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南日本新聞のあれやこれや

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僕におけるもっともらしさ

 かつて南米のペルーから日本へ数多くの男性たちが仕事をしに来ていた。彼らの姿をいまはまったく見ない。日本の失われた二十年の始まりとともに彼らも帰国し始めたなら、彼らが日本を去り始めてすでに二十年が経過したことになる。残念でならない。いつも乗る小田急線という電車のなかで、かつては彼らをたくさん、頻繁に見かけた。僕が住んでいるところから電車でひと駅の町田という町でも、彼らは常に二、三人連れで歩いていた。

 後ろ姿だけでもいいから彼らを写真に撮っておけばよかった、といまの僕はしきりに思う。なぜなら彼らは、僕にとって、日常の服装に関するまたとなく好ましいお手本だったから。彼らの服装を自分のものにしたい、と僕は何度も真剣に思った。思いが頂点に達し、実行に移そうとしたとき、彼らは消えていた。

 僕のいつもの服装で、自分にいちばん気に入らないのは、もっともらしさだ。数年前に撮った自分の写真を見ると、僕の嫌いなもっともらしさが、いたるところで端的にあらわれている。いまは努力のかいあって、もっともらしさは少しだけにせよ、薄らいでいるはずだ。

 とにかくジャケットはもっともらしさの原点だと判断した僕は、それ以来、ジャケットをいっさい着ていない。ペルーから来ていた男たちも、ジャケットとは無縁だった。

 僕の履く靴は良く出来た頑丈なトレッキング・ブーツだ。それにストレッチのジーンズだ。だから下半身はすでに、着たきり雀、履いたきりカワウソ、と言われるまでに到達した。だからここまではこのとおりでいいとして、問題は上半身になにをどう着るかだろう。

 下着の上に長袖のポロシャツ、そして黒くて薄いナイロンのウインドブレーカーの季節が、たいそう好ましい。この服装だともっともらしさはかなりのところまで消える。夏になればシャツ一枚だが、このシャツが、じつはかなりのところまで、もっともらしいのではないか、と僕は感じている。夏には、自分に可能なかぎり、もっともらしくないシャツを着る、という課題を僕は自分に課している。ペルーの男たちは、どんなシャツを着ていたか。よれたTシャツの上に、どうでもいいようなシャツを、ただ単にはおればいいのか。

 どうでもいいような、という言葉は示唆に富んでいるはずだ。なぜなら、自分の基準で選んだ、可能なかぎりどうでもよくないものばかりを身につけた結果が、もっともらしさなのだと考えると、どうでもいいような、という基準は、もっともらしさから遠いところに位置して機能する基準に違いない、という結論めいたものが浮かび上がるのだから。

 僕におけるもっともらしさを構成している最強力な要素は、顔だちとその表情、そして髪のかたちだ。髪はとっくに変えた。いまはもっとぞんざいになっている。顔だちはどうにもならないとして、表情は年齢とともに顔の筋肉が少なくなり、しかもたるんでいけば、そこには沈痛な面持ちだけが残るのではないか、と期待している。

着こなしの弱点がここに

 何年か前の夏の終わりに、東京・下北沢の書店でトーク・ショーをしたとき、終わってすぐに撮った写真をいま見ている。僕の隣には当日の主役である町山智浩さんが真面目な笑顔できちんと椅子にすわっているし、その隣には司会の川崎大助さんが、穏やかな笑顔でこれまた端正に立っている。僕だけは、なんの意味もなく姿勢を崩している。子供の頃から僕はこんなふうだった。だから、これはこれで、たいそう好ましい自分だ。

 夏の終わりだから僕は夏のシャツを着ている。L・L・Beanで色違いをすべて購入し、夏になってシャツ一枚の季節になると、これだけを取り換えては着ていた。シャツの袖はまくり、裾はジーンズの外に出している。シャツの下は黒い長袖の、おそらく薄い化学繊維のTシャツだ。夏の始まりからその頂点をへて夏の終わりまで、これが僕の着こなしの基本だ。

 その着こなしを写真のなかに観察していると、着こなしの弱点がやがてはっきりと見えてきた。夏に着る、ときめたシャツを、ほんとに夏のあいだだけ、僕は着ている。これは、子供の頃にあれほどまでに嫌った衣替えの、数十年後における名残ではないか。これは夏に着るシャツだ、となぜきめるのか。一年じゅう着ていればいいではないか。シャツの下の化学繊維の黒いシャツは、一年をとおして着ている。よほどの暑さではないかぎり、これが半袖に替わることはない。ジーンズとトレッキング・ブーツ、そして黒い化学繊維の下着としてのTシャツは、もはや通年のものだ。しかし、夏のシャツは夏にだけ着ている。見えてきた着こなしの弱点は、まずここにある。

 黒くて重い学童服が、スタイルはおなじながらいま少しは軽い生地による霜降りの学童服になり、そこからさらに白い半袖シャツの夏姿になった。これが小学校や中学校で先生たちから強制された衣替えだ。この衣替えが僕は大嫌いだった。着るものを人に強制されるからだ。それだけではない。着るものを季節に合わせて替えていくのは、人としてのもっともらしさの発生する、原点のようなものではないか。これは夏のシャツ、ときめることをやめる。一年じゅういつでも着る。そうすることによって、季節に服を合わせるというもっともらしさが、かなりのところまで消えるのではないか。期待は大きい。

「亜熱帯の発展途上国のおじさんは、年がら年じゅうおなじ服を着て笑ってるじゃないですか」と進言してくれた人がいた。そのとおりだ。亜熱帯の発展途上国のおじさんは、もっともらしさからは遠い。失われた二十年の始まる前、南米のペルーから日本へ労働しに来ていた日系の人たちの着こなしは、もっともらしさから遠くなりたいと願う僕にとって、貴重なお手本だった。そこへさらに、亜熱帯の発展途上国のおじさんが、お手本として加わった。寒い季節には服を重ねざるを得ない。そうなるまで、せめて夏のあいだだけでも、今年の僕はもっともらしさから少しでも遠のいて過ごす。

襟が作り出すものとは

 写真のなかの自分を僕は観察している。シャツは裾のすぐ近くまで見えているし、手首は袖口を二度折り返してあり、その下の黒いTシャツも見えている。夏の僕のシャツ姿だ。はっきりと目につくのはシャツの襟だ。ボタンを上からふたつはずしたシャツの襟が、僕の顎の下で左右に立っている様子だ。ここに襟がこのようにあります、とその襟は言っている。

 この襟は、僕が仮に翻訳すると、「そうとは見えないがボタン・ダウン式」のもので、襟先はシャツの本体にボタンで留めてあるが、外からそのボタンは見えない。ボタン・ダウンの襟は襟としてはっきりしているから、昔から僕は好んで着ている。襟がはっきりと襟であればあるほど、もっともらしさはつのるのではないか、ということに僕は自分の写真を見ていて気づいた。

 襟は、特に男の服では、服を着ることの中心だ。スーツにタイという姿のとき、スーツやタイにとってもっとも目立つのは、じつは襟なのではないか。自分の服の着かたのなかに、自分の好まないもっともらしさがあるなら、それは襟が作り出しているのではないか、ということに僕は気づいた。襟をなんとかしなくてはいけない。この夏のシャツ姿のためにも。

 なんとかするためのもっとも端的な方法は、襟を切り落として、Tシャツのような丸首にすることだ。いまから五十年以上前の日本で、あるときいきなり、主として若年層の夏の服装として、Tシャツが広まって定着した。Tシャツには襟がなかったからではないか。襟というものに対して、心理的な抵抗感を当時の若年層は覚えていたのではなかったか。僕自身はTシャツ一枚で街を歩くことに、いまでもなじめないままでいる。ハワイにいるとき、色は落ち、ほころびさえ散見されるTシャツを着るけれど、それ以外ではTシャツは間抜けな下着だと思っている。

 しかし、シャツの襟をなんとかしなくてはいけない。立ち襟はまったく好まない。となると、丸首のスエット・シャツは秋から着るとして、夏のあいだはポロシャツあるいはヘンリー・ネックということになる。ボタン・ダウンではなく、平らになる小さめのシャツ・カラーという選択もあるか。

 ボタン・ダウンではない、ごく普通のシャツ・カラーの夏物のシャツが、色違いで何枚か買ってあるのを見つけた。ポロシャツも何枚かあり、ついでにヘンリー・ネックのニットのシャツも何枚か発掘した。どれもみな長袖だ。真夏の猛暑日にも今年の僕は長袖で陽ざしのなかを歩いている。写真のなかでぼくが着ているシャツは、ボタン・ダウンの襟はもちろん、左右の胸ポケットそしてそのフラップなど、いちいちもっともらしいではないか。ポケットそしてフラップを取ってしまおう。

せっかくの別人なのに

 一冊の本、一枚の映画DVD、そして一枚のLPないしはCDを無人島に持っていくとして、それらはあなたの場合どのようなものになりますか、という企画に何人かの人たちが賛同して文章を寄せて一冊の本になった。僕も無人島へいくひとりとして、喜んでその本に参加した。

 本はいいとして、DVDとLPあるいはCDは、常に正常に作動する再生機器と、安定した電源がないとどうにもならないが、その無人島ではどうなのだろうか、という理屈をひとくさり述べたあと、一冊の本は広辞苑にした。これしかないから、これなのだ。その意味で、これは純粋な無人島での一冊だと言っていい。無人島をひとりで歩きまわりながら、海に囲まれた景色を見るのに飽きたら、広辞苑のページを開き、最初から一行ずつ、読んでいくのだ。日本語を使って仕事をしてきた自分に対する真摯な反省として。

 映画は『拳銃魔』だ。一九五〇年のアメリカ映画だ。数年おくれて東京の下北沢で観た子供の僕は、この映画からたいへんな影響を受けた。犯罪者が自分の立案した犯罪を自分だけで実行しているときの、ほかにくらべようのない自由さというものに、独りの子供が巻き込まれた。それ以後、現在にいたるまでの人生は、巻き込まれた世界からなんとか抜け出すための日々だった、と言っておこう。一枚のLPないしはCDに関しては棄権した。とても一枚を選ぶことなどできないから、という理由で。「無人島へ持っていく一枚のLP」という題名でこれから自分で作ります、というような言い訳を僕はしたと思う。

 この本に参加した人たちは誰もが、顔写真を提供することになっていた。自分が担当したページのおしまいに、自分の顔写真が印刷されるのだ。オリンパスのXZ–1とかいうデジタル・カメラを使い、自分で撮った画像を提供した。晴天の日にヴェランダが日陰になるのを待ち、引き戸の白いレースのカーテンを背景にして、確か椅子にすわったと思う。写真機の画面のなかに自分がどのような大きさで納まるかときめるためには、何度か試し撮りをしなくてはならなかった。カメラを持った右手をいっぱいにのばし、親指でシャッターを押した。

 顔の長い人にしようと思ったから、口が開いてしまう寸前まで、顎を下へ落としている。これだけでかなり印象が違って見えている。カメラは視線とおなじ位置にある。これはこれでいい。よく撮れた。顔が長いだけではなく、やや陰気な印象にもなっている。総合的に判断して、これは当人によって当人を撮影した結果のほぼ別人だ、と言っていい。反省はいろいろとある。顔写真のためにデジタル・カメラで自分を撮る、ということに慣れていない。と言うよりも初めてのことだから、かもし出す雰囲気が真面目になってしまっている。これはいけない。せっかくの別人なのに、真面目さだけは当人そのままではないか。

ふたつの題名たずさえて

 二十年以上も前に思いついたことなのに、まだ実現できていない。京都の四条河原町の交差点を中心に、半径がせいぜい五百メートルの範囲内で、平日の午後から夕方にかけて、少なくとも三軒の喫茶店をはしごしながら、短編小説のアウトラインを二編、完成させる、という思いつきだ。

 なぜ、二十年以上も、こんなことが実現できなかったのか。それほどまでに僕は多忙だったのか。夏の暑い時期がいい、と希望していたが、夏は祭りの季節で人が多いから避けたほうが賢明ではないか、と京都の人が助言してくれた。

 九月の前半に実現させることにした。黒いナイロン製の、ノートブックPCを入れるための薄いバッグにノートブックと万年筆を入れて、九月前半のある日の午前十時ごろ、新横浜から新幹線に乗ればそれでいい。

 はしごする喫茶店はもうきめた。築地。フランソア。ソワレ。この三軒だ。どの順番がいいか、楽しみながら考えているところだ。この三軒の喫茶店をはしごしているあいだに、短編小説二編のアウトラインを、ノートブックのページに万年筆の大きくて自由な字で、メモ書きで完成させる。

 とは言っても、アイディアのまったくないゼロの状態で新幹線に乗ることは避けたい、と僕は思う。少なくとも題名くらいは、頭のなかにある状態が望ましい。短編ふたつのためのアウトラインだから、題名はふたつ必要だ。ふたつともすでにある。ひとつは『ピーばかり食うな』という題名で、もうひとつは、『ラプソディック担担面』という題名だ。面は麺と書かれる場合が多いかと思うが、正しくは面という字を使う。

『ピーばかり食うな』の「ピー」とは、柿ピーの袋のなかのピーナツのことだ。そして柿ピーの袋とは、柿の種と呼ばれている小さな煎餅とピーナツとが、およそ半々に入っている袋のことだ。

 僕の好みの柿ピーを友人に進呈したところ、自宅で奥さんとふたりで食べたとき、奥さんがピーナツばかり食べるから、ピーばかり食うな、と叱ったという。これはいい言葉だ、短編小説の題名になる、と僕は思った。

 もうひとつの『ラプソディック担担面』は、『アンソロジー餃子』という本の題名を見たとき、反射的に僕の頭に浮かんだフレーズだ。初めはラプソディだったのだが、ラプソディックのほうがいいと思い、『ラプソディック担担面』となった。これも素晴らしい。絶対に題名として使える。

 だから僕は、『ピーばかり食うな』と『ラプソディック担担面』のふたつの題名をたずさえて、九月の初めのある日、ソワレ、築地、フランソアの三軒の喫茶店をはしごして、ノートブックにアウトラインを書く。

 三軒をはしごしてアウトラインを完成させた僕は、もう一軒、喫茶店へいく。どこか近くがいい。早めの夕食のためだ。ビーフカツサンド、あるいは、カツカレーにきめている。このどちらかを喫茶店で食べ、タクシーで僕は京都駅へ向かう。

カツカレーと五〇〇円硬貨ひとつ

 夏至まであとひと月足らず、という季節の快晴の日の夕方、五時三十分すぎに、僕は友人とふたりで、駅前の喫茶店に向けて歩いていた。五時に開店するカツカレーの名店に開店五分前にいき、外で五分待って開店と同時に店に入り、それから三分ほどのあいだに、七人でいっぱいのカウンター席だけの店は、満員となった。全員がカツカレーを注文した。店の外には早くも数人の行列が出来ていた。

 そのカツカレーを十分に賞味して、まだ五時三十分、しかもあたりは昼間とおなじに明るい。その時間に、カツカレーのあとの、深煎りの豆によるフレンチ・コーヒーだ。至福の状態のなかで、僕は食べたばかりのカツカレーについて思った。値段は一四八〇円だった。

「カツカレーの値段で下限はどのあたりだろうか」

 と僕は友人に聞いた。友人は即答した。僕より二十歳年下で部長の要職にある男だ。

「四七〇円です」

「なぜ?」

「おつりの問題です。千円札を出したなら、おつりのなかに五〇〇円玉がひとつあります。千円出しておつりのなかに五〇〇円玉がひとつあって、なおかつカツカレー、という種類のカツカレーは四七〇円です」

「僕は下限は二七〇円くらいかと思った」

「それはまた別世界のことです。僕が想定している客は、背広にネクタイ、そして脱ぐのも履くのも簡単な黒い靴の、中年の男たちですから」

「サラリーマンか」

「昼には彼らで行列ですよ。ものの十分もあれば食べ終わります。カツはハムとおなじくらいに薄く、衣とはがれ、カレーはさらさらの口当たりです。これは人気の一因です。疲れた男たちはさらさらカレーが好きなのです」

「食材と調理のしかたを値段という秤にかけると、ご飯のわきのカレーは、さらさらにならざるを得ない」

「よく知ってますね」

「店は地下街のはずれの、一角と呼ぶべきかそれとも片隅か。店舗ではあるけれど、ものを食べる店とは言いがたい。皿とご飯とカレーがばらばらな印象で、これが見た目にはもっとも特徴的かな」

「現実にそんな店を知ってるのですか」

「光景として記憶はしている、という領域の出来事だ」

「いってみますか」

「知ってるのかい」

「見つけますよ。見つけたらすぐに誘います」

「一日三食のうちの大切な一食が、そのカツカレーになる」

「歓迎です。そこへいきましょう。そしておつりの五〇〇円玉で、コーヒーを飲みましょう」

「僕が知ってるいちばん安いコーヒーは二二〇円だ」

「私の五〇〇円玉で、カツカレーのあとのコーヒーを、ご馳走します」

 この友人から、昨日、電話があった。語り合ったのとそっくりな店を大きな駅の地下街のはずれに見つけたという。カツカレーはもちろんあり、値段は四七〇円だ。待ち合わせの喫茶店も教えてくれた。明日はそのカツカレーを彼とふたりで食べる。

青い林檎がありました

 夏のなかばにその喫茶店で会ったのは、五十代なかばの部長さんだ。必要とあらば編集の現場に出ることもある。しかし通常は管理職の男性だ。僕と向き合って話をしているあいだずっと、彼から見てテーブルの右側に、彼の黒い革の手帳と携帯電話を重ねてきちんと置き、ときどきそれに手を触れていた。彼と話をしながら、その様子を僕は見ていた。

 彼の人当たりは穏やかで、説明の言葉はそれなりに明晰だったから、打ち合わせは問題なく進行した。手帳と携帯電話のふたつがきちんと重なった様子、そしてそれに彼がときどき手を触れる様子を、僕は見守った。日付を確認するために、彼は手帳を一度だけ開いた。携帯電話は使わなかった。話が終わって挨拶を交わし、椅子を立ち上がる寸前、彼は手帳と携帯電話を鞄のなかに入れた。

 あとにひとり残った僕は、五十年前を思い出していた。五十年前の僕はフリーランスのライターをしていた青年で、年上の男性編集者たちと、ほとんど毎日、神保町の喫茶店で打ち合わせをしていた。彼らの誰もが、話を始める前、ハイライトという銘柄の煙草のパッケージの上にライターを重ねて、テーブルの右側に置いていた。当時は煙草の時代だったから、僕と打ち合わせをしているあいだに、たいていの男性は二、三本の煙草を喫った。僕との話を終わって席を立つとき、その煙草とライターは、ほとんどの場合、彼らのシャツの胸ポケットに入るのだった。

 夏の終わりにおなじ喫茶店で僕は女性の新聞記者と会った。その頃に刊行された僕の短編集をめぐって、創作のあれやこれやについてインタビューしたい、ということだった。喫茶店に彼女は先に来ていた。A4のサイズの分厚いノートブックと筆記具の入った革のケースをテーブルに置き、ノートブックの上には青い林檎がひとつ、載っていた。

「お約束の時間よりも早く来ましたので、下のスーパーで果物を見ていたのです」

 と彼女は言った。

「青い林檎がありました。私はなぜか青い林檎が大好きなのです。私の過去のなかをいくら探しても、青い林檎をこれほど好きになったきっかけは、なにひとつ見つからないのです。しかし、青い林檎が大好きですから、ひとつ買いました」

 と、彼女はノートブックの上の青い林檎を指さした。

 僕も林檎は青いのが好みだ。明らかに小ぶりな、固い、そして酸っぱいのがいいのだが、そのような林檎をいまの東京で見つけるのは難しい。料理用の林檎を探してみれば、と提案してくれた人がいた。まだ探してはいない。僕の手のなかに入るほどの、小さくて固くて酸っぱい、青い林檎。青い林檎をめぐって、僕と彼女は、しばらく熱心に語り合った。青い林檎が重要な小道具として登場する短編小説を書くといい、と僕は言い、それはぜひとも読みたいです、と彼女は言い、次のようにつけ加えた。

「こうして置いておくと、あるときふと、林檎の香りがするのです」

さて、なにを書こうか

 鶏のもも肉が香辛料と食塩だけでローストしてある。骨つきだ。左右どちらかのももではないか。二百三十グラムだという。ほぼ半分をナイフで皿に削ぎ落とし、ほどよい大きさに切ってフォークで食べる。なにもつけない、そのまま。充分に美味だし、僕の好みの出来ばえでもある。クリスマス用だと思うが、待ちきれない人のために、と早くから販売している。僕は待ちきれない人たちのひとりだ。

 苺が冷蔵庫のなかにあった。いいかたちと色だ。七つあったから、すべて洗い、へたを取り、白い器に入れてナイフで細かく切り、ブルー・アガヴェという植物の甘いシロップを少しだけかけてかきまわし、スプーンですくっては食べた。このブルー・アガヴェはメキシコ産だという。メキシコにそこはかとなく思いをはせたいのだが、五十年ほど前のティフアナしか知らない。メキシコからヨーロッパの苺へと、連想は飛躍した。大きなバケツに苺が山盛りに入っていて、小さなスコップで紙袋のなかにすくい取り、重さを計ってもらって代金を支払う、という苺を体験したのは、ヨーロッパのどこだったか。

 鶏もも肉をローストしたものに、細かく切ってアガヴェ・シロップをほんのりかけた苺は、よく合っていた。大きな長方形のテーブルの向こう側には窓があり、晴天の十二月二日のお昼過ぎの景色が見えていた。高台から見下ろす景色だ。窓辺に立つといちばん低いところにある線路とそこを走る電車が見える。テーブルのこちら側で椅子にすわっていると、低いところは見えず、その向こう側の、坂道をこちら側とおなじような高台へと上がっていく景色が見える。上がっていく坂は下ってくる坂でもあるのだが。人がひとり、その坂を下りて来る。

 食事が終わったらコーヒーだ。イタリーのイリーというメーカーの、ドリップ・コーヒーを飲んでみることにした。一杯ずつのコーヒー粉が薄い紙袋に入っている。コーヒー・バッグだ。紙袋の上端を切り取り、開いて薄いボール紙製の把手をコーヒー・カップの両側の縁にかける。袋のなかに沸騰した湯を注ぐ。これで一杯のコーヒーが出来る。

 銀色の紙箱に五袋ずつ入っている。ダーク・ローストとメディアム・ローストの二種類がある。僕が飲んだのはメディアムのほうだった。悪くない、と言っておこう。スーパーマーケットの棚にコーヒーがたくさんならんでいる。そのなかにあった。これからときたま僕はこれも買うだろう。五袋の合計が四十五グラムだという。五枚の袋の重さを差し引いたとして、ひと袋のなかのコーヒー粉は十グラムに満たない。コーヒー豆を自分で挽いて使うときの粉と、ほぼおなじ量だ。

 イリーというメーカーは一九三三年にイタリーのトリエステで創業したという。昭和八年だ。日本は戦争に向けての急傾斜を転げ落ちていく途中だった。こうして昼食を終えたあと、新聞の連載エッセーを書かなくてはいけない。さて、なにを書こうか。

言葉に託された気持ち

 なにかで目にしてはいた。どこかで聞いてはいた。しかし自分ではまず使うことのない言葉だ。使わないという意味で、まったく知らなかった言葉だ。年末の夕食の席でそれを友人が教えてくれた。プチプラという言葉だ。人々に使われ始めて一年以上は経過しているという。プチは、おそらく、小さい、という意味だ。小さい、あるいは、ほんのちょっとした。プラは、なにか。なにかの略されたかたちだろう、というところまでは見当がつく。では、なにの略なのか。

 プラはプライスだそうだ。プチなプライス。小さな値段、つまり安い、ということだ。ただ単に安いのではない。女性用の衣服に関して用いられる言葉だ。ブランド物の値段の張る服にくらべると格段に安いプチプラ服だが、そうは見えないでしょう、思いのほかお洒落でしょう、という言外の意味を持つ。高価にきまってるブランド物の服に対するアンチのようなものとして、プチプラ服が存在している。店頭に存在しているだけではなく、多くの女性たちの気持ちのなかにこそ、これは存在している。

 友人はついでにいくつかの言葉を教えてくれた。どれも片仮名で書くそうだ。ツクオキ、とはなにか。作り置きのおかず、だそうだ。ツクリオキ、から「リ」の字を取ると、ツクオキになり、たとえば料理本の題名を、作り置きおかずの本、とするよりも、ツクオキおかず、としたほうが売れるという。

 ヤセオカというのもあった。痩せたカタオカではなく、食べても痩せるおかず、だそうだ。痩せるおかずとは言わず、ヤセオカと言う。ほとんどの場合、音声だが、書き言葉でもヤセオカで通じる、と友人は言っていた。

 スマロは知ってますか。とその友人はなかば得意そうだった。スマロは最終的な省略形で、スマロスそしてスマップロス、と逆にたどっていくと、たとえば飼っていた猫や犬が亡くなった喪失感を意味するペットロスという言いかたの応用として、SMAPロスという言葉が成立する。

 マタハラやセンベロは僕だって知っている。コソレンを友人は知らなかった。誰にも見られないように気を配りながら、自分ひとりでこっそり練習することを、コソレンと言う。コソ練と書いてもいい。ゼンバラはどうか。最小単位の部品までいったんすべてを解体することを、全バラと言う。全バレは、すべてばれている、という意味になる。

 バツイチ。ドンビキ。アラフォー。拾い集めたならかなりの数になるのではないか。数年前からある言葉だと、すでにノスタルジーの対象だったりもする。ソフトバンクはソフバンと略して言わないと、相手に通じないこともあるそうだ。

 言葉だけを取り上げると、それは要するに言葉であり、文字のつらなりというかたちとその音だが、言葉には表側に意味があり、裏側には気持ちがはりついている。いまあげたような言葉の裏に、どのような気持ちが託されているのか。おなじひとつの世界の住民たちがせわしなく使う、仕分けの符丁としての言葉の裏に。

その子供はこうして義男となった

 まだ子供だった僕に母親が語ったことを、いまでもいくつか覚えている。そのうちのひとつは、僕の名前のなかにある、義という文字の由来だ。

 母親が大学生だった頃、勉強の一部分として、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵に触れたそうだ。何人もいる登場人物のなかで、母親がもっとも気に入り、したがってかなりのところまで感情を移入することが出来たのは、天河屋義平という人物だったという。天河屋義平は男でござんす、という台詞がかつては日本の人々のあいだに、広く知られていたようだ。男でござんす、という言いかたは、大人たちが口にしているのを、僕も子供の頃に何度か聞いた。いまではまったく聞かない。

 天河屋義平をたいそう好ましく思った母親は、自分が男の子供を持つようなことがあったら、その子供の名は義平にしよう、ときめたのだそうだ。僕はいまのようなヨシオではなく、ギヘイとなった可能性は充分にあった。片岡義平だ、悪くないではないか。母親はのちに結婚し、男の子供をもうけた。この僕だ。彼女の夫、つまり僕の父親は、ハワイの日系二世であり、日本語はほとんど出来ない。日系の人たちの日本語が、じっと聞いているとなんとなくわかる、という程度だ。その彼も、男の子供を望んでいた。その望みは、ひとまずかなえられた。自分の子供の名前として、彼はヨシオという音声を好んでいた。男の子供が出来たら、その子供はヨシオにしよう、と彼は思っていた。義平とヨシオのふたとおりが、選択肢として彼らふたりの前に提示された。父親は漢字をまるで理解しないから、音声がヨシオであるなら、どのような文字にするかは、母親による賢明な選択にまかせたという。選択するまでもなく、「ヨシ」は「義」にきまった。「オ」は、ごく一般的に言って、男、夫、雄の三とおりが、いまも昔も選択肢だ。母親は「男」を選んだ。選ぶまでもなく、当然のことだった。なぜなら、天河屋義平は、男でござんすなのだから。彼らのヨシオは、じつにすんなりと、そして多少はめでたく、こうして義男となった。

 しかし、問題は少しだけ残った。せっかくの義男なのに、父親がその名を口にするときには、日本語としてごく当たり前である、ヨシオ、という平らな、抑揚のない発音ではなく、ヨシーオ、と「シ」の音に強勢を置いた、抑揚のある発音のしかただった。自分の子供のヨシオがヨシーオにならざるを得ないほどに、僕の父親は日本語になじんでいなかった。

 そのおかげで、と言っていいかと思うが、義男である僕のなかには、ヨシオとヨシーオのふたとおりの義男がいることになった。いかにもアメリカふうに、ヨシーオと呼ばれることは最近では少なくなったが、たまにいきなりヨシーオと呼ばれると、いつも自分の奥のほうに隠れているもうひとりの自分を、名指しで呼ばれてしかも指さされたような状態となり、そのことには多少の緊張がともなう。そしてその緊張は、けっして悪いものでなく、僕は好んでいる。

寿司店でのやりとり

 握り寿司を食べるならここ、ときめた素晴らしい店が、電車に乗って座席にすわり、ぼうっと過ごして三十分、という距離にある。だから寿司ならその店へいく。つい先日も友人とふたりで白木のカウンターに向き合い、ならんですわった。話はいつもどおりとりとめないのだが、ときたまいいのがあるので、油断はできない。結婚してるのかと訊かれた女性が、私はそんなみじめな女に見えますか、と答える場面を小説のなかに書いてくれよ、と友人は言った。

 直接の会話にはしないほうがいいのではないか、と僕は答えた。結婚してるのですか、と訊ねられた彼女が、私はそんなみじめな女に見えますか、と答えたそうだ、という話にしたほうがいい。ふたりともその女性をよく知っている、という想定で。彼女に関する評価の一端として、ふたりの男性がそのような逸話を語り合っている、という場面だ。よほど素晴らしい女性でないことには、せっかくの逸話が充分には生きないよ、と僕は言った。そのよほど素晴らしい女性を創作するために、この逸話を頭の片隅に置いといてくれ、と友人は言った。

 なんの脈絡もないまま、純喫茶の話になった。酒を供しない、という意味での、純喫茶、という喫茶店だ。僕と友人が青年だった頃には、東京じゅういたるところに、純喫茶があった。その純喫茶の名前を思い出しては言っていく、という遊びに僕たちはひととき興じた。純喫茶、という漢字三つにもっともそれらしく釣り合う店名はなにか、しばらく議論したあと、それは片仮名のマイアミではないか、という結論にふたりは到達した。この結論に異論はなかった。純喫茶マイアミ。素晴らしい。あの時代のすべてを、この店名は体現している。

 いま東京にあるだろうか、という話になった。マイアミだけではいけない。喫茶マイアミでもよくない、あくまでも、純喫茶マイアミでなくては、などと僕たちは言って笑った。箱根湯本にあることがわかった。箱根湯本駅から歩いてすぐのところにあり、昭和の雰囲気を色濃く残した、良き喫茶店だという。ロマンスカーで往復二時間プラス小一時間。いきますか、と友人は言い、せっかくだから純喫茶マイアミで短編小説を作ろう、と僕は答えた。

 都内に二軒、荒川を越えて一軒、純喫茶マイアミがいまもあり、その三軒をめぐって展開される、あっと驚くような物語はどうか、と僕は提案した。あっとは驚かなくても、情緒のある話ならいいですよ、と友人は答えた。

 握り寿司の順番を僕は手帳に万年筆でメモした。三月なかばの寿司の店で、握りはどのように出てくるのか。小説のなかで必要になったとき、このメモが役に立つ。だからこそのメモだ。寿司の店のあと、すぐ近くの喫茶店に僕たちは入った。の昆布じめで始まった僕たちの握りは、僕のメモによれば、最後のかんぴょう巻きまでで、十五もあった。ずいぶん食べたね、と言いながら僕たちはブレンド・コーヒーを飲んだのだった。

『南日本新聞』2016年4月3日〜2017年3月19日


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2020年4月30日 07:00
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