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玩具として買うには面白い

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 ハーシーの板チョコ、というものがいまでもある。あるどころではない、それこそ日本全国津々浦々のスーパーその他で、常に大量に販売されている。日本にすっかり根を下ろした習慣のようなものになった、と僕は感じる。戦後からの日本の歴史を、いまのスーパーの棚にならぶハーシーの板チョコに見ることは、じつにたやすく可能なのだ。

 もっともスタンダードなハーシーの板チョコは、子供の頃の僕が身辺にいつも見ていたものと、基本的なコンセプトはまったくおなじである、という意味において大差はない。ほとんどおなじだと言っていい。こういうものがアメリカにはたくさんある。ハーシーのチョコレートがいつなくなるか、という冗談の議論をシアトルのコーヒー・ハウスで、アメリカの友人たちとおこなったことがある。キャデラックとどちらが先に消えるか、というあたりから周囲の席の人たちが議論に参加し、最後は収拾がつかなくなった。

 太平洋戦争に大敗戦したあとに日本にとって、占領アメリカ兵たちとともに日本へ入って来たハーシーの板チョコは、アメリカの象徴と言うよりもアメリカそのものだった。敗戦日本の街かどで、通りかかるアメリカ兵のジープを追って、「キヴ・ミー・チョコレート」と、日本の子供たちは叫んだという。ちゃんと構文になっている。当時の日本の子供たちに、こんなことが言えるわけない。占領日本というものをめぐって、大人たちが創作したエピソードのひとつだ。あるいは、こう言えばアメリカの兵隊たちはチョコレートをくれるよと、大人たちが子供たちをけしかけたのだ。

 昭和二十五年頃だったかと思うが、僕が実際に聞いたのは、「チョコレート・ワン・サービス!」という叫び声だった。広島県呉市の駅に近い繁華街の一角に、洋画を上映するリッツという映画館があった。その前の歩道の縁に僕たち子供が何人か立っていたとき、オーストラリア兵のジープが通りかかった。五歳ほど年上の少年がそのジープを追っていき、「チョコレート・ワン・サービス!」と叫んだのだ。

「ギヴ・ミー・チョコレート」よりもこちらのほうが、日本人の台詞としてはリアルさの度合いがはるかに高い。チョコレートをひとつください、という台詞の直訳として、見事に直訳の語順になっているではないか。チョコレートをひとつ、という言葉を直訳すると、チョコレート・ワンはもっとも正しい解答だ。そして、ください、の部分にはサービスという一語をあてた。サービスとは、日本語では一九五〇年ですでに、無料、無料にしろ、ただでくれろ、というような意味だった。

 子供の頃の僕から現在の僕にいたるまで、ハーシーの板チョコは好きでも嫌いでもない、きわめて中立的な位置にある、と自分では思っている。ついでに書いておくと、ハーシーの板チョコは、形状としては確かに板だが、この板という日本語に正確に対応する英語を、僕はまだ聞いたことがない。英語ではチョコレート・バーと言われていて、いまでもそのままだ。板のようなかたちのものがバーと呼ばれることは、英語にはよくある。数センチほどの幅の板でも、長くなればバーなのだから、短くてもバーとしてとらえてなんの不都合もない、というようなことだろう。

 六歳、七歳、八歳といった年齢の子供の頃、ハーシーのチョコレート・バーにいまひとつ心ときめくものを僕が覚えなかったのは、表紙のデザインのせいではなかったか。ハーシーズ、という一語が包装紙の前面ほぼいっぱいに、四角く硬い感触で、デザインしてある。いまでもおなじだ。ここに重苦しさのようなものを、子供の僕は感じたのではなかったか。平坦な長方形であることも、やや重い雰囲気をかもし出す方向へと、加担していたように思われる。

 包装紙をはがすと、当時の言葉では銀紙と言った薄い皮膜のようなもので、ぜんたいがくるまれていた。この銀紙もはがし、銀紙だけにして丁寧に平らにすると、それはまさに銀紙としか言いようのない、不思議な物体として目の前に軽く横たわるのだった。銀紙だけでくるまれた状態のバーの、あちこちを指先で押していくと、板状のチョコレートに刻んである縦と横の溝がへこみ、それによって規則的にならんでいるひと口サイズのいくつもの小さな長方形が、銀紙の下に浮き上がった。この遊びはやや面白かった。飽きると指先で強く押す。銀紙は破れ、その下のチョコレートがあらわれた。それはまさにチョコレート色をしていて、その事実も僕にとってはどちらかと言えばつまらないことだった。銀紙をすべてはがすと、溝に沿ってぜんたいをいくつものピースへと割っていく遊びが残るだけだ。だからみんな割ってしまう。完全に遊び道具だ。ひとつくらいは食べただろう。

 そこへ友だちが遊びに来る。「ヨッショちょーん、あすぼうやぁー」と、家の外から何度も彼らは僕を呼ぶ。ヨシオという名である僕は、彼らからはヨッショちゃんと呼ばれていた。いくつものピースへと割った板チョコをひとつに集め、銀紙と包装紙にくるんで、僕はそれをポケットに入れる。友人たちと遊び場をめぐり歩き、忘れなければポケットからチョコレートを取り出して包装紙を広げ、彼らに提供する。

 誰もがチョコレートをたいそう好んだ。あっと言う間にひとつ残らずなくなり、包装紙や銀紙を持って帰る子供もいた。夏は柔らかくなって指先についた。その感触をいま僕は思い起こそうとしている。冬には硬くなった。これを金槌で叩いて砕き、細かい破片をヴァニラ・アイスクリームにふりかける、という食べかたを教えてくれたのは、両親がサンフランシスコ生まれの二世だという、ゴードンという名の少年だった。

 チョコレートはカカオの樹の実から作る。カカオという言葉が英語に取り込まれてその語彙のひとつとなったとき、綴りはなぜかココアとなった。初めのうちはココアと発音されていたのだが、やがてこれもなぜだかわからないが、コウコウと発音されるようになった。日本の大学入試の英語の試験問題のひとつに、発音の知識を試すものが定番としてあり、ココアと綴ってコウコウと読むこの言葉は、ひっかけのひとつとしてかつてはしばしば出題された。いまでもそうだろうか。

 チョコレートがアメリカに入ったのは独立革命の直前だったようだ。もちろん粉末、つまり飲み物としてだ。このチョコレートにミルクを加えてミルク・チョコレートとする方法は、一八七十年代のスイスですでに完成していた。一九世紀の終わりも近いアメリカで、キャラメルによって成功を収めたミルトン・ステイヴリー・ハーシーという人物が、このミルク・チョコレートを材料にしてチョコレート・バーを作ったのが、一九〇三年のことだ。

 ひとつが五セントだったこのミルク・チョコレート・バーは、ただちに大成功となった。ミルクにチョコレートという掛け合わせが、手頃な大きさのバーという固形になっていて、気が向けば包装紙をはがすとすぐに食べることが出来、残りはふたたびくるんでとっておくことが出来るという、アメリカふうとしか言いようのない軽便さは、チョコレート・バーの大成功の少なくとも半分は支えているのではないか、と僕は思う。

 あまりにも大成功だったので、ミルトン・ハーシーは自分の町をまったく新たに作ったほどだ。彼の生地であるペンシルヴァニア州のまんなかあたりに、自分の名をとってハーシーと名づけた町を彼は建設した。その町のためにいくつもの名前を彼は考えたが、どれもみな反対にあい、最後に残ったのがハーシーという名前だったという。

 このハーシーの町は、なにからなにまでチョコレート、つまりハーシーによるものだった。少年だけを対象とした孤児院がよく知られていた。町の風向きを正確に調べ、風上にチョコレート工場を建設した、という話をハーシーで聞いたことがある。工場は常に操業中だから、チョコレートの香りは風に運ばれて町へと漂い、いつもその町をつつみ込んでいた、というような話だ。町の食堂でウエイトレスから聞いたのだが、遠来の人を楽しませつつ自分も楽しむ法螺話だったか、とも思う。「チョコレートはもうたくさん。ありすぎるほどにあるんだから」と、顔の前の空気を振り払うかのように、笑いながら彼女は手を振っていた。

 チョコレート・バーのような硬い固形物ではなく、ぜんたいをくるみ込んでなおかつ柔らかさのある表皮のようなチョコレート、という別世界がある。内部にあるものは別なもので、その外をくるんでいるのが、ある程度の厚さのある、絶妙と言っていい柔らかさの、チョコレートの表皮層だ。一九二十年代のアメリカはキャンディ・バーの黄金時代だった。板チョコの板より、そのかたちははるかにバーだ。ある程度の長さのあるものから、さほど長くはない、むしろ短い、といったサイズまでいろいろだが、妙に持ちやすく、おそらくそのせいだろう、きわめて気さくな印象がある。なかにあるものはチョコレートの表皮層でくるまれ、それがさらに包装紙によってくるまれている。包装紙の一端を破れば、ただちにひと口、かじり取って食べることが出来る。この簡易で軽便な様子は、チョコレート・バーをしのいでいると僕は思う。

 オー・ヘンリーやベイビー・ルースというキャンディ・バーが一九二〇年に登場している。ミルキー・ウエイ。バターフィンガーズ。ミスター・グッドバー。どれもみなたいへんにポピュラーなキャンディ・バーだ。いまでは日本全国どこの駅の売店でも売っているスニッカーズ。これらはすべて一九三〇年のアメリカに誕生した。スニッカーズを見るたびに僕は思うのだが、由来を知らずに字面だけを見ていると、スニッカーズという名称は相当に不思議なものだ。変な名前で由来が不明、そしてうちが本家だと主張している人が昔からあちこちにいる、という不思議な名称の食べ物がアメリカには多い。マウンド。ペイデイ。ホワッチャマコーリット。よく知られたキャンディ・バーだが、その名称はどれもみな不思議なものと言うほかない。

 柔らかさのあるチョコレートの表皮層によってくるまれているのは、より強いチョコレート味のヌガーだ。ヌガーには硬さや柔らかさがいろいろあり、ピーナッツのようなナッツ類その他、異物とも言うべき物が混入されている場合も多くあった。僕が子供の頃から好いているのは、三銃士という名前のものだ。チョコレートの表皮でくるんであるなかみでは、三銃士がいちばん気が利いている、と子供心に思った記憶がある。

 三銃士がなければミルキー・ウエイでもよかった。二十四個入りのボール紙の箱がいくつも、棚にあったのを覚えている。アメリカでこれが世に出た一九三〇年を感じさせるデザインの包装紙に印刷されていた、ひとつだけの星の図案、そしてマースという会社のお菓子という意味だろう、ア・マース・コンフェクションという英語のひと言など、まだ僕の頭から抜けていない。当時は短めの、しかしかなり厚みのあるバーだった。ミルク・チョコレートの表皮によってぜんたいがくるまれ、上面の表皮のすぐ下には、溶けた柔らかいキャラメルの層があった。そしてそれ以外の部分は、モルテッド・ミルクの香りをつけたチョコレート・ヌガーだ。

 こうしたヌガーの、なんらかの味のついた甘く柔らかい感触も、アメリカはなくてはならないものだろう。戦前や戦中のアメリカでは、キャンディ・バーは「フード・エナジー」として推奨され、軍隊にも大量に納入されていた。キャンディ・バーが人の体に供給するエナジー、というものをじつに多くの人たちが単純に信じていた。いまでもそういう人は多いだろう。会社でデスクに向き合ったまま、お昼はコーヒーを飲みながら引き出しから取り出したキャンディ・バー一本、という人たちだ。

 バイト・サイズと名づけられた小さなキャンディ・バーを見たのは、一九八十年代のことだったか。いろんな種類の小さなキャンディ・バーが十数個、ひとつの袋に入っていた。いまでもあるかと思って探したら、ミルキー・ウエイのミニが十四個、袋入りになったものを見つけた。ひとつくらい食べてもいいと思う。フォーミュラが昔とおんなじ製品はアメリカに少なくない。子供の頃に食べたのとおなじ味がするだろうか、などと思いながら、ミルキー・ウエイのミニ・バーをひとつふたつ手にとって、僕は観察する。ヌガーの感触は、おそらくまったく同一だろう。食べてもいいけれどその前に、玩具としてなにかひとつ遊びをしてみたいものだ、などと僕は思う。さて、どんな遊びがあり得るか。

底本:『白いプラスティックのフォーク──食は自分を作ったか』NHK出版 2005年


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2020年5月15日 07:00
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