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日本の女性たちがアメリカについて書いた本をていねいに読むと面白い。ぜひ読んでみてください。

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 なんらかのかたちでアメリカをテーマにした、日本人の著者による本が、日本でたくさん刊行されている。この一〇年くらいのあいだに刊行された、いわゆる「アメリカもの」の本を、ぼくはたいてい買って持っている。いろんな意味で興味があるから、読まないまでもとにかく買っておくのだ。

 アメリカ旅行術の本から留学のしかたとか英語のお勉強の本なども含まれるので、いつのまにかたまってしまった「アメリカもの」の本の数は、たいへんなものだ。この一〇年間だけではなく、さらにそのまえの一〇年間に刊行されたものも、八〇パーセント以上は買ってあるから、ぜんぶ合わせると本の山がひと山できる。

 買うだけでほとんど読まないのだが、ちょっと感ずるところがあり、二十数冊たてつづけに読んでみた。日本の女性が書いた「アメリカもの」の本ばかり二十数冊、読んだのだ。

 日本人女性の手による、書店で一見したところみなおなじような印象のある軽装版の「アメリカもの」の本が、このところまるで定期刊行物のように、世に送り出されてくる。どのような読者にどんなふうに読まれているのかに関してぼくはまったく不案内なのだが、次々に新しい著者による本が刊行されてくるところをみると、ある程度は売れているにちがいない。

 女性が書いた本というといちだん低く見られてしまう傾向や逆に珍しがられる風潮が、いまだに続いているようにぼくは思う。彼女たちが書く「アメリカもの」の本は、読まずに外側から見ているかぎりにおいては、アメリカに滞在した期間中の生活を中心とした見聞録、という印象を持つためだろう、ちょっとばかりアメリカにいたからといってほんとうのことはわからないさと、いわれのない差別をはじめから受けたりしているようだが、ほんとのことがわかるためにはちょっともたくさんも関係はなく、彼女たちの本はそれをきちんと読む目さえあれば非常に面白いのだと、ぼくは保証する。

 彼女たちの本をぼくはこんなふうに読みましたというレポートのつもりで、すこしだけ書いてみよう。

 日本人の著者による「アメリカもの」の本を、非常に乱暴にそして極端に大別すると、面白いことに、男の書いた本と、女性の書いた本とのふたとおりに分けることができる。著者の性別によるこの二分法は誰にでも可能なのだが、書いてある内容をよく読み、その著者がいかなることをアメリカから学んだかによって分けていくと、やはり、男の書いた本と、女性の書いた本との、二種類になるのだ。乱暴ついでにもうすこしつけ加えるなら、男たちはアメリカから学んでいない、そして女性たちは自分の身の丈に応じて、学ぶべきことをちゃんと学んでいる。

 男が書いた「アメリカもの」の本は、彼の仕事につながったハウツー本だと言っていい。アメリカでの滞在はようするに仕事での滞在であり、パチンコ玉を粘土のなかに押しこめたような感じで彼はアメリカ社会のなかへ入っていく。

 仕事が終って日本へ帰ってくれば、パチンコ玉から粘土を洗い落とすともとのままのピカピカの日本人ここにあり、帰ってまいりました、という印象が強い。日記の整理がわりに本を一冊書いて、さあ、明日からまた国電に乗って会社、会社、だ。彼は、すこしも学んでいない。英語による日常的な会話がすこし上手になったりアメリカ社会のしくみに部分的につうじたりするようなことはあるかもしれないが、女性たちのようにアメリカ社会の本質を切実に感じとらないし、たとえ感じてもそんなことにかまけている余裕がとうていないから、結局は学ばなかったもおなじなのだ。

 女性たちは、こんな男たちにくらべると、ずいぶんちがっていて、将来にむかって可能性がほのかに感じられる。

 土質は相当にちがうかもしれないが、粘土を小さな玉に丸めてよくかわかし、粘土のかたまりの内部へ指さきで押しこむ、という感じで、彼女たちはアメリカのなかへ入っていく。かわいた粘土の玉には、あくまでも比喩としてこう言うのだが、かたまりのほうが持っている水分が、やがてしみこんでいく。

 ぼくの好みで言うなら、プロの評論家が書いたものは、あまり好きではない。男が書いた本と似てくるようなところがあるからだ。文章を書くことでは素人ないしはセミ・プロのようなごく普通の女性が、日常生活をとおしてアメリカに全身で接していくうちに、彼女なりにアメリカ社会の本質を見つけていく、というぐあいになっている本が、いちばん好ましい。

 彼女たちの文章の書きかたは、良く言って正直、悪く言って平凡だし、たいていの場合、日常のこまごまとしたことをとおして、そのむこうに、日本とはまったくちがう本質がおぼろげながら見えてくるのをそのまま記述するというスタイルだから、なんだ、こんなことか、と思われてしまいがちだし、彼女たちとすくなくとも同程度あるいはそれをこえるアメリカ体験が読み手のほうにないと、描かれている日常のこまごましたことがらがなかなか現実的な像になってこないのかもしれない。しかし、彼女たちが書くことは、すくなくともぼくには非常に面白い。

 彼女たちが学んでくるアメリカ社会の本質ないしはそれにごく近い部分とはいったいなにかというと、それはさまざまにありうるのだが、たとえば、アメリカ社会は表面的にはあまり変化がないように見えても、社会のしくみを支えるごく基本的な部分は、時代の動きに呼応して、轟々と音をたてながらと言ってさしつかえないほどに大きく変化している、というような、最重要なことであったりするのだ。

 こういう社会や文化を身をもって知るということは、それまでは日本しか知らず、したがって日本的な発想や思考しか持ちあわせていなかった人が、もうひとつの、まったくことなった発想ないしは視点を、自分のものとしてあいまいながらもなんとか手に入れた、ということなのだ。

 日本に帰ってきて、この新しい発想や視点で日本をながめなおしていくと、日本は表面的にはせわしなく激変しつつも、社会の基本はまったくの旧態のまま依然としてどこまでもつづいている社会なのだ、ということが、以前にもまして切実に、はっきりとわかる。自分の場であるべき日本はじつは悲劇の場なのだということが、見えてくる。発想の転換などをうたい文句にしている男は多いが、転換とは名ばかりで、実際は旧態のままであることがしばしばだ。

 日本人女性が書いた「アメリカもの」の本のなかには、著者が女性だから当然のことだが、女性問題が多く登場する。人類はこれまでにいろんな国や文化をつくってきたが、建国の歴史のスタート時点から、アメリカほど女性たちがはつらつとして自由に行動していた国はほかにひとつもない、というユニークな性質を持ってスタートしたアメリカの、現在の社会のなかで、アメリカ女性たちがいろんなかたちで能力をのばして活動しているありさまやその原理を、日本人の女性著者たちはよく見ている。こういった部分、そして家族関係あるいは人間関係が描かれている部分になると、「アメリカもの」などと失礼なことを言っていられないほどの面白さを持った本がとても多い。

 アメリカでの生活を終え、日本へ帰ってきた彼女たちは、余裕も奥行きもまったくない、小さな偏見にこりかたまった男たちが運営する男社会・日本を、いったいどうすればいいのだろうかと思いつつ、もどかしい日々を生きているのではないだろうか。

底本:『5Bの鉛筆で書いた』角川文庫 1985年


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2016年3月3日 05:30
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