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世界はただひとつ

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 太平洋でのアメリカとの戦争をめぐって、もう戦争は終わりにしようと言う一派と、徹底的に戦って最後には日本本土でアメリカと決戦するのだと言い張る一派とが、国民はなにも知らないところで、権力争いを続けた。戦争は終わりにしようと言っていた一派が、その権力闘争に勝った。日本に原爆が二発も投下されたのは、このような権力闘争のさなかだった。

 対日ポツダム宣言を日本は受諾し、降伏した。日本人一般としては、もうこの戦争に勝ち目はないとは思っていたものの、降伏そのものは、自分たちはなにも知らないところで、いきなり決定された降伏だった。だから人々は、その降伏を、ただ受けとめるほかなかった。

 日本がおこなった戦争とはなにだったか。負けとはなにか。降伏とはなになのか。戦争をめぐるあらゆることに関して、まっとうな回答はなにひとつないまま、人々は降伏を受けとめた。そして次の日からは、戦後の現実を生きることになった。日本の戦後にとって、それまでの戦争の日々は、なんの役にも立たなかった。自分たちの歴史は、いっさい教訓にはならなかった。

 軍隊組織以外の支配システムは、その運営者も含めて、戦前のままに、戦後も維持された。戦争によっても敗戦によっても、降伏や占領を経由しても、戦後の日本は戦前となんら変わらなかった。このような国家システムとその人々を、アメリカが単独で占領し支配した。

 憲法の改正から学童の髪にたかった虱の駆除にいたるまで、アメリカは日本を支配した。その支配下の日本は、じつは戦前・戦中の日本と、基本的には同一だった。アメリカの対日政策の中心は、日本を徹底的に非軍事化することだった。日本の産業力を限界まで抑え込み、日本がアメリカにとって脅威となることが二度とないようにするのが、アメリカの方針だった。

 事情はやがて一変した。日本をどのように扱えば自分たちにとってもっとも都合がいいかという、アメリカの視点を成立させる事情が、アメリカにとって急変した。冷戦が始まったからだ。一九四六年、アメリカの大学で演説したチャーチルは、ソ連と西側自由世界とのあいだにいまや鉄のカーテンが降ろされた、と語った。当時のソ連の首相だったスターリンは、チャーチルのこの演説に対して、きわめて強い対抗的な反応を示した。日本との戦争中にすでに存在していた冷戦は、一九四七年、トルーマン大統領によって、ソ連に対して布告された。

 地理的にも内容的にも、日本を冷戦のための拠点にしたほうが自分たちにとって都合がいい、とアメリカは判断した。拠点としての日本がなんらかの意味を持つためには、日本は産業を復興させ、工業力を中心にして経済力をつけなければならないことになった。だから戦後の日本の経済は、急速に復興していく方向へと、転換された。

 経済を復興させて強力になればなるほど、アメリカに対する日本の従属度は複雑さを増しつつ深まっていくというしかけのなかに取り込まれるところから、日本は戦後を始めた。経済復興は生活の向上であるという、国内での強力に内向きな現実にかまけ続ける生きかたが、人々のものとなった。いくつもの力がひとつに重なって、国内という閉ざされた世界が作られた。そのなかで人々が勤労すればするほど、国内という閉鎖性は強化されていった。

 戦後の日本でも、国のシステムを作って運営する作業のすべてを、官僚が引き受けて統制した。あらゆる工業製品から人々が使うべき漢字、子供がかようべき学校にいたるまで、隅々までこと細かに、そしてきわめて強固に、枠がはめられた。すべての領域でその中枢機能を東京へと集中させた統制は、あらゆる統制を目的どおりに機能させるための、巨大な心棒として機能した。

 日本国内というただひとつの世界、ただひとつだけの価値は、半世紀を越える年月をかけて、すでに完成の域に達している。もっとも目に見えにくいところに作られた価値こそ気づかれにくく、したがって自覚されることも少ないだけに、あるとき以降からそれは致命的なものとして作用する。日常という実体の全域を覆いつくし、あらゆる細部にまで浸透し、そこですべてを支えて機能させる、言葉というもの。この言葉が、戦前・戦中という歴史を引きずりながら、戦後の年月のなかで、単一な価値の世界へと見事に統制された。

 日本国内という自分たちだけの世界のなかで、ただひとつの方向にしか作用しない、ただひとつの価値しか語ることの出来ない言葉へと、人々の言葉は統制された。日本の近代とは、このように言葉がひとつに統制されていく歴史でもあった。戦前・戦中には、外への拡大という内部事情に並行して、この統制は強力におこなわれた。戦後には、経済の復興という内部事情に、それは並行した。この内部事情も、資源の供給元と製品の販路を同時に求めるという種類の拡大なしには、成立しないものだった。

 外への拡大の力は、内部では自らを閉鎖させる力として作用した。日本語がひとつだけの価値に奉仕する言葉として統制されていくための所要時間は、戦後だけでも五十数年もあった。その間、統制に対して内発的な抑制が働いたことは、一度もない。時代という現実の進展と不可分にからみ合いつつ、人々の生活のあらゆる細部にまで浸透して作用し続けながら実現された統制だから、自分たちの言葉がじつはそのように統制されたことに関して、人々はおそらくいまもまったく自覚していない。自覚されないだけに、統制はなんの抵抗も受けることなく、ひたすら進行だけを遂げた。そしてあるとき、致命傷として人々の前にあらわれる。

 近代からの日本という国家は、いったいなにのために機能したのか。国家というものの基本的な機能は、領土や国民、そして彼らの生活などを、守るためのものだ。急ごしらえの日本国家は、外への拡大によって、自らを守ろうとした。そして外への拡大は、最終的には国民の生活を破滅させることに向けて、機能した。

 戦後の日本という、何重にも枠をはめられ蓋をされた内部で完成したのは、単一な価値に沿って統制され、ただひとつの方向に向かう言葉のほぼ最終的な段階としての、全員がなにも考えずにすむ言葉、というものだった。なにも考えずにすむ言葉は、規格品の大量生産と大量消費に関する高い効率を維持するための、究極的に便利な言葉だった。

 なにごとにつけてであれ、多くの人々がそれぞれに自分の頭で考えられるだけ考え抜くための言葉は、議論百出というような状況を作り出す。ただひとつの方向に向けて、すべてを可能なかぎりの高い効率で流れるようにしようと図る社会システムにとって、そのような言葉は邪魔になるだけだ。

 もっとも効率の高い言葉は、よくわかったつもりですんなりと納得出来るけれども、本当はいっさいなにもわかっていない状態のまま、それをどこまでも維持していくような言葉だ。このような言葉を社会ぜんたいの言葉としてしまえば、すべてはなんの摩擦もなしに、高い効率でひとつの方向へと流れる。

 なにごとにせよ人々が本当に理解する、という状態は効率がよくない。理解のしかたの質や程度、方向など、すべては人それぞれだ。人々のあいだには、問題の理解に関して、段差が無限に出来る。高い効率を作り出して維持するのに邪魔なこの段差を、可能なかぎり取り払うには、誰もがなにもわかっていないのに、わかったつもりで先へ進むことが出来るという状態へ、すべてを横滑りさせるにかぎる。いまの日本人が持っている言葉は、自国内部のしがらみ以外には、なにについても語ることが出来ない、という種類の言葉だ。

 戦後の日本で復興していった経済は、その後はいわゆるバブルの崩壊まで、右肩上がりを続けた。経済だけの戦後史をたどると、こういうこともあるのかという感銘を持つにとどまるが、これを可能にした日本というものぜんたいを観察しなおすと、戦後の日本は真剣な考察に値する、という感銘にまで高まる。

 半世紀以上も続いた日本経済の右肩上がりは、それまでは存在しなかった多種多様な価値を作り出した。そのなかのひとつに、日本国内が世界のすべてである、という認識のしかたがあると僕は思う。外の世界との真の関係は作られないまま、経済の右肩上がりと表裏一体のものとして、日本国内が世界のすべてだという考えが、日本人のあいだに強固に成立した。

 国内が世界のすべてとは、すでに書いたとおり、ありとあらゆることが日本語で間に合うということだ。日本の戦後とはなにかと問われたなら、自国語としての日本語の使いかたや自覚のありかたに関して、恐ろしいまでにただひとつの方向へと傾き続けた時代だった、と僕は答える。

 戦後の日本人にとって、日本語は自国語でありすぎたようだ。あまりにも日本人どうしだけの専用語だった。国内言語でありすぎた。人々はその力に頼りすぎた。と同時に、言葉の力を過度に軽視した。そのときどきに必要とされた適応をするだけで、あとはただひたすら流されていくために、人々は自国語の浪費のみを続けた。戦後の日本とは、適応し流されていくだけのための言葉ですべては間に合うのだと、あまりにも多くの人が信じた奇妙な時代だった。

 言葉でああだこうだと言ってないで、手に持てるかたちで実利をよこせ、という方針で貫きとおされた時代だった、というような言いかたも出来るかと思う。経済の右肩上がりに適応しつつ、ただ流されていくだけという方針に、それはぴったりと沿っているではないか。

 言葉は単なる方便であるだけではなく、いんちきやごまかしの手段でもあるととらえる伝統が、日本にはあるようだ。いつ頃からそれがスタートし、どのように増幅されつつ伝統となっていったのか、つきとめる用意はいまの僕にはない。

 言葉には実体を作り出す力などありはしないと、圧倒的に多くの人たちが、愚かにも頭から信じてしまった。手に持つことの出来る実利のみを信じる方針と、まさに表裏一体の出来事だ。言葉に信を置かず、実利のみにかまける。必要とされる適応だけを繰り返し、結果としてただ流されていくのみ。なにごとに関してであれ、つきつめた論議など、そのような日々のなかにあるわけがない。

 かたちを示せばそれでいいという、言葉を軽視して実利にのみ信を置く方針は、裏ルールの拡大を許した。裏ルールへいかに接近するかを人生の課題とした人たちは、日本の戦後をもっとも日本的に生きた人たちだ。五十年以上にわたって、国を挙げて言葉をまともには使ってこなかったことの、ついにまわってきたつけの深刻さを正しく受けとめることから、これからの日本は始まる。なぜ深刻かと言うと、思想というものをいっさい持たないでここまできて、いまもそれは皆無だからだ。

 思想がないとなぜいけないのか。自分とはどこにどのようにある、どのような存在なのかという根本的な問いに対して、答えをいっさい持てないからだ。この問いに毅然として答えることの出来る自分がどこにもなければ、自分の頭で考え抜いた結果としての、自分は断固としてこれを選び取るというような、重要な判断がいっさい出来ない。

 経済の力に支えられて可能になった、国内が世界のすべてという状況のなかで、日本の人たちは日本語を過信した。日本語はあまりにも自国語でありすぎた。日本語は戦後の日本にもっともふさわしい言葉だ、と人々は思いすぎた。日本語は特別なものだという思いが、そのあたりから派生した。日本語は特別でもなんでもない。世界にいくつもある言語のうちのひとつにすぎない。

 戦後の日本の人たちは、日本国内が世界のすべてという認識を底に敷いて、適応だけを繰り返して流されつつ、自分が手にする実利にかまけることのみのために、日本語を使ってきた。自国語として強くなりすぎた日本語によって、日本の人たちは、自らを日本国内に閉じ込めた。

 日本語は世界にいくつもある言語のうちのひとつにすぎないという、健全な認識を残しておけばよかったのに。少しでもいいから、外に向けて開かれた言葉に保っておくべきだった。あまりにも自分たちだけの言葉になりすぎた日本語のなかに、誰もが厚く塗り込られた。

 外にある言葉、たとえば英語を、勉強したり使ってみたりしようとするとき、自国語の底にがんじがらめとなっている自分という人は、別な言葉の上へひょいと足場を移すことに関して、信じがたいまでに不自由だ。自国語という唯一の言葉の呪縛に身をまかせきり、しかもそのことに関して自覚はまるでないから、言葉がいくつもある世界というものを抵抗なしに受けとめることがそもそも至難事となってしまう。

 英語の学習に関して、日本人が持っている最大の障害はこれであり、これを仮に極小の世界だとすると、外の世界との真の関係のなさという極大まで、おなじ原理で説明出来る。外の世界に対して、なにをどうすることも出来ないし、なにかをしようにも、そのための基礎的な提案能力がないという自らのありかたを、戦後の日本人は日本語によって作った。

 生まれ落ちてから成長していく日々という、成りゆきのなかで誰もが身につける自国語は、いざとなったらなんの役にも立たない言葉だ。そのような言葉から脱出したければ、自国語を徹底して意識的に学習するという正しい位置に、自国語を置きなおすといい。

 そうすれば、英語であれなにであれ、自国語と対等に並列するものでしかなく、いつもとは違った道順で自宅へ帰るという程度の無理のなさで、自分の足場を自国語とは別の言葉へと移すことが出来るようになる。おそらく実現されることのない夢物語だと思いながら、僕はこんなことを書く。これほどまでに基本的なことが、実現される可能性の皆無に近い夢であるなら、その国はもう終わったも同然なのではないか。あとに残されている時間は、どこまでもずたずたになっていく日々だけだろう。

 日本が持っている最大の弱点をひと言で言うなら、非科学性という言葉につきる。言葉に対する非科学的な認識のしかたと、非科学的な言葉の使いかたが、日本のあらゆる領域の隅々にまで浸透している。会社の方針を明示しようにも、そのためのごく初歩的な文章力すら人々は持っていないという現状の上に、会社の言葉しか話せない人たちが無数に乗っている。ごく狭い範囲の単一な価値についてしか語ることの出来ない言葉と、その言葉のみで自分の都合だけを生きる人たちだ。

 世界のどこに出しても通用しないものの典型としてもっとも高い位置にあるのは、自国語に対する過信という非科学的な態度だ。その日本をここまですべて支えたのは、技術と経済だった。技術というものが持つ普遍性のおかげだ。しかしここから先は、もうないかもしれない。変わらない日本と変わらざるを得ない日本という問題が、目の前にある。変わることの出来る日本と、変わることを拒む日本とがいままさに分岐しようとしている現場が、現在の日本だ。その現状は、ポジティヴとネガティヴの両面において、興味深い。

 ネガティヴな例について、ひとつだけ書いておこう。一九九七年に総理府が調査したところによると、調査対象となった人たちのじつに五十五パーセントの人たちが、日本はこれからもっと悪くなる、という意見だった。いま調査しなおしたなら、五十五パーセントをはるかに越えるのではないか。

 悪くなっていく日本に、これからもっと悪くなる、という意見の人たち全員が含まれる。悪くなるとは、どういうことなのか。いろんな解釈があるかと思うが、日本の前方に関してもっとも悲観的な解釈は、世界に通用する新たな価値の創出など、もはや日本にはとうてい出来ることではないと、五十五パーセントもの人たちが認識しているという解釈だ。半数を越える数の人たちにとって、自分の国は肯定的な可能性の場ではないのだ。戦後の日本では人材はまったく育ってこなかったし、育つような環境もなかった事実を、この調査の数字にはっきりと見ることが出来る。

 自分の国とは、まずなによりも先に、自分がそのなかで守られて生きるシステムだ。自分は国家などになんの世話にもなっていない、と確信出来るような平穏無事な日々こそ、自分が国家というシステムによって、十重二十重に守られている状態にほかならない。

 こんなことを少し考えてみるだけで、自分が自分の国に守られているという受け身の帰属感は、誰でも持つことが出来る。しかしその程度の帰属感だけでは、これからはとうてい間に合わないはずだ。世界の多くにとって普遍的な価値となるようなものを、世界に向けて、日本は具体的に提示しなくてはいけない。日本にとっての好ましい未来は、可能なかぎり大きな価値を自らにつけ加える作業を土台とするときにのみ、成立する。

 この作業を自分たちがおこなわなくてはいけない。国家というシステムはどこか辺鄙なところにあり、自分は参加しなくても正しい稼働は続けていく、というものではない。世界に共通して作用するような価値を、自分たちが作り出し続けなくてはいけない。しかもその作業が、自分の場所である自分の国との、この上ない帰属感の発生源であると同時に、個人的な能力の発揮や目標の達成など、すべての幸福の土台にならなくてはいけない。

 そのような個人が、比率の上で多数にならないと、世界に共通して作用する価値など、作れない。世界に通用する価値の創出に、多数の人たちが参加している国、それが自分の国でないことには、自分の幸福はあり得ない。

 国家というシステムへの帰属や参加のもっとも健全なかたちは、価値の創造やその可能性に、確実な一員として自分も加わることだ。身のまわりを見渡すとそんなものはどこにもないし、まず第一にそんなことは、生まれてからこのかた思ってもみたことすらないというのが、いまの日本の一般的な現状だろう。

 世界は複雑にしかも急激に変化していく。それに対応するための言葉を、日本は持っていない。国内の問題すら扱いかねているのだから、世界を相手にする言葉など、ありようもない。世界のぜんたいを見なくてはいけない時代に、日本は旧来どおりの枠のなかで、反復されつくしたような利害の調整に、右往左往しているだけだ。

 自分のありかたが脆弱をきわめている人たちは、ひとつに統制された言葉を受け入れ、それだけでこと足りる人となった。それですべてまかなうことの出来た時代は終わったのだから、のっぴきならないところから日本は変わっていかざるを得ない。日本にとって日本らしさの核心である現在の自国語で運営される中枢は、そのような変化を最後まで回避しようと図り、妨害し続けるはずだ。

(『日本語で生きるとは』1999年所収)

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1999年 『日本語で生きるとは』 戦後 日本 日本語 社会 言葉
2016年6月25日 05:30
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