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日常的な日本語の語句の、きわめて勇敢な英訳

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 僕はうれしい。なぜかと言えば、じつに素晴らしいからだ。これを喜ばずにいることが出来るだろうか。慶事だと言ってもいい。それほどの出来ばえだ。五目炒飯という日本語を英語にする必要にかられた二十代の日本の女性が、ごく当然のことのように、面白くもなんともない、という表情を浮かべて、Fried Rice With Five Eyesという英語を紙に書いたという。

 これは素晴らしい。たいへんいい。炒飯にまず注目したい。ひと昔前なら、炒飯はライス・フライだった。海老フライやアジ・フライ、そして牡蠣フライなどとおなじく、ごく単純に、そして明快に、炒飯はライス・フライだった。それがどうだ、よく見るがいい、炒飯はフライド・ライスへと進化しているではないか。フライ・ライスではない。フライド・ライスだ。

 次に注目したいのはwithの一語だ。フライド・ライスをwithで続けて、ファイヴ・アイズだ。よくここにwithを持ってくることが出来たものだ、と僕は感心している。ここにこのwithがあることによって、Fried Rice With Five Eyesという英語の語句は、その内容にはいささか問題があるとしても、いっさいなんの文句もなしに、それは英語の語句だ。英語のひと言として、完全に成立している。Eyeが複数のEyesになっていることにも注目したい。Fiveという数の表記に正しく呼応して、Eyeは見事にEyesとなった。従来の日本人だと、このような複数のsは、なんのへったくれとばかりに無視する以前に、複数にしなければならないという思考すら、浮かばなかった。

 科目や種目という言葉からもたやすくわかるとおり、この文脈での「目」はそれとおなじ種類の「目」であり、五目炒飯とくれば、五種類の具とともに炒めたご飯、という意味だ。しかしそんなことにはなんら留意することなく、五目をFive Eyesとしたまっすぐな勇気を僕は讃えたい。

 五目とはなになのか、彼女はただただ知らないのだ。知らないから勇敢になれる。そしてその勇敢さが、五目炒飯をFried Rice With Five Eyesという英語にする。戦後の日本で始まりいまも続いている英語教育の、これは輝かしいひとつの到達点だと言っておきたい。

 日常的な日本語の語句の、きわめて勇敢な英訳というものに僕はかねてより興味を持っている。なにか素晴らしい例はないかと、ある日の夕食の席で友人たちに訊ねてみた。八宝菜がEight Treasure Vegitablesとなった例を、ひとりの人があげてくれた。その昔、中国から日本に伝わった、野菜と肉の食べかただ。その食べかたに、日本の人たちは大きな影響を受けた。

 顔で笑って心で泣いて、という日本語を英語で言いたくて、Face laugh heart cry.と言った人がいたという。里山の例もあった。Village Mountainだ。寝耳に水は、Water in the sleeping ears.だったという。

 日本の童話を英訳し、美しい絵をつけて出版したなら、英語圏の人たちに売れるのではないかと考えた日本の人が、まず桃太郎の英訳を完成させ、題名はSon Of A Peachとして、相談役のような立場のアメリカ二世に見せた。アメリカ二世はその題名に驚き、とにかくひとまず、Peach Boyに変更することを求めたという。Son Of A Beachと胸に大きく印刷したTシャツがワイキキの土産物店で売られていたのは、いつ頃のことだったか。

 二十代の頃のある日、新宿のゴールデン街の小さな酒場で作家の田中小実昌さんといっしょになったとき、こないだ西伊豆へいったらペンを拾ったんだよ、そのことを英語で言ってみろ、と言われた。そこからのいきさつは省略して正解だけ書いておくと、Nishi is a pen.となる。アイ・アム・ア・ボーイ。ジス・イズ・ア・ペン。そこから始まった戦後の日本での英語教育の、これも輝かしい成果のひとつだと、いまでも僕は笑いながら本気で思っている。

 以下に述べるエピソードはかつてどこかに書いたのだが、あまりによく出来ているので、ここで簡単に書いておきたい。日本の人が、なんの疑念もなしに日本語から直訳したものを、英語として立派に通じると信じて疑わないままに、アメリカの人に日本で使った現場に、まったくの偶然で僕が居合わせた。

 ホテルのタクシー乗り場だった。時間は夕方だ。どこかで交渉を終えたアメリカのビジネスマンが、おそらく交渉相手である日本の会社の人に連れられて、宿舎であるホテルへ帰って来た。タクシー乗り場ではその日本の会社の部長さんが待っていた。タクシーを降りたアメリカの人に部長さんは、酒を飲むときのあの日本的なしぐさとともに、Let’s do one cup.と言った。

 部長さんはなにか英語らしきことを喋ったかな、とぼんやりと思った僕は、次の瞬間、この上なく明晰な状態となっていた。その明晰さのなかで僕が理解したのは、一杯やりましょう、という日本語を部長さんは英語に直訳してそれをアメリカの人に対して使ったのだ、ということだった。やるはdoで、ましょうはlet’s、そして一杯はone cupだ。これでLet’s do one cup.となり、それは日本語にすると、一杯やりましょう、でしかない。

 おまけのように僕が理解したのは、ワンカップ大関という名称の、透明なガラスの容器に入っている清酒についてだった。あのガラスの容器はカップに見えないこともなく、ひとつずつ個別に包装してもあることだから、そのような状態をワンカップと表現し商品名にも使ったのだ、と僕は思っていたのだが、それは違っていた。ワンカップ大関のワンカップは、一杯、という意味なのだと、僕の理解は改められた。

 文脈によってはいろんな意味をまといつける、一杯、という日本語を、無理やり英語にしてしまうと、なんのことはない、one cupなのだ。五目炒飯の五目がFive Eyesとなることと、よく似ていて面白い、と僕は思う。

『フリースタイル』2018年11月


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2020年6月18日 07:00
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