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めだかと空と貨物列車

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 戦後すぐの十年ほどの期間を、幼児の段階を脱した子供として僕は過ごした。元気に遊んでいればそれでいい、という日々だった。瀬戸内の海と、それに向き合うおだやかな中国山脈の山裾が遊び場の中心だった。少しだけだが野もあった。爆撃されたまま、錆びた瓦礫の山となっている工場が、海沿いにたくさんあった。ある時期からはプールが遊び場に加わった。子供だから元気に遊んでいればそれでいいとは、成長していく日々を親が守り、必要なものすべてを提供してくれていた、という意味だ。そしてその意味のとおり、食べていくために働くというような労働とは、完全に無縁のままだった。

 自分たちが食べる物を手に入れるための作業は、採集と農耕の重なり合いのなかにあった、と言いきっていい。食べるものを商店で買うということを、親その他の保護者たちは、ほとんどしなかったのではないか。自分のところのものとして畑が広くあり、いろんな作物を作っていた。子供の僕も農作業を手伝った。まずたいていのことは体験している。普段は忘れているけれど、なにかきっかけがあれば、いまでもかなり詳しくいろんな作業の手順その他を僕は思い出すことが出来る。

 四季をとおして食べ物は豊富にあり、自分たちだけでは食べきれないものは、なにか他のものと交換するか、あるいは無償で人に提供していたと記憶している。港から少しだけ沖合に出たところに網を張って漁をする人が親戚にいた。この人の船にも僕は頻繁に乗り、漁としてはおそらくもっともおだやかなかたちの漁を、何度も体験した。捕れた魚を船の上で、生であるいは七輪で焼いて食べた。新鮮な魚の味や感触というものを、このおかげで僕はよく知っている。たくさん取れると魚市場へ持っていった。川とも池ともつかないような広がりでは、子供の僕にもぼらやうなぎがたやすく捕れた。鶏は三十羽ほどを僕が世話していた。たくさん生む卵は近くの商店へ持っていき、買ってもらっていた。

 食べるために働かなくとも食べ物は豊富にあるという、理想的な暮らしが、戦後すぐの頃には、まだ日本のいたるところに、ごく普通のこととしてあったのだ。その一例のなかを子供の僕は生きた。ただしこのような生活は、子供にとっても相当に忙しいものだった。たとえば三十羽も鶏がいると、小屋の掃除や修理だけでもたいへんだった。卵を集めて売りにいく。大好物のはこべを大量に採ってくる。焚き火で貝がらを焼き、金槌で細かく砕き、ぬかや穀物などの餌に混ぜる。一日に一回、少なくとも二、三時間は、庭いっぱいに鶏を放し飼いにした。

 漁をする親戚の人は海に蛸壺も沈めていた。いくつもの蛸壺を取りつけたロープを船へたぐり上げると、壺のなかには四つにひとつほどの割合で蛸が入っていた。蛸壺は素焼きだからすぐに割れる。それに蛸は神経質だということで、汚れている蛸壺には絶対に入らなかった。蛸壺をつけたロープを港へ持っていき、割れたのは取りはずし、残ったものはひとつずつなかをきれいに洗った。トラックに乗って蛸壺を買いにいった。山裾を少しだけ登ったところに、蛸壺を焼く人の作業場があった。積み上げられて西陽を浴びている蛸壺をそこで買う。港でロープに取りつけるのは僕の仕事だ。

 こんなふうに毎日はたいへんに忙しい。やることがたくさんある。だから学校へいってる暇はなく、学校は好きでもなかったから、特に小学校はほとんどいってない。毎日がたいへんに忙しいとは言っても、なにもしなくてもいい時間も豊富にあった。暇なら遊ぶのだが、遊びすらしなくてもいい純粋な時間のなかでは、なにもしていないような、それでいてなにかはしているという、不思議な状態で過ごした。なにかをぼうっと見ながら、そのぜんたいを五感で感じ取るように観察しているという、子供の特権のような状態で過ごす時間だ。

 池の縁でひとりめだかを見ていると、なんとも言いがたい奇妙な心理状態に、そのつどおちいった。小さな精密な生き物であるめだかが、水面のすぐ下にいる。水中の空間のとある一点に静止して浮いているめだかが、ある方向へふと素早く動いていき、ふたたびそこに停止する。いったいこれはなになのか、といくら自分に訊いても答えがないのは、たとえば空を眺めていてもおなじだった。山陽本線の土手のように高くなった線路の両側のスロープは、そこに寝そべって空を眺めるのに最適の傾斜だった。砕いた石を敷きつめたスロープだ。体を横たえてみると、思いのほか寝心地がいい。鉄錆と石炭それにコークスの匂いに、重い油のような匂いも重なり、夏には夏の、そして冬には冬の、野の匂いが濃厚にあった。

 自宅の二階の窓から飽かず眺める景色のなかを、畑と塩田、そしてその向こうの海を背景に、貨物列車が東に向けて頻繁に走った。限度いっぱいに貨車をつないだ長い編成の貨物列車を、蒸気機関車が牽引していた。無蓋の貨車だと積荷がよく見えた。石炭、そしてコンクリート製の電柱のようなパイル、それから砕いた石や砂利。有蓋の貨車はセメントを積んでいる、と大人が言っていた。まさに戦後の復興のための資材ばかりではないか。東へと向かう長い貨物列車の不思議さを、子供の僕はただ眺めていただけなのだが。

 このような子供の日々は、十二、三歳で終わりとなった。そしてそこから十年ほどの猶予期間をへて、二十五歳あたりから僕は仕事を始めた。働かざる者食うべからず、という悲惨な法則のなかに、僕はあっけなく取り込まれたのだ。自分のなかにある自分らしさを材料にして、さらなる自分らしさを追求してはそれを文章原稿という商品に仕上げ、金銭と交換するという仕事だ。自分らしさに特化することを仕事にして三十五年以上をへたいま、その自分という人がものすごく特殊な人になったことは、すでに書いたとおりだ。食うために働くということをしなくてもよかった日々に培われた自分は、笑うべきことに、食うために働く日々に書く文章の、もっとも基本的な素材となったようだ。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 仕事 少年時代 瀬戸内
2016年1月16日 06:00
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