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なにもなしで始めた

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 ひとり立ちという自立を曲がりなりにも始めたのが、僕の場合は大学を卒業した頃だったとすると、その頃の僕にはなにもなかった。なにしろ自立なのだから、多少は当てになるもの、あるいは足場や手がかりなど、少しにせよあってもおかしくはないと思うのだが、僕にはいっさいなにもなかった。石を投げれば卒業生に当たると言われた大学をただ卒業しただけだから、学歴はないに等しい。しかもそこをただ卒業しただけの身には、専門知識はもちろんないし、特別な才能もない。資産などあるわけなく、ここへ来てこれをやってみないか、などと言ってくれる人脈は皆無だ。

 そのような自分がなにをすればいいのか、あるいはしたいのか、おぼろげな検討すらついてなく、当然のこととしてほとんど無一文だった。確かにあったのは、孤立無援という状態ともうひとつ、無手勝流というやりかただけだった。

 こんなふうにスタートして現在に至っている僕だが、いまも基本的にはなんら変化していない。なにがあるのですかと訊かれたなら、なにもありませんと答えるほかない。ただし、僕にはこの僕だけは、なんとかあるようだ。ではその僕とはなになのか。いまの僕には次のような説明なら、することが出来る。

 自分は自分のなかにしかない。

 そしてその自分とは、生まれてから現在までの自分が、体のなかに入れることの出来たものだけであり、それ以上にもそれ以外にも自分はあり得ない。体のなかに入れたものとは、直接にせよいかに間接的にせよ、自分が体験して記憶の内部に取り込んだもの、という程度の意味だ。普通は頭と言うけれど、頭は体の一部分だから、僕の言いかたとしては、自分の体の中に入れたもの、という言いかたになる。入れるのはある時期までで終了する、というものではない。いまこの瞬間にも、僕はおそらくなにかを自分のなかに入れている。

 と同時に、出してもいる。こうしていま書いているこの文字や文章が、そのことのほんの一例だ。自分のなかにあるものしか出てはこない。ただし、なにがいつ、どんなふうに出てくるのか、記憶は複雑に重層し、反応し合い、薄れたり強まったり変形したりする。まったく当てにならないけれど、これでいくほかない。必要に応じてなにかを自分の外に出すときには、自分のなかにすでにあるものだけが、なるほど、これがこんなふうに出て来るのかと、当人が感心するような内容とかたちで、出て来る。そしてそれで充分ではないか、と僕は思う。

 なにを書くにせよ、すでに自分のなかにあるものしか出ては来ません、という状態の自分を僕が維持する様子を、外部から第三者的に見るなら、作家という職業に従事する人、ということになったりする。僕が維持して来た自分の状態は、職業だろうか。単なる理屈で考えても、そんなものが職業であるわけない、という答えは手に入る。自分に質問してみるのがいちばんいい。きみに職業が必要かい、と僕が自分に訊ねると、それはまったく必要ではないよ、あってはいけないものだよ、という返答がにべもなく返って来るだけだ。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 仕事 作家 書く 自分
2016年4月1日 05:30
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