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なぜ、そんな写真を撮るのか

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 残暑がついに終わろうとしている、よく晴れた平日の午後、下北沢の喫茶店で僕が落ち合ったのは、ひとりの女性だった。その日の僕は写真を撮ることにきめていた。写真撮影の同行者には、男性よりも女性のほうが、さまざまな点において好ましいことを、僕は何年も前に発見していた。僕たちは午後のコーヒーを飲んだ。

 店を出て立ちどまった彼女は、

「好きそうな古い民家がすぐ近くにあります」

 と、白い指で方向を示した。好きそうなとは、僕が写真の被写体にするのを好みそうな、という意味だ。喫茶店から三分とかからない、ふとした裏道に、その家はあった。何度も歩いたことのある道だが、その道に面してこんな家があることに、僕は気づいていなかった。その民家の前に立ち、全景を眺めながら、まさにこれだ、と僕は思った。写真に撮りたいと常に思っている被写体は、なにをおいてもまずこれだ、と言っていいほどの、少なくとも僕にとっては素晴らしい、一軒の民家だった。

 敷地は四十坪あるかないか。せっかくの土地つき一戸建てなのだから、被写体ではなく物件と呼んでおこう。木造二階建ての、ごく標準的な民家だ。裏道に面して南向きで、建物に向かって右側に玄関のドアがあり、そこから左へ敷地の縁まで、ささやかな前庭だ。ささやかとは、けっして広くはないという意味だが、そのささやかさ加減が、いまのものではない。かたわらに立つ彼女がさきほど言ったとおり、五十年ほど昔のものだ。前庭に面してガラス戸があり、そのなかに部屋がふたつ、そして台所と浴室、トイレットに納戸だろうか。二階は北側が廊下で、六畳がふたつか。窓には雨戸がある。その窓の外には手すりがある。人々はその昔、この手すりにしばしば手拭いをかけて干した。

 道に面した扉は、細い鉄棒細工によるごく簡素なもので、その隙間から僕はオリンパスのXZ–1というデジタル・カメラで撮影した。扉から玄関のドアまで、コンクリートで作った四角い踏み石がいくつかつらなっている。その踏み石の作りが、そして造形が、さらには雰囲気が、いまのものではない。時間の経過を感じないわけにはいかない。

 どの部分も素晴らしい物件だが、僕の気持ちをもっとも強くとらえたのは、玄関のドアだった。大きさは標準だろう、しかしその作りは既製品ではない。地元の大工がこの家に合わせて板で作ったものだ。そのドアに塗られた色には、身に覚えがある。そして、把手にも、それを握って右や左にまわすときの感触が、まだ僕の体内に残っている。いまこうして書いている文章のなかに、過去形と現在形とが混在しているが、その物件には過去から現在へとつながる時間があり、それを眺めては写真に撮っている僕にも、過去から現在への時間があるからだ。どこでとらえるかによって、文章のかたちは過去になったり現在になったりする。

 ドアの左脇には、ドアとおなじ高さで上下いっぱいに、明かり取りの部分が作ってある。ぜんたいとしては細長いスペースを木製の枠によっていくつかに仕切り、そのひとつひとつにガラスがはめてある。ドア脇のこのような細工にも、僕には身に覚えがある。

おなじような細工のドアを持った、おなじような玄関の家に、子供の頃、そして青年になってからも、世田谷区の代田というところで、少なくとも三軒には住んだ、という体験があるからだ。物件としては素晴らしいのだが、写真に撮る部分は、玄関の他には、さほどなかった。

 表札は門の柱に取り付けてあった。しかし人の気配はなかった。「誰も住んでいませんね」と、彼女が言った。前庭には手入れされた様子がなかった。その前庭に面しているガラス戸の内側のカーテンにも、住んでいる人の感触は感じられなかった。当主がこの家をすでに去ったとしても、それからまださほどの時間は経過していないように思えた。XZ–1のドラマチックトーンという特殊効果フィルターで、ドアの下半分を、その周囲を取り込みつつ、僕は撮った。写真としてはこのショットがもっとも良い、と僕は思った。午後三時すぎの陽ざしが、ドアの下の左側と、その手前で踏み石のあいだに生えている夏草に、斜めに当たっていた。

 その家の前を立ち去り、駅に向けて歩きながら、

「なぜあのような家を写真に撮るのですか」

 と、彼女は僕に訊いた。

 なぜだか僕にもよくわからない。撮り始めて二十年になる。写真集を十冊は作った。答えはさまざまにあり得る。答えがひとつにまとまることは、まずないだろう。造形が面白い。いまのものではない。ぜんたいが景色として良く出来ている。僕自身の過去の体験を再生して楽しんでいる、とも言える。想像の起点として得難いものがある、という言いかたをしてもいい。純粋に、ということがあり得るかどうかは別にして、純粋に写真として興味深くもある。

 僕はそこに経過した時間を撮っています、という回答は、あらゆる要素をひっくるめてひとつにしているという意味において、もっとも正解に近いだろう。ついさきほど写真に撮った民家は、ごく標準的なものだと僕は書いたけれど、あの民家が東京で標準的だったのは、いまから少なくとも五十年は昔のことだ。たとえばあの家のドアぜんたいに、そしてあらゆるディテールのなかに、経過した時間の量があらわれている。

 いまから五十年前は一九六三年だ。東京オリンピックが開催された年の、一年前だ。それよりもっと前に建てられた家ではないか、と僕の体感が言う。一九五九年に新築された民家だ、ということにしようか。昭和では何年になりますか、と僕が訊ねると、かたわらを歩く彼女は、「昭和三十四年です」と即答した。答えは手に入っても、それがどんな年だったか、僕にはいっさいわからない。現在の天皇陛下が皇太子だった頃、ご成婚の大パレードがあった年です、と言われるとそれがかろうじて手がかりとなる。一九五九年、昭和三十四年の日本では、いまや知る人も少なくなったかと思うが、チャコは夜霧に消えていたし、さくらんぼは黄色く、姉妹と言えば浅草で、誰かが後にしたのは南国の土佐だった。あれから十年たったかなあ、と歌っている人もいた。一九五九年を起点にして十年さかのぼるのだから、そこはじつに一九四八年、昭和ならまだ二十代の二十三年だった。その頃の東京はブギウギだったし、ハワイ航路は憧れで、エレジーが聴こえたのは湯の町だった。鐘の音はチンカラカンと鳴ったフランチェスカで、ルンバはバラとさよならとの、ふたとおりだった。

 昭和二十三年と言えば、美空ひばりがデビューし、サマー・タイムが実施され、厚生省という役所が「母子手帳」の配付を開始した年だ。福井に大地震があって福井市では四千に近い人命が失われた。A級戦犯が釈放された。あげていくときりがない。前の年の十二月二日には一等が百万円の宝くじが発売され、即日完売となった。昭和だねえ、まさに昭和だよ、と言いたいところだが、この頃の僕はまだ子供だったから、したがって当時の日本社会のことなど、なにひとつ知らなかった。

 下北沢で一九五九年の民家のドアを撮影した次の週には、千駄木の喫茶店で、おなじ彼女と待ち合わせをした。おなじデジタル・カメラで写真を撮るためだ。小田急線直通の地下鉄で一時間近く席にすわったままでいたあと、地上の喫茶店でのシアトル・ローストの豆による一杯のコーヒーは、まるで蘇生の魔法のように僕の全身に効いた。

 コーヒーのあと僕たちは、千駄木から谷中にかけて、被写体を探して歩いた。このあたりへ僕たちが写真を撮りに来るのは、これで二度目だった。一度目は半年ほど前のことだったか。それよりさらに半年前、まったく別の用事で谷中まで来たとき、路地を歩きまわっていた僕たちは、僕が探してやまなかった、そしていまでも探している被写体を、偶然に見つけた。僕たちが見つけたのはパーマの看板だ。

 六十センチに四十センチほどの、ぜんたいが淡いベージュ色に塗られた、橫長の平凡な看板だ。そのベージュ色の長方形スペースのなかに、赤い文字で、パーマ、とだけ書いてある看板を、僕たちは谷中の路地の途中で見つけた。看板に文字を書くことに関して、けっして心得のある人が書いたものではなく、看板製作業を仕事にして来た年月のなかで、見よう見まねでなんとか書けるようになった文字、ということがあらゆるディテールにあらわれている、きわめて素朴な、そしてそれゆえに訴求力の強い、昭和の看板だった。

 なぜそれが昭和なのか。パーマこそ、戦後昭和の始まりだったからだ。パーマとは、パーマネント・ウェーヴの略だ。いまでも日本語として現役だが、美容院の看板に使われるときには、カット・アンド・パーム、と英文字で書かれる場合が多い。パームとはパーマのことだ。半世紀の時間をかけて、パーマはパームへと進化した。

 ほどよい大きさの、淡いベージュの、横長の看板スペースのなかに、赤くて角の丸くなった、なかば素人による赤いペイントの書き文字で、パーマ、のひと言が日本の来し方を静かに路地のなかほどで、いまも伝えていた。目にとめて立ちどまる人など、もはやひとりもいないのではないか。ましてや、それを写真に撮って喜ぶ人など、おそらく皆無だろう。しかし僕は、その看板を写真に撮った。偶然に見つけ、これはぜひとも撮らなくてはいけない、などとそのときの同行者と語り合ってから、およそ半年後に、撮影はようやく実現した。

 パーマネント・ウェーヴはたちまちパーマネントと略され、それがさらにパーマと短縮されて、戦後昭和の日々となった。パーマとは書かずに日本語で書くなら、それは電髪という漢字ふたつの造語だった。日本女性の、ほとんどはまっ黒でまっすぐの髪を、電気で強引に縮らせたからだ。頭ぜんたいの髪を少しずつ取り分けてはボビンに巻きつける。ボビンは二十個ほどもあっただろうか。どのボビンにも電気コードがついていて、それらのコードは、パーマをかける女性の頭のすぐ上に位置した、大きな金属製のお釜のような器具の内部に、すべてつながっていた。ボビンに通電されるとそれらは熱くなり、その熱さに耐えていると、日本女性たちの髪はやがて縮れた。戦前から戦中までの日本を、旧世界としてなぜだかほぼ全否定したあと、敗戦の日の一日を境にして、日本は戦後民主主義の社会となった。その社会を底辺に近いところで心情的に支えたもののひとつが、パーマだった。

 赤いペイントによる手書き文字で、パーマ、とだけ書かれた看板を、僕はいまも探している。もう二十年近く前、渋谷の円山町の片隅で、理想的なパーマの看板を見つけたことがあった。これは写真に撮らなければと思いつつ、いつのまにか三年ほどが経過したある日、写真機を持ってそこへいってみると、パーマの看板だけが忽然と消えていた。数年前には神田でひとつ見つけ、これはすぐに写真に撮り、僕がこれまでに作った十冊ほどの写真集のどれかに収録してある。パーマは消えていく。なぜなら昭和が消えていくからだ。

 薬局はすでに消えた。やや重いガラスの引き戸に金文字で半円形に、なんとか薬局、と書いてあり、なかに入ると胸の高さあたりまでのガラス・ケースが、店の左右どちらかに立ち、そのガラスは前面が斜めになっている場合が多かった。あの斜めの角度は絶妙であり、その絶妙さが薬局の権威ではなかったか。

 店主は白衣を着用していた。こういう昭和の薬局で僕はコンドームをしばしば買った。いちばん安いのを下さい、というひと言が口癖になったのは、コンドームが過剰包装されていた時代があったからだ。一ダースだと三つずつプラスティック製の美しげな容器に収めてあり、それが四つで大きな箱入りだから、ぜんたいはかなりの容積で、けっしてポケットには入らないのだった。一九六〇年代なかばの新聞を縮刷版で丹念に見ていくと、コンドームの過剰包装を問題にした記事が、かならずや見つかるはずだ。

 消えた薬局が二軒あった。道路の反対側から建物の全景を撮るとき、デジタル・カメラの背面のモニターには、昭和が幻のように映し出された。消えた当時のままに、二軒とも建物は残っていた。コンドームの自動販売機が、一軒の店頭に、現役のときのままに、残されていた。硬貨を投入すればいまでも楽しい産児制限が実現するのではないか、と僕は同行の彼女に言ってみた。「あっちへいってみましょう」と彼女は答えた。

 中華料理の店も二軒、見つけた。街角の中華料理の店、とでも言えばいいのか。白地に中華料理の四文字を赤く染め抜いた暖簾は、常に写真うつりが良い。だから僕はどちらの店でも暖簾を撮った。道に面して建っている店の全景を、正面から端正に撮ることも試みた。試みは充分に報われた。二軒の店はおたがいによく似ていることに、やがて僕は気づいた。地域にすっかりなじみ、毎日おなじように営業を繰り返している様子のなかに、静かに落ち着いた雰囲気があった。これはどこから生まれて来るものなのか、と僕は考えた。

 経過して積み重なった時間のなかからしか、それは生まれては来ない。二軒の店を僕はおなじ気持ちで観察した。ここで営業を始めたときの店主、つまり一代目が、いまも健在で料理を作っているのではないか。店主の年齢がいま七十五歳だとして、三十五歳で自分の店を持ったなら、その店はいま四十年目という時間のなかにある。

 いまから四十年前は、昭和のいつだったか。ごく単純な、したがって咄嗟の引き算が、僕には出来ない。少し離れたところで他の店を見ていた同行の彼女に、四十年前は昭和のいつだったか、僕は訊いてみた。「昭和四十八年です」と、彼女は即答した。「あるいは一九七三年」とも、彼女はつけ加えた。

 年号だけわかっても、その内容はまったく見当もつかないのが僕だが、さすがに石油ショックのことは知っていた。OAPECが日本を友好国と宣言し、その友好国には必要なだけの石油を供給する、と約束してくれたが、そのふた月ほど前には、石油が輸入されなくなるからトイレット・ペーパーがなくなる、というパニックが日本全国で起きた。主婦たちが、そして主婦ではない人たちも、誰もがトイレット・ペーパーを必死で買い求めた。石油を世界に供給していた五つのメジャー会社が、供給を十パーセント削減する、という通告を出したからだ。こういうのも、激動の昭和史の一部分なのだろうか。

 世の中がまだ昭和だった頃、街を歩いていてふと角を曲がると、そこから三軒目に中華料理の店があるのを横目で見るのは、急ぎ足で歩いていく僕にとって、心に宿る安心感の源泉だった。そのような店があれば、そこに入って餃子を二人前に白いご飯、そしてわかめスープを添えれば、それは青春の証だった。小さな皿に醬油、酢、そしてラー油を注いで割り箸でかきまぜるのは、青春の儀式だった。それが自分で自分を捧げ出す人身御供の儀式だとは、少なくともそのときは、まだ気づきもしなかった。

 木造モルタルの二階建てアパート、というものも当時はそこかしこにあった。脇道や路地の五本目ほどごとに、それはなにげなく、そこにあった。脇道や路地を入った、なにげない場所に、木造モルタル二階建てのアパートは、かつて盛んに建てられたからだ。遺跡のように、それはいまでも、あちこちに残っている。

 向かい側の集合住宅の、自転車置場の縁に立ち、僕と彼女は一軒のアパートを観察した。アパートとして現役だろうとは思うのだが、人の気配の感じられない様子には、僕たちのどちらをも無言にさせる力があった。部屋のなかで長年の嗚咽をこらえきった人が、もはやそこにはいなくなったあとの、底の深まりきったような静粛感を全身に受けとめながら、僕はデジタル・カメラを作動させた。

 トタン板を張った雨戸が閉め切られたままの窓。その雨戸の外にある物干し竿。竿の端から下がっている針金のコートハンガー。正面のドアが粘着テープで補修されている様子。コンクリート・ブロック塀とそのドアとの、経過してとっくに去った時間のなかで培われた関係の、ついに終わってそのままの様子。

 僕がそのかたわらに立った自転車置場の、一台の自転車の荷台に、なにかこんもりとしたものが載っていることに、僕は気づいた。それは一匹の猫だった。もはやこの世になんの興味もなく、ただ生きているから今日もただ生きている、という風情の顔の大きい、目の細い雄猫だった。僕がすぐそばにいてもなんら動じる気配はなく、僕が「ニャー」と言ったらそれをその猫は無視した。

 団子坂の交差点のすぐ近くのコーヒーの店で、僕たちはコーヒーを一杯ずつ飲んだ。その日には本日のブレンドだったそのコーヒーは、回想して書いている現在から見れば、当日のブレンド、あるいは、かつてのブレンド、という時制になるのではないか。かつての当日を、僕たちは、昭和の名残のなかで過ごした。

『新潮45』2013年12月号


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2020年4月6日 07:00
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