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交差点の青信号を待ちながら

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 交差点の横断歩道の信号は赤だった。青に変わるのを待つために僕は立ちどまった。歩くために脚を動かしていたことによって、僕の体内にはエネルギーが撹拌されていた。急に立ちどまったからそのエネルギーは行き場を失い、頭へと上がった。だから僕の頭は多少とも余計に作動し、「辞書はコンサイス」というフレーズが頭のなかに浮かび、頭の中でそれは大きく広がった。

 交差点へ到達するほんの数分前、「辞書はコンサイス」というフレーズを僕は見た。三省堂の建物の上、塔屋のようになった部分に取りつけてある大きな広告のひとつが、「辞書はコンサイス」と言っている。再開発という不幸によって巨大なビルディングの敷地と変わる、神保町南部地区というところをすずらん通りに向かって歩くと、この広告を高くかかげた三省堂の建物を正面に見るまっすぐな道を歩くこともある。数分前、僕はその道を歩いた。

「辞書はコンサイス」というフレーズは、一見じつになにげない、無理や作為をまったく感じさせない広告コピーだ。おなじ方針のもの、たとえばキャラメルは森永、カステラは文明堂、蚊取り線香はキンチョーなど、探せばたくさんありそうだ。「辞書はコンサイス」のひと言は、神保町を可能なかぎり凝縮した果てに残る、結晶のようなものではないだろうか。

「辞書」という、教養のための漢字言葉。「は」という、たおやかにすべてをつなぐ平仮名。そして「コンサイス」という、南蛮渡来の片仮名言葉。近代以降の日本の宿命が、このひと言のなかにすべてあるではないか、そしていまの僕は、「辞書はコンサイス」という見事なひと言の意味がわからない人たちが多いのではないかと思う。特に若い人たちのなかに。

 コンサイスとは、簡略でありつつ網羅的な、という意味の英語の形容詞だ。日本語としては、小型の英和辞典の総称だと言っていい。三省堂が出版している英和辞典をはじめとする、いくつかの外国語の小型の辞書をひとくくりにする、商標のような言葉がコンサイスだ。人々の日常においてはここから意味が拡大され、小型の英和その他の外国語の辞典という意味に落ち着いている。ついでに、三省堂という社名の意味は、若年も年配もおしなべて、じつに多くの人たちが知らないはずだ。普通の人は一日に三度は反省しろという、孔子の言葉から作った社名だ。

 交差点の信号は青に変わった。待っていた人たちとともに、僕は横断歩道を渡っていった。こうしていまの神保町を歩いていると、外国などみじんも感じない。しかし神保町の歴史のなかには、外国は確実に存在する。いまだって洋服、洋装、洋品、洋食、洋書、洋風、洋楽など、脱亜入欧の歴史は洋という字のなかに、充分に生きている。

 都会的な場所には洋の字のつくものすべてが揃っている。洋服と洋食とはすでに日本になじみきり、日本のものになりきっているから、どこから洋でどこからはそうでないのか、もはや明確ではない。しかし、いまだにまさしく洋のままであり続けているものもあるのだから、そのことに僕はふと驚いたりする。たとえば洋書は、いまでも洋書なのだ。『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラー・リストで第一位の本が日本に輸入されるとき、様子を見てひとまず五冊、というような現状があるのを知るとき、洋書はまだ依然としてはるかなる南蛮からの渡来物なのだ、と僕は思う。

 神保町には洋品店が多かったような気がする。いまは少なくなった。あるいは、目につきにくいか、見落としているのか。洋食は中華にロシア、そしてカレーライス。洋画の上映される映画館が、かつては何軒もあった、いまは一軒もない。洋書を専門に扱う古書店が何軒かある。中古レコード店の在庫の、およそ五分の一は輸入盤ではないか。

 こうした洋の世界に、神保町に固有の性格が重なる。教養、文化、日本の外への視点、といった性格だ。そしてこの性格は、神保町の周辺にいくつもあった学校を中心にして、形成されたという。数多かったはずの下宿に学生たちが住む。昔は学校は勉学を意味したから、学校と学生があれば、そこには当然のこととして書店がたくさん営まれた。大正デモクラシーという時代背景を得て、神保町は勉学と重なった洋の町として、発展していくことになった。

「発展していくことになった」などと曖昧な言いかたをしたけれど、発展の具体的な順番や様相は、どんなふうだったのだろうか。学校がいくつかできる。周辺に学生がたくさん住む。書店が何軒かに増える。食堂のような店も営まれるだろう。しかしそれだけで町になるとは思えない。その一帯をつらぬく、なにか心棒のようなものが必要なのではないか。その心棒は電車だったか。電車とは、この場合は、ずっとあとで都電となる、路面電車だ。

 新聞社が提供したという一枚の写真を、僕は雑誌のページに見る。「大正初期。神田三崎町から神保町を望む」という説明がつけてある。縦置きの画面の右上から左下へ、道路が一本つらぬいている。「神保町を望む」とは、この画面のなかの遠方、つまり道路の右上の、ぼやけたようなかすんだようなあたりが神保町だ、ということだ。三崎町から神保町へいたる道路。いまの水道橋駅から神保町の交差点へとのびる道だろう。あの道は、大正の初期には、こんなだったのか。

 この写真の光景が大正のもっとも初期、つまり明治から大正になった1912年のものだと仮定して、その頃の東京あるいは日本がどんな状態だったのか、残念ながら僕にはまったくわからない。だから日本史年表を見る。「新橋・下関間に展望車つき特急列車運転開始」という項目が、唯一なんとかわかる項目だ。日本に近いところでの出来事としては、「中華民国成立、南京を首都とする」という項目がある。

 おなじ写真を僕はさらに観察する。道路のまんなかに往復二本の線路がある。路面電車のものだ。その線路のおなじ側、おそらく三崎町へ向かう側に、間隔を置いて電車が四両、見えている。おなじ始発点からおなじ終点に向かう電車ではなく、ある部分はおなじ線路を走る、それぞれ別系統の電車ではないか。知らないとはじつにやっかいなことだ。いちいち推測しなくてはいけない。しかもその推測はかならずしも当たっているわけではない。

 三崎町という名前から、僕は反射的にいまの水道橋駅あたりを思ってしまうが、これこそ知らない人の間違いである可能性は大きい。三崎町は、ひょっとしたら、かつては専修大学前と呼ばれていた、いまは専大前という交差点近辺ではないか。神保町からの距離はおなじようなものだ。その短い距離のなかに、別系統の電車が四両、続いて走っている。これは都会の出来事ではないか。

 線路の両側に、それぞれの方向への車道がある。走っている自動車がところどころに見えている。歩道に寄っているのは停止している自動車だろう。歩道はいまの歩道とほぼおなじ幅だ。電柱その他の柱が林立している。人がひとりふたりと歩いている。歩道に面して建物がびっしりとならんでいる。いまもまだ少しは残っている古い二階建ての建物とおなじような建物、そして三階建て以上のひとまずビルディングと呼んでいいような建物とが、およそ半々だ。大正の初め、神保町の周辺はすでに充分に都会だった。

 学校が出来始めたのは明治十年代からだという。書店が集まったのは、まず小川町や淡路町だった。そして明治三十年代なかばには、電車が走るようになった。いまの靖国通りだ。町は書店街の雰囲気をすでに獲得していたが、大正二年二月の大火で周辺はほとんど焼失したそうだ。復興にあたって道路は広げられ、それまで畳敷きだった書店は土間になり、神保町から駿河台下にかけての道路の南側に、書店が集まり始めた。

 神保町の形成は大正デモクラシーと重なっていることを、いまようやく僕は知った。この時代には社会のさまざまな領域で近代化への模索が進んだ。と同時に、戦争への傾斜も始まっていった。昭和七年、すずらん通りの夜景の写真を、僕は観察する。すずらん通りの入口だ。駿河台下の入口だろう。夜の都会の賑わいとしては、昭和七年のほうが現在をはるかにしのいでいるように見える。

 昭和十六年、ある日の夜、神保町古書街をスナップした写真も、僕は見る。古書街は整然としていて、なおかつ客が多く賑やかだ。日本軍がマレー半島に上陸し、ハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカとイギリスに対して宣戦布告した年だ。大正十二年の関東大震災で、それまで作られてきた東京は、いったん叩きつぶされた。そこから復興した東京は、昭和の十四年そして十五年あたりで、最高到達点に達したのではなかったか。そしてそこからいっきに、戦争によって、すべてがもう一度、壊滅することとなった。

 大正デモクラシーが実現可能にした、日本で唯一の教養の町、それが神保町だ。戦後の日本に民主主義が少しでも引き継がれたとするなら、それがいまの神保町をかろうじて支えている。僕が二十代の前半の頃、すずらん通りの西寄りに、中華料理の店が何軒かあった。学生相手の、としばしば言われるような、ラーメンや餃子の店ではなく、楼や樓といった文字が店名のおしまいにある、ひとかどの構えというものを持った店だった。その昔、ほんの少しだけ誇張して言うなら、すずらん通りは中華街だったという事実を、これもようやく最近になって僕は知った。日清戦争のあと、中国から東京へ留学する学生が、たいへんに増えた。明治三十八年には一万人を越えたという。日本と中国との関係は悪化するいっぽうだったが、中国からの留学は昭和十年頃まで続いたそうだ。

 古書店にとっては中国という視界が開け、書店の数は増え、下宿も食べ物屋も多くなり、神保町とその周辺は、学生にとってよりいっそう住みやすい地域となった。二十代前半の僕が見たすずらん通りの中華料理の店は、この時代の最後の名残りだった。かつては料理を食べさせるだけではなく、学生たちのさまざまな集会や会合の場所でもあったという。

 神保町と言えば古書の町だ。そしてその神保町は教養の町でもある。教養と古書はどう結びつくのか。新刊の本だけでは、教養などとうてい構築できないからだ。新刊の本の多くは、いまの人によっていまの関心事が書かれている。いまだけがそこにある。真の教養は根が深い。根は過去のなかに向けてのびる。だから教養のためには、過去という膨大な蓄積が、倉庫のように存在しなければならない。古書はそのような過去であり、古書店街はそのような意味での書庫なのだ。

 神保町へ来れば古書ならなんでもある、と多くの人はぼんやりと思っている。これはほぼ完全な間違いだ。古書街ぜんたいを一本の太いケーブルだとすると、そのケーブルの内部は、何本もの細い芯線に分かれている。芯線の一本一本が、高度な専門領域にあたる。古書街は一般に思われているよりもはるかに専門化されている。古書街が真に機能するのは専門を持つ人たちに対してだ。

 長く持ち続けた専門をいまも持っている人が、その領域を扱う古書店へ来ると、探しているものが、あるいはまったく思いがけないものが、見つかるかもしれない。探しているものがなければ店主に探してもらう。店主は探しかたを心得ている。待っていればやがて、探していた本は手に入るだろう。

 なんら専門を持たない人は、店先の均一台、路地に面した壁の棚、これと言って専門を持たない店の棚のあちこち、といったあたりを相手にするほかない。僕も専門を持っていない。興味、関心、趣味といった次元で、昔の本や古い雑誌を楽しんでいるだけだ。専門を持たないかわりに、僕個人の好みや傾向はたいそう特殊化されていて、それを満足させる店はじつは神保町にはない、という状態だ。あちこちの会場で開催されている古書の展示即売会、百貨店の古書展、郊外や地方都市の店、カタログなどが、僕にとってはもっとも収穫の多い場所だ。専門を持っていないと、古書を探す場所は大きく広がり、あちこちへと散らばる。

 古書の街の店にはあらゆる領域の古書が、いついってもすべて系統立てて揃っている、というわけではない。その反対だ。基本的には一点ものの世界だ、と僕は感じる。洋書だと、この感じは確かな現実である、と言っていい。一点ものはただひとりの客を待っている、という法則は成立する。一点ものの古書とは、長いあいだ誰かの蔵書だったものだ。それがなんらかの事情で古書として放出される。洋書の古書がその価値をできる限りまっとうしようと思うなら、神保町へ来るほかない。だからそれは、何人かの業者や古書市を中継にして、神保町へとやって来る。

 僕が売った洋書がそのようにして神保町の店にならび、ずっと探していた人によって熱狂的に買われていったという実例を、僕は何度か体験している。定期的に神保町を歩く時間を積み重ねていると、そのことに対するご褒美さながらに、切望してやまなかった一冊のとんでもない本と、めぐり逢う。

底本:『音楽を聴く2──映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』(第三部 この都電はジン・ボ・チョへ行きますか) 東京書籍 2001年


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2016年2月23日 05:30
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