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TVの記憶をふたつ

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 当時の僕の仕事場はたいそう快適だった。東の端にあった階段を二階へ上がり、まっすぐの廊下を西へ向けて歩いていき、突き当たりにあった和室を抜けると、二十畳ほどの広さの人工芝のヴェランダだった。このヴェランダの南西の角に、温室を介して面していたのが、僕の仕事場だった。机はほぼ南を向いていた。家の建物は高台への斜面の途中にあり、その家の二階からは例えば南に向けてなら、一キロは見通すことが出来た。この仕事場で小説その他の文章を書く仕事を、僕は日夜繰り返していた。

 二階で仕事をしているあいだ、一日に三回は、一階へ降りていた。一階の南西の端にキチンと居間があり、キチンで僕は珈琲を淹れた。淹れた珈琲を持って、すぐに二階へ戻った。こうして一階にいるあいだのごく短い時間、僕はTVの音声と画面を見るともなく見ていることがあった。僕はTVにまったく興味はないのだが、一階の居間では一日じゅう、TVがオンになっていたからだ。

 ごく短い時間のあいだ、断片的に、しかも基本的には毎日、僕はこうして、当時の日本のTVに接した。とんでもないものを、ごく断片的に、いくつも僕はTVで見ている。普段はまったく忘れているけれど、人との会話のなかでなにかが話題になったとき、あ、それはかつてTVの画面で見たことがある、というふうに思い出すことが、ときどきある。

 夕食の時間になると、「ご飯ですよ」と階段の下で叫ぶ声に対して、「はーい」と答えたのち、一階へ降り、居間とキチンを分けるカウンターの定位置につけば、夕食のあいだずっと、TVの音声と画面が食事にともなった。こうして体験したTVでもっとも忘れがたいのは、ちあきなおみ、という日本の女性の歌手のことだ。

 ある日の夕食でカウンターの席についた僕が、ふと受けとめたのは、TVで放映されていたなにかのCMで、日本の若い女性の歌手が『星影の小径』という歌を歌っていた様子だ。その歌声を、僕は受けとめた。受けとめたとたん、これをいま歌っているのは誰だ、という興味に僕はかられた。『星影の小径』は一九五〇年にヒットした歌謡曲で、小畑実という人が歌った。夕食の席についた僕が、若い女性の歌声でこの歌を受けとめたのは、一九八〇年代のなかばだった。一九五〇年から数えて三十五年前の歌なのに、それだけの時間をまったく感じさせなかった。それは歌っている彼女の才能によるものだ、と僕は判断した。

 知人に調べてもらうまでもなく、TVのCMで歌っていたのは、ちあきなおみ、という歌手だという。彼女の名前は知っていたが、歌をきちんと聴いたことは一度もなかった。『星影の小径』が収録されているCDを手に入れてもらったのをきっかけにして、いまでは彼女のCDが十数枚はあるだろう。彼女の歌は素晴らしい。およそ二十年にわたって、断片的に接したTVでもっとも記憶に残っているだけではなく、現在としてそのまま続いてもいるのは、以上のような体験だ。二番目に印象に残っていることについて書くために、もっとも記憶に残っているものについて、以上のように僕は書く。

 二番目に記憶に残っているのも、夕食の席についてすぐに体験したTVの断片だ。画面に映し出されていたのはアメリカの映画だった。カラーによる、当時としては新しいと言っていい、サスペンスふうのドラマではなかったか。画面では中年の男性と若い美人女性との、切り返しが交互におこなわれていた。日本語の字幕が出て、音声はオリジナルの英語だった。

「ではきみは、その日そこへは、いかなかったのだね」と、男性が英語で言った。僕はその英語をとらえた。So you didn’t go there that day. というような台詞だった。字幕には「いかなかったのだね」と出た。画面は女性に切り替わった。首を横に振りながら、No, I didn’t. と彼女は言った。驚くべきなのは、その単純なひと言に対してあたえられた、字幕の日本語だ。その字幕に出たのは「ええ、そうよ」という日本語だった。

 英語のNoが日本語では「はい」になる、というような認識は、少なくとも日本での英語学習者たちのあいだでは、いまでも広くいきわたっているのだろう、と僕は思う。僕はこの説を子供の頃から聞いている。Noと言うべきところで日本人がYesと言ってしまったが故の、さまざまな悲劇や喜劇が実際に起こったのだろう。しかし、それらに関しては、僕はなにも知らない。自宅での夕食の時間、一日じゅうオンになっているTVの画面と向き合う位置で椅子にすわったときに、英語と日本語というふたつの言語が出会う決定的と言っていい瞬間を、まったくの偶然で僕は見てしまった。

「きみは、その日そこへは、いかなかったのだね」と訊いている相手の言葉に託された、いかなかった、という意味を肯定するなら、日本語の字幕のとおり、「ええ」そして「そうよ」と、肯定の言葉をふたつ重ねるのが、日本で生まれて日本で育ち、そのあいだずっと日本語を使ってきた人たちにとっては、もっとも無理のない経路だ。

 ここにある問題は、英語のNoが日本語ではしばしば「はい」になる、というようなことではなく、IとYouの問題だと、僕は思う。ふたりしかいない状況のなかで、そのふたりのうちのいっぽうである男性が、So you didn’t go there. と、ほとんど名ざしに近いかたちで、しかも否定形で、彼女の行動を問い正している。

 問われたYouとしては、問題なのは相手の言葉に託された意味ではなく、自分の行動そのものについて、答えなくてはいけない。真偽のほどはひとまずおくとして、そこへその日の私はいかなかった、と答えるなら、相手が使った動詞をそのまま自分も使い、いかなかった、という行動を答えなければならず、それはNo, I didn’t go there that day. であり、これはNo, I didn’t. と略すことが出来る。相手の質問がどんなかたちであれ、自分の返答は、なにものからも切り離された単独のものとして、ほかになにもない虚空にひとつ、ぽっかりと浮かばなくてはいけない。

 英語の話者にとってのIは、他に誰もいるはずのない、ただひとりのこの自分であり、Youはほとんどの場合、名ざししたも同然の、そこにいるそのあなた、なのだ。こうしたIの概念もYouの概念も、日本では教えられていないとするなら、IとYouの画然たる区別などわかるはずがない。そのかわりそこにあるのは、人は誰であれ最終的にはみなおなじであり、おなじように考えおなじように行動するものだ、という理解だ。英語のIはしばしば「私」と訳されているが、「私」はIではない。「私」はじつは状況によってほかの存在でもあり得るし、最終的には「私」とはみんなのことであり、みんなとは日本人全員のことであるという、了解事項が横たわっている。そうであればこそ、相手の言っている言葉のなかにある意味を、この映画の日本語の字幕はとらえ、その意味をここでは彼女は肯定するのだから、「ええ、そうよ」となることに、不思議はなにもない。オリジナル音声である英語と、字幕という翻訳された結果の日本語とは、この映画が始まったところから終わりの場面まで、じつはこうして出会い続けたのだ。

 必要とあらば日本では、あらゆる外国語が日本語に翻訳される。翻訳された日本語をとおして、人々は日本の外にある世界に触れていく。日本は翻訳の国だ。映画の字幕も翻訳だ。外国の映画を映画館で観ることには字幕の日本語を読む営みがともなう、という認識はまだ消えていない。しかし家庭のTVでは、画面が小さいから字幕は読みにくい。しかもそこは日常の場だから、人は画面に集中しているわけではなく、いろんなことをしながら画面を見る。だから音声は日本語として常に聞こえていたほうがいい、という考えかたによって、日本語による吹き替えの台詞が定着した。日本のTVでたとえばアメリカのTVドラマは無数に放映されたが、ほとんどが日本語の吹き替えだったことを、僕は最近になって知った。

『刑事コロンボ』というアメリカのTVドラマの、主役である刑事の物真似がじつに巧みな男性が僕の友人にいるが、彼が真似てみせるのは吹き替えた日本人俳優であり、現実のピーター・フォークの声と喋りかたを初めて聞いたときには、天と地がひっくりかえるほどの衝撃を受けた、と彼は言うではないか。日本の外に出た瞬間の、衝撃だったのではないか。

 母国語と外国語とでは果たしてそんなにも異なるものなのか、所詮は人間の言語なのだから結局はたいした違いはないだろうに、というような日常的な認識は、母国語の内部へその人がすっかり取り込まれていることの証明だ。母国語の外には、とんでもない世界がある。

 言葉によって人は守られている、という言いかたは充分に成立する、と僕は思う。日本に生きている日本の人たちは、自分たちの言葉である日本語によって、かなり手厚く、守られている。この手厚さが、少しずつ薄くなりつつある、という実感が確定するのは、いまから十年後あたりではないか。少しずつ薄くなる、と僕は書くけれど、いまから十年後には、人々が守られている手厚さは、現在にくらべると半分くらいになっているのではないか、と僕は予測している。

『AJALT』2019年6月 第42号


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2020年6月30日 07:00
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