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恋愛小説のむこう側

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 ごく普通のスタイルで小説を書こうとするとき、主人公という役をつとめてくれる女性と男性を、ひとりずつ作らなくてはいけない。このひと組の男女がなんらかの関係を作り、その関係を変化させ、変化は何重にも重なり、その重なり合いのなかをふたりでくぐり抜けることによって、ふたりにとって肯定的な意味のある変化を体験していく。

 一般的な小説はほとんどがこのような骨格を持っている。そして、男女の関係のあれやこれやについての比重が大きくなっている小説のすべてを総称して、恋愛小説と人々は呼んでいるようだ。僕自身は、なにを書こうともそれは小説であり、それ以下でもそれ以上でもないから、ことさらに恋愛小説というふうには考えてはいない。

 ひと組あるいは何組かの男女たちの関係の推移についての小説を書くにあたって、僕にとって絶対に欠かすことの出来ないひとつの条件は、登場する男女が常に完全に対等であるということだ。ふたりの関係に上下や優劣を持ちこむことが僕には出来ないし、そのような関係については想像力が働かない。そして基本的に対等ではない関係など、僕は書きたいとも思わない。

 だから僕が書く恋愛小説は、書こうとしたその時点から早くも、現実から大きく離脱し、それを後方に置き去りにしている。現実とはほとんどなんの関係もない架空の世界のなかで、男女の関係をめぐる抽象的なアイディアの提示をおこなっているだけ、といった趣の強い小説しか、いまのところ僕には書く興味はない。

 基本的に対等ではないひと組の男女が、なんらかの肯定的な関係を作り得るだろうか。作り得ない、と僕は思っている。現実の世界のなかではもちろんのこと、小説という架空の世界のなかでも、そのようなふたりはなにも創造し得ないはずだと、僕は思う。

 現実のなかで、男女たちは、いまだにまったく対等ではないようだ。これからも男女の上下関係は、時代の進展に合わせて複雑に屈折しつつ、継続されていきそうな気配が濃厚だ。対等ではなかったら恋愛は成立しない、と僕は思っている。その思いに対して自分自身が忠実であろうとするなら、現実では恋愛などあり得ない、という立場を取らざるを得ない。

 僕がひとりで観察したところによると、現実はいまたいへんに劣悪であるようだ。現実の質的な低下は戦慄すべき状況にあり、しかもそのようなひどい現実がそのまま、いまを生きている人々の心そのものになっているように、僕には思えてならない。

 たとえば人々が現実のなかで使っている言葉の、卑しめ貶めきったような様相は、現実の質的な劣悪さを端的に示すものだと僕は思う。言葉はそのまま心だろう。人が人であるかぎり、言葉は心だ。言葉はとりあえず現実に合わせてこんなものを使っていますが、恋愛のための心はどこか別のところにちゃんとあります、というような言い訳は成立しない。

 現実のなかでは、言葉はもはや捨てられたに等しい。言葉を捨てた人は心をも捨てたのであり、これは心だとまだ錯覚しているものは、じつは物でしかない。物は数値だろう。値段や性能、そして数量だ。心が数値になってしまった人たちの生活の営みは、ことごとくジャンルに陥る。

 すでに用意されているいくつものジャンルのなかに落ちこみつつも、そのことに気づかない。気づかないままに、身のまわりの卑近な現実を処方するための手がかりのひとつとして、たとえば恋愛小説をマニュアルのように読んでみようと試みる。するとそこには、現実をなぞった数多くのジャンル小説が待ちかまえているというしかけだ。

 登場するひと組の男女が、おたがいの存在の大前提として最初から完全に対等であると、ほんのちょっとしたことをきっかけにしてそのふたりは、質的にきわめて高くなり得る可能性をはらんだ好意関係、愛情関係、友情関係などのなかへ自在に入っていける。そしてそのような関係を支えるもっとも重要なものはなにかと言うと、それは性的な関係だ。ひと組の男女が対等であるとき、彼らのあいだには、彼らが望むままの好ましい関係が生じる。その好ましい何とおりもの関係のなかで、もっとも重要なのは性的な関係だ。

 男女ふたりが対等であるとき、彼らは性的な関係の複雑な深さを、なにに邪魔されることなく徹底してともに体験し、くぐり抜けていくことが出来る。これなくしては解放など絶対にあり得ないし、フィクションの内部においてすら、本当の意味においての物語的なカタルシスは実現しない。

 対等ではない男女の関係のもっともいけない部分は、対等ではないという事実が、ふたりの関係をどこまでいっても現実に縛り続けていっこうに解放しないことだ。特に性的な関係において、その事実は強力にマイナスの力を発揮する。

 対等ではないということは、いつまでたっても解放されないということだ。劣悪な現実に対しては厳しい批判と自省の距離を置き、その現実を密度薄くなぞっただけの小説には、見切りをつけたほうがいい。

 恋愛は対等な関係のなかにしか生まれない。そして恋愛関係の核心は、性的な関係だ。この性的な関係が、当事者ふたりの自由意思だけでどこまでも徹底されるとき、ふたりははじめて解放というもっとも重要な変化をくぐり抜ける。

 現実の関係としても、性的な関係はきわめて重要だ。性的な期待感に常に息がつまるような関係を、すくなくとも十数年かけて体験しつくしてはじめて、ひと組の男女はおたがいの解放についてまともな語り合いをはじめることが出来る。

初出:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年


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2015年12月17日 05:30
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