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友だちの家で食べた

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 友だちの家で初めて食べたものが、僕には多いような気がする。印象が強く残り、したがっていまでもよく覚えているものを三つだけあげると、寒天、芋粥、そしてカレーライスとなる。

 寒天は武家屋敷の別邸に住んでいた友だちのところで食べた。この友だちのお母さんは、色白細面に細身なで肩を絵に描いたような、和風の美人だった。いつもきちんと着物を着ていた。敗戦から二年目あたりだったか、黒蜜が手に入ったので作ってみたからお食べなさい、と言われて友だちとふたりでおごそかな座敷のテーブルで食べた。黒蜜とは黒砂糖を煮詰めて作ったものだろうか。

 子供の僕にも、これは趣味が良い、とひと目でわかるきれいな容器に、半透明のさいころがいくつも入っていて、粘性のある黒い蜜のようなものが、さいころの上にほどよくかけてあった。さいころはゼラチンで作るジェリーのように見えた。そのさいころを匙ですくって食べた。寒天だけではなく、黒砂糖の味と香りを初めて体験したのも、このときだったように思う。

 これは好きだ、と僕は思った。寒天のさいころの微妙な柔らかさに、黒砂糖の蜜がなんの無理もなしに調和していた。自宅に帰って母親に報告し、うちでも寒天を食べたいと言ったら、明日でいいから買うて来いや、と言われた。だから次の日、母親に教えられた乾物屋へいき、寒天をくださいと言い、寒天の材料となる寒天、というものを僕は買った。店のまんなかに木製の長方形のケースがいくつもならんでいて、ひとつひとつに透明なガラスのはまった戸がついていた。その戸を開き、なかに入れてあるものを取り出して、買うのだ。

 寒天はからからに乾いた半透明の一本の棒だった。四角い棒なのだが、縁と縁とのあいだは、端から端まで、まるで溝を作ったかのように、へこんでいた。手に持って振りまわすと、拍子抜けするほどに軽かった。海で採れる寒天というものを煮て溶かし、それを再び固めれば寒天になるのだ、という程度の説明は母親がしてくれていたから、友だちのところでおやつに食べた美しい寒天と、乾物屋で買った一本の寒天棒との因果関係は、店先でただちに納得することが出来た。

 いまスーパーへいくと、あのときとまったくおなじだと言っていい寒天の棒を、買うことが出来る。ヴィニールの袋に二本ずつ入っているのが、標準的なありかたのようだ。半世紀以上も前とほとんど変わらないたたずまいの食品は、海の魚を別にすると、陸上のものでは寒天だけではないだろうか。寒天を見にいったついでに、こんなことを思いながら食品を点検してみたら、春雨や蒟蒻そして麩や油揚げなども、半世紀を越える時間をへだてて、少なくとも見た目においては、なんら変化していない食品に加えてもいいようだ、ということがわかった。

 芋粥も友だちの家で食べた。これもきわめて上品な器に入っていたことを、いまでも覚えている。白い米で作った絶妙なお粥のなかに、薩摩芋が入っていた。薩摩芋は規則的に切らず、包丁の向きを変えながら、少なくとも五面体にはなるように切った、ほどよい大きさのものだった。皮がついたままだった。白い米の粥のなかに、薩摩芋の本体が持つ軽やかな黄色と、その皮の部分の鮮やかな紫色が見え隠れしていて、美しい食べ物もあるものだ、と子供の僕は思った。そして供された箸が、それまで見たこともない、素晴らしいものだった。

 ともに食卓についた大人のひとりが塩の小皿を示し、塩をかけるといい、と教えてくれた。小皿の塩を僕は親指と人差し指のあいだに少しだけつまみ、二本の指の腹でごく軽くもみほぐすかのようにして、指のあいだから塩を少しずつ、粥の上へまんべんなく落としていった。同席していた大人がそのようにするのを見て、このような基本的な技法を僕も真似し、この席で初めておこなった。塩のほのかに効いた芋粥というものも、したがってこのとき初めて知った。

 最初のカレーライスも友だちの家で食べた。遊んでいて夕食の時間となり、少し余計に作ったから食べていきなさいと言われて、友だちの家族といっしょに食べたのだ。天丼を食べるときのようなどんぶりに、ご飯が入っていることは見ればわかった。そのご飯を覆い隠すかのように、被せたような感触で盛ってある、柔らかそうな黄色い層がなになのかは、わからなかった。

 ご飯に蓋をしたように被さっているその黄色い層は、その下に箸をくぐらせておだやかに持ち上げるなら、ぜんたいがひとつになって、ご飯から離れるのではないか、と思えた。この黄色い層を箸で少しずつ突き崩しては、ご飯にまぶしていっしょに口へ入れる、という食べかたを友だちはしていた。友だちは食べなれているようだった。だから僕は彼を真似た。

 食べればすぐにわかるのだが、黄色い層をかたち作っている主たる材料は、当時の言葉で言うメリケン粉だった。水に溶いて煮たのだ。黄色さがカレーの粉だったのだろうけれど、カレーの粉というよりもそれは単なる色であり、ほのかにあったカレー粉の香りは、いったいどこに潜んでいたのか。玉葱や馬鈴薯などが黄色い層のなかにあり、グリーン・ピーズが散っていた。おかずは沢庵だった。沢庵の黄色さが、ご飯の上の黄色い層の黄色さと、張り合っていた。

 食べるほどに理由もなく悲しくなっていくのを、どうすることも出来なかった。やがて食べ終え、ごちそうさまと言い、友だちと外へ出てしばらく過ごし、僕は自宅へと帰っていった。その帰り道が悲しさを増幅した。貧しい夕食であったことは、よくわかっていた。しかしそのときの僕が感じていた悲しさは、貧しさから来るものではなかった。ではその悲しさは、どこから来たのか。あの黄色から、と言っておこう。

 夕食をきちんと食べたあとの自分の体が持つ、安定感のようなものがいつまでたっても生まれなかった。妙な不安感のなかに悲しさが入り込み、悲しいままに自宅へ帰った僕は、母親に報告した。外であったことを僕が報告すると、かならずやなにかひと言はある母親だったが、このときはなにも言わなかった。これはたいそう妙であり、それも悲しさとなった。いま自分が悲しいのは正しいのだ、とわかる悲しさ、とでも言えばいいか。

 しばらくして母親は、「柿でも食べなはれ」と、僕に言った。柿の置いてあるところへいってみると、僕の好きな熟しきった富有柿ではないか。皿にひとつ載せ、ナイフで切ってフォークで食べた。食べていくその柿の、完璧な感触とおいしさによって、悲しい気持ちは少しずつ消えていくように思えた。そこへ母親が来て、「どや?」と訊いた。「鐘が聞こえるやろ」。

「なんの鐘ですか」と訊き返す子供が、当時の僕だった。「法隆寺の鐘や。日本の常識やで」と言う母親に、「僕には聞こえません」と僕は答えた。「こらあかんわ」と母親は言い、柿に夢中の僕をそこに残し、首を左右に振りながら、広い家のどこかへいってしまった。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』 カレーライス 寒天 母親
2019年12月17日 11:00
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