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この貧しい街の歌を聴いたかい

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 「きみが言っているジャパニーズ・スタイルというものが、わかってきたよ。僕が写真を撮るときには、風景にしろ人物にしろ風物にしろ、とにかくその場所の土地がらと言うか、そこに固有の物や人のありかた、感触、雰囲気、空気感などを狙って撮る場合が大部分だけれど、このセッションの場合、標的は土地がらではないんだ」

 「土地がらを越えて、すでに普遍に到達しているような風景や風物のありかたの断片ですね」

 「そして、ただ単に美しくないとか醜いとかをも、越えているような」

 「一般的な美醜の基準はあてはまらないでしょうね。どんなに醜悪でも、あまりにも普遍に達しているが故に、惚れ惚れと見てしまう場合だってあります。しかし、楽しくないことだけは確かです。思わず気持ちが浮き立つような光景ではないですね。僕が子供の頃には、ひと目見たとたんに、気持ちが踊るような光景がかなりあったような気がしているのですが」

 「ある時期から、決定的にこうなったのだね」

 「醜いと言うよりも、陰鬱と言ったほうが、僕の感じかたにはより近いのです。人々は日常生活を楽しんでいません」

 「働くことの報酬が、さらにもっと働くことでしかないのだから。日本株式会社のなかでは」

 「生きてはいるけれど、本当には生きていないのです。それはなぜか、どうして街の景色の断片がこうなるのか、僕なりに考えてみたところ、自由があるのかないのかという問題に到達するのです」

 「自由なんか、ないよ」

 「自由がなければ本当には生きることは出来ないのです。厳格な枠の内部で、厳しい一律の強制を受けとめながら、生きるほかないのです。街のいたるところに、僕はそのことを感じます」

 「たとえば、どんなとこに?」

 「全部ですよ」

 「広告ポスターのある光景を、よく写真に撮ってるね。いっしょに撮影しながら歩いてると、きみの特徴として、すぐに気づくけれど」

 「ジャパニーズ・スタイルとしてたいへんに興味深いから撮るのです」

 「まず、光景として興味を引かれるわけだ」

 「光景として。そこにポスターが一枚あることによって、その周辺の光景が、なんとも言えず象徴的なものになったりすることがあるのです」

 「そしてポスターというものは、なんらかのメッセージを伝えようとしてるよね」

 「ポスターは言葉です。いくら絵や写真が大きくあしらってあっても、ポスターは言葉によってなんらかの語りかけや訴えかけをおこなっているのです。ではいまの日本の広告ポスターのなかの言葉は、どのような言葉かと言うと、おそるべき段階にまで均一化された、きわめて浅い主観の言葉です。そこには一人称も三人称もなく、二人称もありません。みなさん、私たち、誰も、全員、我々といった、じつに不思議な人称による言葉です。みなさんが、みなさんにむけて、浅い主観の言葉で語りかけています。日本語という言葉が持っている性能の特徴的な部分を、極限にまで高めて使っている時代が、いまの日本です。そうしたほうが、誰にとっても都合がいいからですね」

 「もともと日本語は、主体をはっきり語るようには出来てないよね」

 「たいへんに不得意ですね。主体について満足に語る性能がないから、客体も成立しないのです。たとえば英語には、自分のことを示す言葉としてIというひと言が絶対的なものとして、存在しています。言葉が始まったときから、自分はIなのです。 I がそもそもの最初からあるのです。いつでもどこでも、どのような状況のなかでも、自分は I 以外ではあり得ないのです。インド・ヨーロッパ語属に属する言葉はすべてそうですし、そのグループに属さない言語の世界でも、人称はこれというひとつに定まったものが、はっきりと存在しています」

 「自分にとっての相手が存在していなくても、自分がまったくひとりでも、とにかく自分は I なんだね」

 「そうです、とにかくいちばん最初から、自分は I です。 I が最初からきまっていて、その I がたまたま話者になっているとき、相手である聞き手は、YOUです。話者が交替してYOUが I になったら、 I はYOUに変わります。そしてそれ以外のところにいる人はすべて、明確に三人称になります」

 「責任の範囲がはっきりしてくるよね」

 「責任の範囲とは、個人が持ち得る自由の範囲、ということです。しかし日本語では、Iというひとつの絶対はありません。一人称は、相手と状況によって、目まぐるしく変化します。相手と状況があってはじめて、そのときその場での自分というものが、規定されてくるのです。そのような不思議なIを一般的に表現しようとすると、みなさん、になります。私たち、誰もが、みなさん、全員、我々ということです。そのような全員に共通する言葉は、主観の言葉しかないでしょう。そして全員に抵抗なく受け入れられていくためには、その主観は浅いものでなくてはいけないのです」

 「というようなことを、ポスターのやたらにある日本の街の光景のなかに、きみは見るわけだ」

 「僕の趣味ですよ。たいへん興味深いです」

 「日本語だけでずっと生きてきて、しかもさっききみが言ったとおり、日本語が持っている性能の特徴的な部分を極限まで引きのばして使っているいまの使いかたのなかだけで生きている人たちにとって、個人の自由というものの根源がどのあたりにあるのかすら、まったくわからないままに終わる可能性は充分にあるね」

 「普通にしてたら、気づくためのチャンスはないでしょうね。気づきたくもないし、個人の自由なんて迷惑だ、誰か枠をきめて欲しい、と願っている人は多いのではないでしょうか。それは圧倒的多数と言っていいほどに多いのではないかと僕は思います」

 「すべての思考やものの考えかた、世界のとらえかたなどに、いま言ったように言葉によって強力に枠をはめられていて、その枠の外に出られないままでいる、ということになるね」

 「生きていくうえでそれはたいへんに危険なことなのですけどね。この数年、国際化ということが念仏のように盛んに言われてますけど、このような危険を骨身にしみて自覚することは、国際化のひとつです。しかし、そんな面倒でつらいことは、大多数の人は心から嫌がっているはずです」

 「外にいる人たちから見たら、入りこむのがたいへんに難しい、不気味な世界に見えるだろうね」

 「そのとおりです。入りこめないものを、僕も強烈に感じますよ。しかし、日本語の内部だけで生きていて、しかも日本語の特性にすこしも気づいていない人たちにとっては、わかりすぎるほどによくわかる、効率のいい、慣れ親しんだ世界なのです。しかしそこは、よどみきって重い、不自由きわまりない、陰気な世界です。関係や状況のひとつひとつに、人を縛りつけて離さない性質を持った言葉のなかだけで生きているのですから。自由はないです」

 「人々は、そのような言葉によって、いいように操作されてるね。操作を自らにしかけていると言うか、自ら進んで操作を受け入れていると言うか」

 「もしそこにもなにがしかの自由があるとするなら、独裁軍事政権などではないのですから、仕事を得て給料を稼ぎ、それを自分だけのために、主観的な衝動につき動かされながら消費していくというような自由はあるはずです」

 「そしてそれこそを、街にあふれるポスターは訴えかけているわけだ」

 「みなさんがみなさんにむかって発する、全員ひとまとめになりましょう、みんなおなじでいきましょう、と訴える浅い主観の言葉の肯定が、世をあげていっせいに、盛んにおこなわれているのが現在です。たとえば消費ブームとは、そういうことです。戦後の日本はいま頂点に達したように僕は感じます。浅い主観の言葉によってくくられるみなさまという存在の絶対的な肯定は、戦後の日本の中心軸であった、技術と経済の底なしの肯定と、ぴったり表裏一体です」

「街に出てみると、誰もがもっともっと物を売りたがっていることははっきりわかるけど、個人が本当に自由に生きていれば、需要は増えるはずだね。膨大な需要がそこにあるよ」

 「個人とはなにかということをよく知っていたほうがいいですね。個人とは、とにかく最初からあるものなのです。未開の状態から長い歴史をへて次第に文明になり、それに応じて生まれて来たものではなくて、英語のIとおなじく、最初から存在するものなのです。その個人が生きていくとは、いったいどういうことかと言うと、他の無数と言っていいほどにたくさんいる個人との、戦いをすることです。はじめから血の海ですよ。生まれ落ちたらそこは地獄のさたなのです。自由を得るか失うか、手に入れるか奪われるか、食うか食われるか、支配されるか支配するか、という世界です。とにかく最初からそうなっているのですから、これはどうすることも出来ないですね。これが嫌なら人類の歴史をはじめからやりなおさないといけない」

 「日本人による人や世界のとらえかたとは、まったくちがうね」

 「欧米を中心に外国というものに関して、日本の人たちは基本的で決定的な違和感を持っていますが、その違和感はここから来るものだと僕は思います。人というもののありかた、つまり社会の成立のしかたが、おたがいどちらから見ても決定的になじめないものなのです。言葉の構造と性能が、まるで異なるからです」

 「欧米その他の世界で、個人が血の海で戦いながら生きていくにあたって、もっとも武器となるものは言葉だよね」

 「自分が持っている能力の限度いっぱいに、出来るだけ理性的にものごとを自分で考えていく頭、それが個人というものです。みんなそれぞれに必死で考え、それを言葉で外にむけて表現していくのですから、たちまちありとあらゆる対立が起きます。論争ですね。日本語で論争などと言うと、もうそれっきり一生口をきかない、という感じになりますけれど、言葉によって論理をつくしていくと、一致する部分がみつかるのです。すべてが一致するわけではありませんけれど、ここだけは一致している、という部分がみつかると、そこに個人と個人との一体感が生まれます。生きる、とはその一体感の蓄積なのです。論理において優位に立つと、それが権威になります」

 「論争しないとなにごともはじまらないのだから、人々は最初から信じあってはいないわけだ」

 「 不信からすべてがはじまるのです。権威としての優位を手に入れた論理は、全員にあてはまる客観的なルールになるのです。原理や原則、あるいは法律と言ってもいいですね。法の支配、というシステムがこうして生まれてくるのです。その法律によって、個人の自由は保障されます。民主主義もここから生まれて来ます。宗教も、そのような社会の成立過程に、密着して添ったものです。優位に立った宗教が、異なったいくつもの文化を統合してしまうのです。異教徒をやっつけるとか退治するとかではなく、普遍にむかう行為なのです。征服していくという現実的な行為の裏には、普遍的な世界の確立願望があります」

 「そういった重要なことすべてを言葉でやるのだから、言葉はものすごく大事だし、たいへんな力を持つね」

 「なにしろ普遍をめざすものなのですから。正しく使う言葉は、神の意志に添うものです。ルールがいかに大事か、よくわかりますね。ルールとはたとえば契約ですが、契約は責任であり、その責任を果たすと、それに応じて自由が手に入るのです。ルールは神の意志によって作り出したものだから、出来るまではなにを言ってもいいけれど、いったん出来たなら従うのです。従わなかったら、厳しく罰せられます」

 「言葉によって論理をつくすとは、最初から個に徹している個人が、さらにもっと深く、個に徹していくことなんだ」

 「そしてそれは、じつにスリリングで面白いことなのです。たとえば僕たちふたりが、それぞれの考えかたに従って論理の戦いをしていくと、やがて一致する部分が見えてくるのです。その一致点でふたりは同時にぱっと解放され、気がつくとそこはふたりにとって共通の、パブリックな場になっているのです。パブリックの概念はこうして生まれてくるのです。個に徹するとは、主観を深めると言ってもいいですね。一致点の発見は、公共の発見です。生きるとは、すくなくとも欧米では、これほどまでに客観的なことなのです」

 「ところが日本ではー」

 「どちらがいい悪いではなく、欧米と日本とではまったく反対であり、基本的になじむ部分がなく、完全な正面衝突あるいは完全なすれちがいがあるだけだということは、自覚しないといけないでしょう。かつてなかったほどに幅の広い複雑な接触を、日本は外国と持っているのですから」

 「普遍的な原理や超越的な理念について考えるのは、日本人は不得意だし、そんなものどうでもいいと思っていて、ないほうがいい、あれば迷惑という方針だよね。理性や論理はもちろん必要なくて、あるのはその場ごとになんとなくきまっていく雰囲気や感情、あるいはムードだから」

 「人は言葉によって世界を作っていくのですが、もっとも大事な母国語の性能のなかに、個というものに関しての性能がないですから、個は生まれてきません。すべて全員が集団になって、ひとつの目的にむかっていっせいに頑張る、というスタイルであらゆることがすくなくとも内部的には解決されていくのです。そのことによって、戦後の日本は現在まで来たのですし、それしかなかったのですね。今回はいったいどこから、こんな話になったのですか」

 「ポスターがあふれる街の風景からですよ。その風景は、きみにとっては、ものすごく興味あることなのだということが、よくわかったよ。そして今回のきみの写真は、和風で統一してありますね」

 「これを和風と言っていいのかどうか。本来なら自分たちにとってたいへんに大事なもの、あるいはイメージであるはずのものなのに、あまりにもみじめなかたちで、しかも商業目的だけのために、このようなイメージが使用されているのです」

 「いまの日本の街のなかで、こんな和風のイメージばかり拾って歩いたら、確かに面白いね」

 「なんとも言いようのない貧しさを、僕は感じますね。もうなんの元気も出てこなくて、うちしおれて目を伏せ、暗く沈んだ気持ちで僕は街をさまよいますよ」

 「この貧しさがいまもあるということは、もう手遅れかもしれないね、ほとんどのことが」

 「人々が夢を見なくなっていることを、僕は強く感じます。世代が若くなればなるほど、人々は夢を見ないのです」

 「どうしてだろう」

 「閉じられた世界だからです。それ以外に理由は思いつかないですね。しかもこれらの和風イメージは、本来の意味を失っていますね。経済活動が一定の限度を越えてなお盛んにおこなわれていくと、それは伝統的な民族文化のなかにあるはずの固有な意味のようなものを、消し去ってしまうのです」

 「技術もそうだよね」

 「固有の歴史や文化の文脈をまったく離れて、あるときいきなり、たいへんな力を持ってそこに割りこんで来るかたちで、存在しはじめるのです。まったく新しいものとは、そういう性質を基本的に持っています。それまでそこにあった文脈とはいっさいなんの関係もない異世界が出来ていきます」

 「社会は根本的に変わるね」

 「そのとおりなのですが、新しくなった、便利になった、よくなった、進歩した、というとらえかたでその異なるものをとらえますから、根本的な変質が相当に重大な段階まで進んでも、人々はまだそのことに気づかないのです」

 「マイコンを仕込んだ押しボタンつきの装置とか、キーボードやスイッチのついたもの、つまり電源にさしこんであるものをすべて取り払うと、日本人の生活は三十年、四十年まえとすこしも変わってないよ」

 「頭のなかは変わってしまったのです。確かに新世界です。しかも底なし的に戦慄すべき世界です」

(『ノートブックに誘惑された』1992年所収)

今日のリンク:片岡義男.com「掲載情報|「BRUTUS」森山大道と作る写真特集」


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2016年2月16日 05:30
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