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ザ・ビートルズから届いた

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 ここにあるこのビートルズの写真には、4人のサインがしてある。彼らに詳しい人の鑑定によるとこのサインは本物だということだ。一枚の写真に4人がサインするには、そのとき4人はひとつの場所にいなければならない。あるいは、4人のあいだをその一枚の写真は、誰かに運ばれて巡らなければならない。

 ジョージ・ハリスンの字で、クリスマスと新年をカヴァーする季節の挨拶の、決まり文句が添えてある。いつだったか忘れたが、彼らがまだこの写真のようであった頃、誰からだったか、僕に届いた写真だ。

 封筒から取り出してこの写真を見た瞬間、あ、これは小説になる、と僕は思った。それから10年単位の時間が経過している。僕はその小説をまだ書いていない。ごくたまに、なにかのついでにこの写真が目にとまると、書けば面白いかもしれないはずの、まだどこにもないストーリーについて、僕は思う。

 どんなストーリーがいいか。ビートルズと同時代を背景にするなら、1964年くらいから10年間ほどの物語にするといい。1964年から1974年までの、おそらくは東京を背景にした、日本の男女の物語。そう聞いただけで、すでにその物語は充分にせつなくないだろうか。

 エルヴィス・プレスリーが出て来る小説というものも、たいへんに魅力的だ。これもそのうち書こうと僕は思っている。エルヴィスの場合は、なんらかのかたちでエルヴィス当人が登場しなければ、本来の面白さは出せないはずだ、と僕は確信している。ごくわかりやすいたとえをあげるなら、誰かの誕生日のパーティにエルヴィスが来てくれた話、あるいは、まだごく初期の頃、スコティ・ムーアやビル・ブラックたちとワンナイト・スタンドをこなしていたエルヴィスと、ある場所からある場所まで、道中をともにしたと言っていい状態で車を走らせた人の話など、たいへんいいと僕は思う。

 なぜエルヴィス当人が登場しないとつまらないか、その理由は簡単だ。エルヴィスの場合、彼が世界的なスターになっていくにあたって、さまざまなメディアが強力に動員されたことは確かだが、ビートルズに比較すると、エルヴィス個人の肉体性は、ほとんど常に、最前面に確固として存在していた。その肉体性は、グローリアスとしか言いようがないほどに、くっきりとした輪郭を維持して、輝いていた。

 ビートルズは、エルヴィスとは比べものにならないほどに、メディア度が高い。時代がちがうからそれは当然だと言えばそれまでだが、メディアしかない時代のありとあらゆるメディアのなかで、ありとあらゆるかたちで、ビートルズは使われた。

 その結果としてビートルズは肉体性をきわめて希薄にしていくことと引き換えに、誰がどんなふうにでも使用することの可能な、おそろしく手軽なメディア霊のようになった。

 だからビートルズと並行する一編の小説は、一枚の写真から書き得る。1964年には20代前半で、まだどうにかそれぞれの輪郭を持っていた男女が、10年後の1974年には輪郭のほとんどを失い、メディア漬けの生活のあいまいさのなかに溶解し、にっちもさっちもいかなくなっているという小説に、ビートルズの写真やレコードほどふさわしいものはない。

(2015年12月12日公開|『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』1995所収)


1995年 『昼月の幸福ーエッセイ41篇に写真を添えて』 エルヴィス・プレスリー ビートルズ 写真
2015年12月12日 05:30
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