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今日は海岸で雲を見る

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 目が覚めてベッドを出る。窓を開く。外を見る。そのとたん、よし、今日は雲を見よう、と決定する日が、ひと月のうちに一度はかならずある。雲を見ること。それは僕の趣味のひとつだ。

 僕の好みの雲が出ている日は、体験によって正確に知ることが出来る。科学的にさえ、きちんと予測出来る。そして雲を見るための場所が、僕にはいくつもある。そのうちのひとつへ、僕はひとりで出かけていく。都心から特急電車に二時間も乗れば、雲を見るための好みの場所のひとつへ、簡単に到達することが出来る。

 大きな三日月のかたちをした海岸をすぐ下に見下ろす高台の、あたりになにも余計なものがない場所で、僕は草の生えた土の上に腰を降ろす。もたれかかってなかば寝そべることが出来るような場所が、いちばん快適だ。大きな砂丘の、海に面したスロープの途中などは、最高だ。

 どっしりとした重量感をたたえた砂丘を背にして、砂の上に横たわるようにすわり、海からの風を僕は受けとめる。体の外側だけではなく、内部深くにもその風を受けとめつつ、僕は明るい陽ざしに目を細くして、沖の海を見る。

 長く続いている海岸の両端は、岬となって海にむけて突き出ている。そのふたつの岬の上空に、積雲がもくもくと高くそびえているのを、僕は自分の感覚のぜんたいを動員して、その内部にとらえる。

 積雲や積乱雲ほど素晴らしいかたちをしたものを、僕はほかに知らない。非の打ちどころのない見事な彫刻だ。ふたつとしておなじものはない。どれもみな、異なっている。

 しかし、共通したひとつの世界かどの積雲をも、強く太く、つらぬいている。すべてに共通する普遍的な性質と、ひとつひとつ異なっている様子との絶妙なバランスは、確かに人間の技ではない。

 日がな一日、僕はこうして雲を見る。いろんなことを次々に思うような思わないような曖昧のきわみのような自由な状態で、刻々とかたちを変化させる大きな積雲を、僕は飽きることなく眺める。

 視界いっぱいに広がる海。そのはるか上で常に一定の距離を保つて自らも広がる、底なしの空。太陽。その光と温度。風。潮の香り。砕ける波から風に乗って飛んでくる小さな小さな気泡。

 砂丘が僕の体を支えてくれる手ごたえ。乾いた砂の感触。体と心の、曖昧で自由な状態。そして岬の上空にそびえる積雲。青い空を背景に、陽ざしに燃え立つような純白に輝いて、すこしずつかたちを変化させていく動き。そしてそのかたちの、究極的と言っていいほどの朗らかさと、肯定的な力。

 海岸を一時間ほど歩いたり、県道に出てふとバスに乗ったりして、僕は場所を変える。変えた先で、なおも僕は雲を眺める。

 人間などとは本来なんの関係もない、あの複雑徴妙な立体の造形は、いくら見ても見つくすことはない。それに、なにかを思うような思わないような状態で見るものとして、雲ほど適した対象はない。雲以外のものを見ていると、なにごとかを思ってしまうようだ。

 雲を見ることにきめた一日は、このようにして過ぎていく。雲との対比の上で、人間のしわざもやがて愛しいものに感じられてくるから、そうなったら僕はすこし写真を撮影する。海に沿った道をあてもなく歩き、海に近い町を抜けていきながら、僕は人間のしわざを捜し、それを被写体にする。僕の気持ちは雲のおかげでちょうどいい程度に中和されているから、人間のしわざをいささかなりともユーモアを持って、僕は写真に撮ることが出来る。

 夕方、僕は海をあとにして駅まで歩き、特急に乗って東京へ帰って来る。しょうこりもない、あのいつもの東京が、きわめて多忙に、そこにある。

(2016年8月1日掲載、『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』1995年所収)

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1995年 『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』 写真 時間 海岸
2016年8月1日 05:30
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