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通訳は位置についたか

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 早くも十年は前のことになるかと思うが、G5会議の様子が報道されるのを、僕はアメリカのTVニュースで見た。ヨーロッパのどこかでおこなわれた、確かG5の会議だった。荘厳な建物のなかの、もっとも広くて威厳に満ちた部屋に、G5である五人の男たちが入っていくところが、TVの画面に映し出された。

 彼らが部屋に入ると、その部屋の天井に取り付けてあるカメラへと、映像は切り替わった。大きなテーブルを囲んでいるそれぞれの椅子に向けて、男たちは歩いた。彼らが六人であることに、僕は気づいた。六人くらいの数なら、画面をひと目見て、あ、五人であるはずなのに六人いる、とすぐにわかる。

 六人は所定の位置の椅子にすわった。ただし六人めの人は、五人めの男性の椅子から、少しだけ下がった位置にある椅子に、腰を下ろした。映像はそこまでだった。そこから先は、部屋のなかにいるのはG5の五人だけであり、それ以外の人が同席するのもTVカメラによる撮影も、許されてはいなかった。

 五人めの男性は日本から出席した日本の蔵相であり、六人めの人は彼の通訳であることを、僕は理解した。日本が世界と接するときに使わざるを得ない、英語というインタフェイスの現状の、これはきわめて端的な一例だ。僕がこの一例をTVニュースで見てから十年後のいま、事態は大きく改善されただろうか。

 外国を相手に英語で、理路整然、丁々発止、なおかつ洗練の深みをたたえてユーモアを失わず、請われてその国の議会で演説をすればスタンディング・オヴェイションを受ける、というような政治家がいまの日本にいるだろうか。あの人は英語がうまい、英語が得意、と言われている政治家がアメリカへいき、通訳なしの自前の英語でことを処して帰国すると、あの程度の英語なら通訳をつけたほうがいい、と日本の週刊誌に書かれてしまう。

 G5で通訳をつけた日本の蔵相が、会議でなにをなし得たか。テーブルを囲んでいるG5のうちの四人は、自由な議論を激しく展開させる。真の意図をひた隠しにしたニュアンスの迷路のなかを、四人の鍛え抜かれた言葉が縦横に飛び交う。このような四人の言葉を、ひとりの通訳が、その場の即興で、なおかつ可能なかぎり的確に、まず日本語に訳さなくてはいけない。

 通訳はどこまで訳せるか。専門家なのだから百パーセント訳せるはずだと思う人は、言葉とはなにであるかわかっていない。七十パーセントは訳せるか。とんでもない。かなりおまけして五十パーセント、現実にはそれ以下となるはずだ。日本の蔵相が発する言葉も、四十パーセントくらいが英語になれば、それはたいへんな上出来だ。

 日本の蔵相が日本語で喋っているあいだ、他の四人にとっては無駄な時間が流れる。しかし、無駄を無駄のままに浪費するような人たちではない。かならず逆手に取られる。逆手に取られるとは、要するに日本は不利になる、ということだ。最後のまとめの段階では、日本抜きの四人でことは決まる、と思ったほうがいい。それに、テーブルを囲んだフォーマルな会議だけが、言葉の場ではない。インフォーマルな時と場での、絶妙の語法とタイミングとで交わされる言葉のなかでこそ、四人の合意は出来ていくと言っていい。

 G5の会議に通訳を連れて出席した日本の蔵相。いまはとっくに昔語りでしかない、遠い遠い時代の小さな出来事のように思える。しかしこの一例は、現在という現実のなかでも、おそらくはいまもって、すべての例なのだ。そしてこれからもかなりの長きにわたって、こうであり続けるに違いない。これは戦慄すべきことだ、と僕は思う。

 世界とのインタフェイスとしての英語に、日本人がどのようにかかわってきたか、そのかかわりかたの歴史のなかに、日本そのものを見ることは充分に可能だ。戦前の日本にとっては、日本の外にある世界とのあいだには、時間的にも空間的にも、現在とは比較にならないほどに距離があった。その距離ゆえに、日本の人たちは外の世界に関して、のんびりしていることが出来た。インタフェイスはごく小さなもので間に合った。G5の会議に通訳を連れて出席した日本の蔵相は、そのような時代にこそふさわしい。

 戦後になったとたん、いっきに距離が縮まった。しかもその近い距離で相手にするのは、昨日までの戦争相手であるアメリカだった。このとき日本人は本当に困ったのだ、と僕は思う。どうしていいのかまったくわからない、不安な気持ちに満ちた不安定な状態に、日本人は陥った。そのような状態にある人々に向けて、なにかのときにはこれさえあればなんとかなりますよと差し出されたのが、次の項で書く『日米会話手帳』という小冊子だった。

 戦後の日本では経済が復興していった。経済が復興するとは、安定を増していく社会のなかに、製造業を中心にして経済の土台が出来ていくことを意味する。日本国内、という世界が急速に成立していった。日本人にとっての、世界のすべてとしての日本国内だ。この急速さは、そのまま経済復興の強さでもあった。復興がいかに想像を絶した速度であったかを、当時の映像記録でいま確認することが出来る。

 一九四五年、敗戦した日本を占領するために、アメリカ軍がやってきた。総司令官のダグラス・マッカーサーが、厚木の飛行場に降り立った。このときの一連の様子をとらえた、部分的にはカラーでもある貴重なフィルム映像が、ヴィデオになって市販されている。司令官とその一行は、臨時の司令部が設置された横浜へ向かった。厚木と横浜を結ぶ当時の道路とその周辺の光景、そしてときたま画面に登場する日本の人たちは、いまの視点で言うなら、これはいったいどこの第三世界か、というようなありさまだ。

 それからわずか五年。解任されて日本を去るダグラス・マッカーサーを見送る、沿道の日本の人たちの映像は豊富に残っている。フィルムにとらえられた当時の街なみは、早くもこぎれいであり、人々の服装はみなこざっぱりとしていて、豊かさすら感じさせる。人々のありかたには明らかに余裕があり、顔つきつまり表情は、五年前とはまるで異なる。

 自分たちにとっては日本国内がすべてであるという世界認識のしかたが、この時代にはすでに出来ていたと僕は思う。この頃に忽然とあらわれた認識のしかたではなく、おそらくは日本にとっての伝統の、戦後における強化された展開であったのだろう。国内がすべてであるとは、あらゆることが日本語で間に合うということだ。英語は学校での科目のひとつ、そして試験の点数へと、急速に限定され固定されていった。

 国内という世界が急速に出来ていくのと並行して、日本は外の世界との関係を多く作ることにもなった。どのような関係だったか。国内で製品を作るための、原材料を買う関係。そして作った製品を売りさばいていくための関係。要するに商談の関係だ。言葉はある程度までのもので充分だ。製品を作る前の段階では、設計図や仕様書で話はつうじる。製品を作ったあとでは、良く出来た安い製品を見せれば、すべては一目瞭然だ。商談がおたがいの都合に合うか合わないかを判断するためには、数字をつきあわせればそれでいい。

 戦後の日本が作りそして販売したほどには、日本のほかに作る国も販売する国もなかった。世界には落差が存在した。日本が作る製品はその落差が吸収してくれた。理論としての資本主義ではなく、現場における営みとしての資本主義は、利潤の発生源である落差を求めて、どこまでも突進していく。いまはどこに向けて突進しているのか。いまの落差はどこにあるのか。自分が作った製品を売ってその代金を支払ってもらうというような、実体のともなった貿易で動くマネーはぜんたいのほんの少しであり、それ以外はすべて投機で動いているという恐るべき世界が、いまの現場だ。

 この資本主義の現場に日本も加わっているだけではなく、日本の内部そのものも、このような現場のひとつになっている。日本の近代の歴史は、資本主義の現場との関係の歴史だ。英語で話をしなくてはいけない世界との距離が、加速度的に縮まっていった歴史だ。距離が消えていく歴史、あるいは、英語世界が日本語世界に重なっていく歴史、と言ってもいい。

 英語世界は日本語世界のなかへ、すでに巨大に入ってきている。日本が作り出す落差を求めて、日本のなかで英語で運営されている資本主義の現場がある。日本は侵略されている、ふたたび占領されようとしている、といった言いかたすらあるほどだ。日本のなかにあるこの世界は、一般的にはまだよく見えていない。英語とはなんの関係もないままでいることの出来る、日本人にとっての日本国内という世界の、大きさのおかげだ。

 日本のなかに英語世界が入ってくると、英語世界のやりかたも同時に入ってくる。時間的にも空間的にも、英語世界と日本語世界とのあいだに、距離は存在しなくなる。ただし、英語世界と日本語世界とのあいだには、運営のされかたの違いという落差が存在する。このような種類の落差から、現場の資本主義は利潤を上げようとしている。状況は激変しつつある。日本語世界はこの激変に正しく対応出来るのかどうか。

底本:『日本語で生きるとは』筑摩書房 1999年

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1999年 『日本語で生きるとは』 戦後 日本 日本語 社会 英語 言葉
2016年5月28日 05:30
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