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いかに生きたら、もっともかっこういいか

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 いまこれから、ひょっとしたら貴兄にも読んでいただけるかもしれないこの短い文章のために、男性はどのように生きたらかっこういいだろうか、というテーマを僕はもらってしまった。たいへんに書きにくいテーマだし、僕にとっては不得意なテーマでもあるのだが、とにかく、僕にもとっさに書き得ることを、とりあえず書いてみようと思う。

 男性はいかに生きたら、もっともかっこういいか。かっこう良さのなかから、外見にかかわるすべてを、いまは除外して考えていきたいと、まず僕は思う。外見、つまり、二枚目ぶり、生活様式のきらびやかさ、身につけるものの高級品ぶりなどを除外した上で、考えていきたい。

 そういった外観上のことがらは、箇条書きにしてあげていくだけでも際限がないと僕は思うからだし、外側の問題をいくらあげつらってみても、かっこう良さというものの普遍的な状態にまで世界は広がってはいかないはずだと、僕は思う。

 男性の生きかたのかっこう良さを、内面の問題として考えたい。内面とはつまり、その人がなにについてなにを考え、それにもとづいてどこでどのようなことをして来たか、というような問題だ。

 漠然としたことを書いていても、考えるためのきっかけにはなりにくいかもしれないと僕は思うから、いっきょに具体的なアプローチを試みるとして、たとえば天才はたいへんにかっこういいと僕は思う。

 エディスンやアインシュタインは、素晴らしくかっこういいと僕は子供の頃から思って来た。いまでもそう思っている。ひとりの人のありかたとして、彼らのような天才の生きかたは、内面的なかっこうよさのひとつの頂点だと僕は思う。

 天才とは99・9パーセントの努力である、と言ったのはエディスンだっただろうか。もっともかっこういいと僕が思う天才たちは、じつは、すさまじいまでの量と密度の努力を、寝ても覚めても、自分にとってもっとも大事な関心事にむけて、注ぎこみ続けた人たちだ。毎日、一生懸命に会社で働いているくらいでは、とうていかっこう良くはなれないのだということが、ここで早々とわかってしまう。

 もっともかっこういい生きかたをしているのは天才たちだと言ってしまうと、問題への入口をたいへんにせばめてしまう効果を持つかもしれない。世のなかの大部分の人たちは、自分は天才ではないとすでに早くからあきらめているはずだ。

 なにでもいいからなにかひとつ、自分にとってたいへんに重要な関心事をひとつ見つけ出す。かっこう良さのスタートは、まずこのへんにありそうだ。いくら天才でも、最重要な関心事がどこにもなければ、能力を発揮することは出来ないのだから。

 自分にとってもっとも重要な関心事をひとつ見つけるとは、ほかのほとんどすべてを見つけないということだ。天才のかっこう良さは、生きかたの大きな偏りとしてとらえることが可能だ。幅広く、しかしきわめて浅く、なんでも引き受けるという普通の人たちのありかたからは遠くはずれたところに、天才のかっこう良さの立脚点がある。

 そしてエディスンも言ったとおり、天才はすさまじい努力が、自発的になんの苦もなしに出来てしまう。ほんのちょっとの努力のためにすら、そのための努力を必要としてしまう普通の人たちは、ここにおいてもかっこう良さからさらに遠のいてしまう。

 普通の人たちから見るとおそろしいまでに偏った生きかたのなかへ、自分がなし得るクリエイティヴな努力のすべてを注ぎこみとおした天才は、そのことにより、それまで誰も考えることのなかったなにかひとつの新しいことを生み出し、そのことをとおして、きわめて密度の高い社会性を獲得する。普通一般の世界からは大きくはずれたところで生きてきた結果として、その社会にとってかけがえのない貢献を彼らはしてしまう。しかもその貢献は、ほかの人では代替がきかない。

 男性の生きかたをかっこういいものにするには、まずどこかへむけて大きく偏ることだ。そしてその偏りを、自分が満足いくようにまっとうしようと思うなら、頭のなかにある時空間はものすごく複雑に重層したものとならざるを得ない。高純度にクリエイティヴなかたちで、その人にしか出来ないようなわがままを、一生をかけてつらぬきとおした人。そしてその結果として、たいへんに高い社会性をひとつ獲得した人。天才あるいは天才にごく近い人たちの生きかたは、簡単に言うならこんなふうなことなのだと僕は思う。なんとかっこういい生きかただろうかと、彼らについて考えるたびに、僕は思いをあらたにしてしまう。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年


1991年 『アール・グレイから始まる日』 男性
2016年1月12日 05:34
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