課の刑事に補導されにくい店を、私たちは独特の嗅覚で探しだし、国分寺では名曲喫茶の「田園」と、ジャズ喫茶「モダン」にたむろするようになった。

 ジャズ喫茶に入り浸るのはわかる。しかし「田園」にも、けっこうな頻度で通ったことが、いま考えると解せない。なにしろ名曲喫茶だ。しかも店名が「田園」だからね。いつ行っても暗い店内にはベートーベンの「運命」や「田園」「英雄」といった重厚な交響曲が流れていた。

 関西の貸本マンガ家が移り住んできたときは「美人のウェイトレスがたくさんいることで評判だった」とあるが、私たちの頃は中年の御夫婦が地味な店を切り盛りし、バイトの若い子など一度も見たことがなかった。

「あの店だと、オマワリも来ないだろ」。たぶん煙草を安心して、まるで蒸気機関車の煙のように吹き上げたりするために、私たちは田園に、ある時期ひんぱんに通ったのだろう。警察官が来ないことにくわえ、柄の悪い他校の不良生徒が立ち寄らないことも安心材料だった。ベートーベンを流す名曲喫茶には、さすがにヤクザ予備軍も出入りしない。

 なんだか高校二年生の私が、不憫に思えてくるな。ただ煙草を吸うだけのために、聴いたってわかりゃしないクラシックが流れる名曲喫茶に、学校サボッて入り浸るなんてね。しかも一緒に奥のボックス席に陣取る仲間も、決して心を許した友達なんかじゃない。共通項は成績が悪くて、しかも向上心がないというネガティブな要素ばかりだ。

 えっと、黒歴史っていうんだっけ、いまの人たちは。そんな可哀想な私が通っていた店が、いまも健在で、ときおり新聞の多摩版や雑誌に紹介されているから、びっくりする。昨年で九十歳になった奥さんが、お一人でコーヒーを淹れているという。お気に入りの曲はと訊かれて「やはり主人が好きだったベートーベンのシンフォニー六番かしら」と答えている記事をネットで見つけて、少しだけホッとする。

 仲良く名曲喫茶をやってきた御夫婦の店が、いまも同じ場所にある。いくら多摩地区とはいえ、現在の東京でこれは奇跡に近い。心ワクワクする瞬間などなかったのに、高校生の一時期、あれだけ通いつめたのには、何か理由があったのかもしれない。何を魅力と思ったのか。当時も、そしていまも謎だけど、世の中に少なくないといわれる喫茶店マニアのためにも、のんびりお店をつづけて下さいね。

 片岡さんの本には多くの写真が使われている。その中でとりわけ目を惹くのが、御茶ノ水駅の聖橋から東を撮った、見開き五点のカラー写真だ。中央線と総武線、そして地下鉄丸の内線が交叉する、鉄道マニアならずとも、東京に住んでいる幸福を一瞬感じるスポットだ。

 聖橋の東側のまん中あたりにカメラを据えた定点写真を、片岡さんは思いつく。台湾の世界的な映画監督、ホウ・シャオシェンが撮った『珈琲時光』(二〇〇三年)に、聖橋から見た神田上水と緑色の鉄橋、そして電車をとらえたショットが、適正な間隔で三度あらわれるという。片岡さんは『珈琲時光』にインスパイアされて、電車がまったくいない瞬間から始めて、三つの電車がそれぞれ画面に出現する瞬間を撮り、見開き五点の写真を掲載した。なんと贅沢な。

 そしていま、私は思いだした。侯孝賢が世界から注目を集めるきっかけは『悲情城市』(一九八九年)のヴェネツィア国際映画祭での金獅子賞受賞だった。『悲情城市』の音楽監督の一人は日本人である。高校三年生の春に、私と机が隣だった男だ。決して心が通いあう友人ではなかったが、彼とも国分寺で下車し、田園とモダンに入って、コーヒーを飲み、煙草を吸ったことが二、三回ある。その記憶が蘇った。こうして、私と映画『珈琲時光』、さらに片岡義男がつながった。そして国分寺の薄暗い喫茶店で過ごした時間にも、何か意味があったのかもしれないと思えた。

片岡さんに神保町や下北沢の喫茶店で擦れ違っていたかもしれない。

 片岡義男さんの近著『珈琲が呼ぶ』(光文社)には何軒もの喫茶店が登場する。いや、何軒もという形容ではとても追いつかない。おびただしい数の喫茶店の名前が、この本の文中に記されている。さらっと店名だけを挙げたケースもあれば、喫茶店それ自体が主役と思えるほど入念に、そして細かいディテイルまで描かれた章もある。

 よほど片岡本に出てくる喫茶店の数と、なんなら店名まで調べてリストアップしようかと思ったが、愚かしい行為に思えて止めた。片岡さんのスタイリッシュな文章世界には、およそ馴染まない野暮な行為だ。

 ともかくこの本にはたくさんの喫茶店が出てくる。そしてその八割近くの店に、まだ若かった私も通ってコーヒーを飲んでいたことにびっくりした。

 本がそろそろ中盤に向かうあたりに、神保町のミロンガとラドリオという、路地をはさんで向き合う二軒の喫茶店に触れた章がある。もう半世紀以上も変わらぬ路地のたたずまいをバックに、店の前からせり出した喫茶店の看板を撮った二点の写真に味わいがある。たぶん片岡さんの撮ったものだと思われる。

「ラドリオからミロンガへのはしごではなく、ミロンガからラドリオへのはしごを僕は好いていた。あまりにも好きだったので、二〇一六年、このことを短編小説のなかに書いた。『この珈琲は小説になるか』という題名の、作家を主人公にした短編だ」。片岡さんはミロンガで一時間ほど原稿を書くと、残り半分を書くために店を出て、ほんの数歩の距離にあるラドリオの扉を開けて、中で原稿を仕上げる。

 私が三省堂書店に近い、この二店にたまに通ったのは高校二年生から一年目の予備校生のころだ。なんでまた神田の狭い路地にある喫茶店のリピーターになんか、なったんだろう。ミロンガはなにしろアルゼンチン・タンゴが流れている店だ。一九六〇年にしては、渋すぎる店だった。たぶん文芸誌に載った文壇交遊録で、かつて昭和二十年代から三十年代にかけての著名文士も通った店と書かれていたのだろう。

 そんな読書体験があっての、神保町の二軒の店への遠征だった。ミロンガとラドリオには、最初は一人で行った。高校は国立にあったから、生徒の大半が住むのは多摩地区だ。遠くてもせいぜい杉並区どまりである。さらに稀れにいる文学少年も、興味が及ぶのは大江健三郎あたりまでだ。第一次戦後派がよく通った店に関心を寄せる少年はいなかった。

 私はタンゴが流れるミロンガで、一人コーヒーを飲みながらタバコを吸う時間を楽しんだ。マジメな若者は名曲喫茶に通ったのだろうが、時代はジャズ喫茶の全盛期である。そんなとき、神保町の路地にある、当時でも充分に「戦後感」ただよう古びた喫茶店でタンゴを聴いていると、何か風流の極致に遊ぶような心地になり、愉快に思えてくる。

 高校三年の春を過ぎてから、趣味の重なる友人もできて、三、四人でミロンガに通ってお喋りに興じたこともある。予備校生のときは、女の子とも入った。あの頃も、そして社会人になってたまに何年に一度か気まぐれでミロンガに寄っても、夏はクーラーがなく扇風機だけで、さすがにきつかった。いまミロンガの冷暖房はどうなっているのだろう。

 ある時期の片岡さんは、ミロンガとラドリオのある狭い路地や、そこに近接するエリアで仕事をこなしていたようだ。「かつて、その地域に、喫茶店が何軒も、点在していた。当時の僕はそれらの喫茶店をはしごして原稿を書き、編集者との待ち合わせや打ち合わせを日に何度もおこなった」

 片岡さんが神保町を再訪し、おそらく二軒の喫茶店をカメラで撮ったときに同行者がいた。ラドリオの後に白山通り裏手にあるエリカの前まで行ってから、二人はクルマを止める。「タクシーで新宿へ向かうあいだ、お茶の水のレモンの二階がカフェだった話をした。喫茶店ではなく、カフェだ。東京におけるカフェのはしりの一軒だった、と僕は理解している。待ち合わせや打ち合わせのために、しばしばこの二階のカフェに上がった」

 カフェという言葉を高校三年生の私は知っていたが、それがどんなものであるかは、ほとんど理解していなかった。趣味の重なる友人もできたと書いた。代沢の邪宗門で待ち合わせて、夜の江の島へ一緒にドライブした浜田君もその一人だ。彼とは春の終わりに、新宿の紀伊國屋ホールで、トリュフォーが監督した『突然炎のごとく』を観ている。

 ハリウッド女優とはまったく異なる表情をもつジャンヌ・モローの美しさに、一瞬で魅了された。そして奔放な女に振り回されるジムとジュールという二人の男からも、私は目が離せなくなった。一人の女を愛する、優しい二人の親友。気まぐれな女は、ジムと付き合っていたかと思うと、今度はジュールと暮し始める。しかし、男同士の友情は損なわれない。わがままな女に翻弄されながらも、それを喜びと感じてしまう男たち。

 私は彼らの姿に自分を重ねた。上昇志向などひとかけらも持ち合わせず、友情のためならば女を独占することも放棄してしまう男たち。男二人と女一人。嬉しそうにパリの街を駆け巡り、郊外の草原に横たわって歌い、くつろぐ三人組。たしか「つむじ風」という曲をジャンヌ・モローは歌った。女に人生をめちゃくちゃにされても、男二人は悔まない。どころか、彼らの友情は深まっていく。

 これだ、これだと私は強く思った。実社会での成功を望まず、他人には奇妙に映るに違いない男同士の友情と、一人の女に寄せるひたむきな愛情に殉じた男たちの姿は、私のネガティブな性格の真芯を撃った。

 映画を観終わり、私と浜田君は紀伊國屋書店の裏口から右手に出ると、伊勢丹会館の一階にあるフルーツパーラーに入った。すごいなあ。あんな映画があるんだなあ。初めて観たよ、情けない男が格好良く思える映画って。

 私は夢中になって喋りつづけた気がする。浜田君は私の話を聞いた後で「俺はさ、カフェでボーイに向かって、〝ギャルソン!〟って声を掛けるじゃない。あのシーンが格好いいと思った」と感想を口にする。いま振り返れば、カフェの理解度においては、残念ながら友人の方がひとつもふたつもレベルが上だった。

 他の二人も加え、仲間三人とよくつるんで幾つもの喫茶店に入り浸った。映画やマンガ、現代アートの話をするには、ジャズ喫茶は適さない。私語厳禁。あんな勘違いの聴き方を強制した新宿DIGでは、むろん会話は無理だ。

 そんな野暮な縛りなどなかった他の多くのジャズ喫茶も、スピーカーから流れる大音量のモダンジャズのせいで、会話がスムースに運ばない。

 私たちはお喋りの場に、フルーツパーラーを選んだ。新宿なら駅ビルの二階にあった明治フルーツパーラー。さらに先述した伊勢丹会館の一階の店。そして御茶ノ水では、私たち四人はやはりジャズ喫茶と名曲喫茶を敬遠して、画材店レモンの二階にある店によく通った。カフェのことがよく判ってない私は、フルーツパーラー風の喫茶店と理解していたようだ。ミルクセーキやソーダフロートを口に運びながら、もう間近に迫っている大学受験のことなんか忘れて、リー・マービンや横尾忠則、永島慎二、そしてアンディ・ウォーホルの話に興じる時間は楽しかった。

 なぜ学校から遠く離れた御茶ノ水駅までやってきて、ミルクセーキを飲みながらのアート談議──じゃないな、ポップ文化を巡るゴシップ噺に興じたのか。私を除く三人は、誰もが美大志望の生徒だったのだ。

 五月か六月に、浜田君と初めて中央線の車内で言葉を交わしたときから、不思議に思ってはいたんだ。国立駅から上り電車に乗り込んで、まだ創刊されて間もない「話の特集」を鞄から取りだして読んでいた。すぐ隣の吊り革を、他のクラスの生徒四人が摑んでいる。うち三人とは顔見知りで、やはり私同様に成績が悪い。

 もう一人の知らない生徒が声を掛けてきた。「その表紙って、横尾忠則?」。高校生で、横尾忠則を知ってる男に初めて会った。「ちょっといいかな、見せてくれる?」「うん、いいよ」。私と同じく、学生服のズボンはVANの黒いコットンパンツでキメている生徒は、うれしそうに頁を繰っている。「あ、宇野亞喜良もこんなに大きなイラストを描いてるんだ……」。(へえ、こういう趣味の生徒が、あの学校にもいたんだ)。これが正直な感想だった。

 電車が国分寺駅に近づいた。「こんな雑誌が出てたなんて、知らなかったよ。ありがとう」といって、彼が雑誌を返してよこした。「まだ創刊三号かそこらだから……でも、イラストレイターのこと、よく知ってるね?」。イラストという言葉は、まだ普及していなかった。小説誌に載るものは挿絵と呼ばれていた時代だ。「うん、横尾さんとか宇野さんとか、好きだから。宇野さんのアキュラックスっていう、あのサインが格好いいよね」

 電車が国分寺に着いた。おや、彼らも一緒に降りた。「どこ行くの?」。顔見知りの生徒に訊く。「ああ、俺たちはこれから北口でマージャンだよ。カメワダは?」「俺は『モダン』」。やはり北口にあるジャズ喫茶の名を告げた。しょぼい駅前まで雑談を交わしながら歩き、交差点で「じゃあ」といって、四人は右折して雀荘に、私は左折してほぼ毎日のように通っていたジャズ喫茶を目ざした。

 その翌々日の昼休みに、廊下でばったり彼と会った。浜田という名前は、かれの麻雀仲間から聞いていた。「すぐに『話の特集』を見つけて買ったよ。すごいね、写真は立木義浩だし、デザインが(田中)一光さんって頁もあったし……」。ひとしきり雑誌の話で盛り上がる。

 翌日の昼休みには、浜田君が二人の生徒を連れて私の教室にやってきた。弘中君はマンガに滅法くわしく、貸本劇画まで読んだり収集していた。もう一人の佐川君はプロレスと翻訳ミステリーの愛好家だ。そして三人は誰もがB級映画のマニアで、リー・マーヴィンを尊敬していた。女優の千石規子の話題で盛り上がったりして、当時の高校生シネフィルとしては、まあセンス良かったんじゃないでしょうか。

 すぐに四人して、あっちの喫茶店、こっちのパーラーと出向き、初めて学校内で同好の士を見つけた喜びから長話に興じた。彼らに連れられて私もシネマ新宿などによく通うようになった。(俺はまったく受験勉強しないけど、こいつらも受験の準備、なーんにもやってないなあ)。

 そんな連中といると気が楽になる。そうしたら、しばらくして彼ら四人が受験勉強をおろそかにしている理由がわかった。三人とも武蔵野美大ムサビ多摩美大タマビが志望だったのだ。なんだ普通の受験生は俺だけか。少しは勉強しなきゃいけないのだが、ともかくヤル気はゼロだからね。何か事件をおこして留年とか退学にならなければ、こんな大っ嫌いな高校生活ともオサラバだ。それまでは地上スレスレの低空飛行でもいいから、あと半年をやり過して浪人になろう。

 ここまで勉学の意欲がないのは、一学期に私と机が隣だった立川君くらいだ。立川直樹君。先月号で触れた、台湾の映画監督、侯孝賢の代表作『非情城市』の音楽を手がけたプロデューサーの一人だ。彼は学校で唯一人のビートルズ風マッシュルームカットでキメた生徒だ。アマチュアのエレキバンドはとっくに卒業して、米軍キャンプのステージにも時どき上がるセミプロ・バンドに属していた。

 片岡さんの本には、アル・クーパーが二〇〇五年にリリースしたCD『ブラック・コーヒー』の内容と写真に触れた章がある。かつて十代でデビューした天才少年の、つい十年前の顔を見て、片岡さんは感慨にふける。そのアル・クーパーが初来日したのは二〇〇三年だ。彼を呼んだのが立川君だ。老け顔なのにラメの紫色のスーツでキメたアル・クーパーは格好よかった。立川君も、いいセンスしてるじゃないか。

 そうだ御茶ノ水のレモンの話だった。三人の仲間は画材を求めて、ときどきレモンまで出かけた。彼らが買い物をすませると私も交えて、片岡さんが「東京におけるカフェのはしりの一軒だった」と書く店でお喋りに明け暮れるのだ。

 片岡さんと私が、どこか東京の喫茶店やカフェのはしりのような店で擦れ違っていた可能性はあるのだろうか。本の後半に「僕が最初に喫茶店に入ったのは、一九五七年、十七歳の頃、下北沢のマサコだったと思う」という一節がある。マサコには、私もよく通った。私がマサコに初めて入ったのは、一九六六年、高校二年生のときだ。

 緩い雰囲気の店だった。サイパンやグアム島あたりにありそうな安っぽい洋風喫茶店というか、バラックっぽいカフェだ。天井や壁一面に、女主人が、来日した黒人ジャズメンと一緒に写っている大きな白黒写真が何点も貼ってある。太ったママさんは化粧も奇抜で、着る物はムームー風だった。ハワイの日系二世とかポリネシアンの面影もある。ジャズメンとのツーショット写真を大きく貼ってあるにしては、流す音楽はいい加減な選曲で、シャンソンやカンツォーネ、ポップスまで流していた。

 大学に入ってからもたまに立ち寄った。七〇年代の半ばから後半にかけての俗悪出版社時代は、住まいが代田橋だったから下北にはよく出かけた。マサコには一人でも出かけたし、マンガ家との打ち合わせに使ったりもした。浜田君も偶然に近所に住んでいた。下北の南口にカレー屋さんというかインド料理屋を見つけたんだけど、これがおいしいんだと教えてくれた。店の名はバンガロール。

 森茉莉さんも、この店を気に入っていたことはずっと後に知った。「ここは椅子席が八つと、止り木の席が五つあるが椅子と止り木の間を通るのが、なかなか大変な位狭い」とKAWADE夢ムック『総特集 森茉莉』に収録された「下北沢界隈の店々と私」の中にその様子が描かれている。

 つづく文章に「だがこの店をいよいよ狭く見せているのは、巨人のような主人のにたないさんの存在である」と書いてあるのだが、私には御主人の姿が特別に異形なものと見えたことはない。「この店で私のすきなのは卵カレエ(茹卵が添えてある)とビイフ・ピカタ、バンガロール焼めしである」の一節には、ほぼ同感である。それまでのカレー屋とかインド料理の店とは、まるで味が異なる。私たちの世代には馴染み深い、渋谷百軒店のムルギーのカレーとも大違いだった。

 森さんのエッセイに「似内さんにはロシアの人のような、顔の造作の大きめな、似内さんより奇麗な奥さん」がいて店で働いているという一節がある。私も奇麗な奥さんという評価には同意するが、ロシア人のような、顔の造作が大きめという形容は首肯できない。バンガロールの奥さんは、色もやや浅黒いインド風のキリッと引き締まった顔の方だったという記憶があるのだが。

 ねえ、片岡さん、どう思われますか。あれは七八年か七九年だったと思う。

 森さんが書いたような狭い店内にようやく空席を見つけて、腰を下ろし何を注文しようかと顔を上げたとき、すぐ近くの止り木に座って食事する片岡義男さんの姿があり、私たちの視線が一、二秒ほど交差した。けっこう長い時間だ。

 そう、森茉莉さんも常連だった下北沢の狭いインド料理屋で、およそ四十年前に私と片岡さんは同じ空間にいたのだ。

5「目眩を誘うコク深いエッセー」

 亀和田さんは朝日新聞の土曜日朝刊の読書欄でも『珈琲が呼ぶ』を採り上げて書評を書いた。それもぜんたいを引用しておこう。次のとおりだ。

目眩を誘うコク深いエッセー

亀和田武

 コーヒーの話で本を一冊。意外や、片岡義男が出す初の〝珈琲エッセー本〟である。この著者なら並のコーヒー本ではないな、と読む前に確信した。

 喫茶店に入って「コーヒーでいいよ」と注文する人に思いを巡らす文章が、四十五編からなる本書の最初の方にある。問題は「で」だ。ビールでいいや。おまえでいいや。日常で多用される「で」に違和感を覚えたらどうするか。「コーヒーがいい」だ。「が」には「それを選んで特定した」気配がある。

 戦後すぐの東京で、男女がデートする場面を撮った映画。ふたりとも金がない。暗い顔の男は「みじめな自分が嫌だ。世の中はこんなだし」と嘆く。「戦争にいく前のあなたにはもっと夢があったわ。自分たちの店を持って、おいしいコーヒーを出したいという夢」。戦争は人の心を変える。政治的な言葉でなく、片岡義男は映画の台詞から読み手に伝える。

 音楽や映画に登場するコーヒーを描くシャープな短文も読ませる。その一方で、ザ・ビートルズ来日公演などに材をとった、長めのフィクション味を帯びた文章もコクがある。

 京都のスマート珈琲店は、幼い美空ひばりが太秦の撮影所に来ると必ずホットケーキを食べに来た。十歳の「僕」も母に連れられコーヒーを飲む。店を出ると「ひとりの少女が立って僕を見ていた」。少し年上に見える彼女が「去年の夏にもお見かけしたわね」と言う。私も少年と同じ軽い目眩を覚えた。

 東京・世田谷の邪宗門という喫茶店でレコード会社の美人ディレクターと会う話も印象に残る。森茉莉さんが通いつめた店だ。美空ひばりの歌がよく流れた。美人ディレクターが「ひばりさんの歌ばかりかかるお店なのね」と言う。その後の展開が素晴らしく、夢のようだ。

 コーヒーの飲みかたと意味も価値も変わった日本と東京。しかし変化しない路地や店もある。珈琲を通し、経済と嗜好と日本語を考察した贅沢な本だ。

6「第23回 読売出版広告賞」

『珈琲が呼ぶ』は日本各地の新聞に広告がたくさん掲載された。そのうちのひとつ、二〇一八年十月三十一日の朝日新聞朝刊に掲載された、業界用語ではサンヤツと呼ばれている、三段八割りの広告が、第二十三回の読売出版広告賞の、特別賞に選ばれた。贈賞式があり、篠原恒木さんは出席し、表彰楯と副賞を受け取った。その広告とあわせて、選考委員のひとりであった、アート・ディレクターの中森陽三さんのコメント全文を、引用する。

第23回 読売出版広告賞

特別賞

光文社『珈琲が呼ぶ』

二〇一八年十月三十一日付朝刊 3段8割

 コーヒーのおいしそうな香りがただよってくる朝を迎えて、新聞を広げるとサンヤツ広告から活字が呼びかけている『珈琲が呼ぶ』。写真家でもあり、ことのほか珈琲には縁の深い片岡義男さんの淹れてくださった珈琲ともなれば、どこででもいただけるコーヒーとは訳がちがう。タイトルは今時のCOFFEEでなく漢字二文字の珈琲にこだわり、タイトルはヨコ、著者名はタテと斬新で目立つ鍵型の構成で、生まれて来た空白に珈琲の香りが満ちて来ます。珈琲を通して物語が深まっていくようです。呼びかけられた本を手に、居心地のよいいつもの喫茶店の椅子をめざして出掛けることになる。

(中森陽三氏/アートディレクター)

出典

1「旅と、音楽と、珈琲と」 JAL機内誌「SKYWARD」2018年6月号

2「つげ義春、片岡義男、父 松本正彦、そしてローマ」 「談話室松本」私の履歴書 2018年3月16日 https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2018/03/post-35.html

3「近年『私語り』をし始めた著者が明かす出版社嘱託期」 「週刊ポスト」2018年3月16日号

4「夢でまた逢えたら」 「小説宝石」2019年1月号、2月号

5「目眩を誘うコク深いエッセー」 朝日新聞 2018年11月24日朝刊 承諾番号:20-1282

6「第23回 読売出版広告賞」 読売新聞 2019年1月30日朝刊


1958年 2018年 Coffee Shop Music MANGASIA One More Cup of Coffee SPECTATOR 「文藝」戦後文学史 おばけ煙突 さいとう・たかを たばこ屋の娘 つげ義春 つげ義春、片岡義男、父 松本正彦、そしてローマ アル・クーパー アンディ・ウォーホル ガロ コーヒー コーヒーの味 ゴルゴ13 ザ・ビートルズ ジャズ ジャンヌ・モロー スローなブギにしてくれ チョイス テディ片岡 テナー・サックス トリュフォー ハードボイルド・ミステリー・マガジン バンガロール バーデン・パウエル パルプ・フィクション ビートルズ ビーフカレー ブック・ファースト ブラック・コーヒー ベートーベン ボブ・ディラン マイナス・ゼロ マンハント ミロンガ・ヌオーバ モダン ラドリオ リー・マービン ルミネ ローマ 三浦しをん 三省堂書店 下北沢 世田谷 中井 中森陽三 中田雅久 中落合 亀和田武 京都 人形町 代田二丁目 佐久間文子 侯孝賢 光文社 劇画バカたち 劇画工房 千石規子 卵サンド 喫茶店 国分寺 坪内祐三 夢でまた逢えたら 宇野亞喜良 小説宝石 展覧会 広瀬正 御茶ノ水 悲情城市 文学館 新宿駅 旅と、音楽と、珈琲と 明治フルーツパーラー 朝日新聞 松本正彦駒画短編集 松本知彦 森茉莉 森鷗外 横尾忠則 歌舞伎町二丁目 永島慎二 河出書房 河出書房新社 漫画家 漫画Q 潮流ジャーナル 珈琲が呼ぶ 珈琲自時光 田中一光 田園 町田 目眩を誘うコク深いエッセー 知床旅情 神保町 私語り 突然炎のごとく 立木義浩 篠原恒木 紀伊国屋ホール 経堂 総特集 森茉莉 美空ひばり 美術館 聖橋 花笠道中 英雄 西武新宿駅 話の特集 読売出版広告賞 談話室松本 谷川俊太郎 踏切 辰巳ヨシヒロ 迷路 週刊ポスト 運命 邪宗門 隣室の男 非情城市 駒画工房 鴻巣友季子 龍円正憲
2020年6月11日 07:00
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