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小麦をどう食べるか

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 パスタは、小麦をどう食べるかという、人類にほぼ共通の普遍的な課題への、ひとまずの回答だ。小麦を栽培することを知ってからその小麦を粉にするまで、古代エジプトでは二百年ほどかかっていたことを、僕はどこかで読んでかなり驚いた。僕の記憶違いもありえるが、二十年を二百年と記憶してしまうようなことは、ないと思う。粉にしてからパスタを手にするまでも、おなじく遠く長い道のりを、人々は歩いたのだ。

 古代エジプトの男が少量の小麦を収穫する。茎から実った房を切り離し、妙に鋭いぎざぎざしたいがを取り去り、もみというやっかいな殻を破ると、美しい褐色に実って充実した、芸術的と言っていい仕上がりの、小さな小麦の粒がその男の掌に残る。粒のいくつかを彼は口に入れ、嚙んでみただろうか。相当に硬かったろう。奥歯で嚙み砕くと、いくつかの小さな破片となる。それをさらに嚙んでいくと、粉になると同時に唾液で練られていく。パスタまであと数歩のところまで、そんな自覚などまったくなしに、彼は到達しただろうか。自分の唾液で口のなかで練られた小麦の粗い粉を指先につまみ出し、それを彼は観察したに違いない。

 小麦をどう食べるかという課題が提示され、同時にそれに対する答えの模索が始まった瞬間というものが、古代エジプトだけではなく、世界のあちこちにあった。マルコ・ポーロが中国から持ちかえった麵や団子がイタリアのパスタの出発点になった、という説を聞いたことがある。いっそのことミケランジェロやダ・ヴィンチたちの仕業にしておけば、と言って笑っていたイタリア系のアメリカ人がかつて僕の友人にいた。小腹をへらしたミケランジェロが台所でスパゲッティを茹でる。なかなかいいではないか。

 小麦を粉にして水で練り、さて、そこからどうするか。ひとつのかたまりにしてみる。それを台の上で平らにのばす。ピッツアの生地やナンのようにすると、それはパスタの最右翼だろう。最左翼は、小さな粒々にしたクスクスだろうか。細長く切れば麵となる。最右翼と最左翼との中間に位置するのが、いろんな形状の麵類だ、と僕は感じる。スパゲッティはパスタのMORなのだ。標準的である、穏健である、中道的である、さらには、凡庸であるとすら言っていいような、ごく当然のこととして普通であるという本質を、スパゲッティは持っている。その本質が、調理によっていろんなふうに、表にあらわれる。スパゲッティ料理とは、こういうことなのではないか。

「ともにスパゲッティを食べた仲」という言葉がイタリアにはある、という話をイタリアの人からかつて聞かされた。「おなじ釜の飯」という日本語と、少なくとも言葉の上では、どことなく似ている。おたがいに胸のうちを照合させあうという通過儀式を無事にすませ、おたがいを対等に認めあう状態になった仲、というような意味だということだった。

 この場合のスパゲッティは、どちらかの自宅で作ったパスタ・ファト・イン・カーサ、つまり自家製のパスタだ。おなじその人から、白いスパゲッティの話も聞いた。茹でたスパゲッティにオリーヴ油を軽くまぶしただけのものを皿に取ると、それが白いスパゲッティだ。これにパルミジャーノ・レッジャーノをすりおろしてかける。僕の好みとしては大量にかけたい。さらにもうひとつ好みを言うなら、大量にかけたパルミジャーノの粉がほんのりとピンク色になるまでに、タバスコ・ペパー・ソースを振りかけ、よくかき混ぜたのちフォークに巻き取りたい。スパゲッティ料理ではこの白いスパゲッティがいちばんおいしい、とそのイタリアの男性は言っていた。僕も同感だ。

 少量の小麦を収穫した古代エジプトの男へと、僕の思いは戻っていく。硬い粒を嚙んで練ることをとおして、小麦を小麦粉にすることを、彼は思いついたのだろうか。作業台として使っている平らで大きな石の上に数粒の小麦を置き、石槌で叩いて砕き、他の道具を使ってそれをさらに細かくしていき、ついには粉となったものを、彼は指先でつまんで口に入れ、感触をさまざまに確かめ、最後には飲みこんだのだろうか。

 幼い頃に体験した石臼を僕は思い出す。東京に生まれた僕はただの東京の坊やとして育ったが、四歳の春先に瀬戸内へ移り、そこで十年近くを過ごした。ただの東京の坊やは、瀬戸内育ちの少年としての側面を、強く秘めている。はじめに住んだ祖父の大きな家には、ひょっとしたら明治から続く、さまざまな道具があった。農作業を中心にした道具だ。そのなかに、あって当然の日常の道具として、石臼があった。日本昔話の絵本を開くとそこにある、まさに絵に描いたような石臼の、まごうかたなき現物だった。

 直径が僕の記憶では四十センチほど、そして厚みが二十センチくらいの、円形の石ふたつによって、その石臼は成り立っていた。下になる石にはまんなかに垂直に丸い穴があけてあり、直径三センチほどの丸い棒が、しっかりはまりこんで突き出ていた。上になる石の裏側、つまり下の石と接する面のまんなかには、下の石の中央から突き出ている棒を受けるための、穴があいていた。下の石の表面、そして上の石の裏面には、中心から外周に向けて、微妙に斜めに、そしておなじく微妙きわまりない形状に、何本かの溝が彫ってあった。

 このふたつの石を重ね、おたがいにはまりこんでいる棒を中心の軸として、人の手で回転させる。上の石の表面の、外周から数センチだけ内側に入ったところに、木の棒が把手として埋めこんであった。この棒を握り、下の石の上で上の石をぐるぐると回転させる。上の石の中心に近いところに、裏面まで貫通する丸い穴が一本、確か微妙に斜めに、あいていた。この穴に小麦の粒を少しずつ落としこみながら、木の把手を握って上の石を回転させる。回転している上の石と、重く静止してそれを受けとめている下の石とのあいだに、穴から落ちてきた小麦の粒は引きこまれていき、細かく砕かれつつ、重なりあうふたつの石の中心近くから、斜めに刻まれた何本もの溝を、外周に向けて少しずつ移動しながら、細かな粉へとその姿を変えていく。そして最後には、ふたつの石のあいだから、石臼の外へと落ちていく。石臼を回転させる速度と、小麦の粒を穴に落としていく量との均衡が、石臼の縁から少しずつ落ちてくる小麦粉となっていく様子は、概念であると同時に現実でもある石臼が生み出す魔法のようだった。

 こうして粉にした小麦を、幼い僕はどのようにして食べたか。団子はあったと思う。串に刺す団子と同時に、なんらかの汁に入れる団子もあったはずだ。水で練って平らにのばし、誰かが不器用に切って太いうどんとすれば、出し汁の出来ばえによっては、美味なものとなったろう。

 祖父はいろんな場所に田畑を持っていた。合計すると相当な面積だったのではないか。何人も人を使って田畑を運営していたし、自分でも農作業を好んで巧みにこなした。子供の僕は学校へはめったにいかず、祖父の農作業を中心にいろんな手伝いをしては、毎日を忙しく過ごした。農作業に関しては、水田稲作以外のたいていのことを、僕は十年近くにわたって体験している。

 小麦は種を蒔く前の畑作りから手伝った。種を蒔いておくと、あるとき、濃い色の土の中から緑色の芽が小さく出ているのを見るのは、自分と宇宙とのつながりを、幼い直感のぜんたいで感じる体験だった。寒い冬の日に、広い畑で僕ひとりだけ、一日じゅう麦踏みをしたのは、冬の思い出のひとつだ。子供の膝の高さを越えて成長している小麦の、緑色の茎の根に近いあたりを、文字どおり両足で踏み倒すようにしては、畝ごとにその端から端まで、横向きに歩いていく作業を繰り返すのだ。子供の体重は麦を踏む人の重さにちょうどいい、ということだった。

 収穫の日は朝から総出だった。何人もの人たちが小麦畑のなかへ散っていき、鎌で刈り取るのだ。僕は鎌の使いかたに習熟した。左手で茎をひとつかみとらえ、その手の下を鎌で引き掻くようにして、茎を切り離す。いいかげんな動作やうかつな身のこなしは怪我につながった。何人もの人たちがいっせいに刈り取った小麦は、束ねて何日か天日に干したと記憶している。それが終わると脱穀の作業だ。

 何枚ものむしろをへりで少しずつ重ねあわせながら、畑の上に広げておく。そのまんなかに足踏み式の脱穀機を置く。脱穀の作業は交代でおこなった。片足で足踏み板を、限度いっぱいに、強く踏み下ろす。フライホイールが回転し、踏み下げた板はもとの位置へ戻ってくる。そこをふたたび踏み下げる。繰り返されるこの動きは、脱穀機の回転ドラムに連動している。足踏みのテンポに合わせながら、かなりの速度で回転するドラムに、干した小麦の束の先についている房を、まんべんなく触れさせる。Vの字を逆さにしたような形の金属の部品が、ドラムにはいくつもついている。近づけられた小麦の束から、この逆Vの字の部分が、房を引きちぎっては、むしろの上へ落としていく。

 ひとしきり脱穀してむしろの上に房がたまると、脱穀機を止めて房をかき集める。集めた房は別の場所に広げたむしろに、均等にばらまく。ヌンチャクを大きくしたような道具で、広げてある房をまんべんなく何度も叩いていく。ひとつの房に何本もついている毬が取れ、小麦の粒を包んでいる殼も、やがて破られては取れていく。作業は確かこんなふうに進行したと記憶しているが、違っていてもそれほど大きくはずれてはいないだろう。

 取れた毬や破られた殻などすべてを含めて、適量の小麦をの上に載せ、両手で箕を上下にあおるように何度も動かしては、重みのある小麦の粒と、それにくらべれば軽い毬や殻を、分離していく。こうして選り分けられた小麦を、最後には袋に入れる。実って収穫した小麦の粒で、いくつもの袋が充実してふくらむ。

 自分たちの分として分けてもらったこの小麦を、石臼を使って粉にするのは僕の仕事だった。袋いっぱいにあった小麦の粒は、石臼を経由してすべて粉となり、いくつかの缶をその縁まで満たす。その様子を眺めつつ、粉のなかに指を差しこんでその感触を確かめてみたりした時間は、幼い僕に対して根源的なところで、いつまでも消えることのない影響を、かならずやあたえたはずだ。

 どんな内容の、やがてどのように作用する影響なのか、ときどき考えてみるのだが、確かなことはいまもってわからない。一定の時間内で一定の作業を、定められたとおりにこなせば、目の前に具体的な成果があらわれる、というようなことの象徴的な学習だった、などという理解は後知恵の最たるものだろうか。

底本:『ナポリへの道』東京書籍 2008年


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2020年9月2日 07:00
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