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いかなる理由でナポリタンなのか

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 スパゲッティ、と片仮名で書いた一語がころんと目の前にある状態は、かなりのところまで不思議だ。目にした一瞬、読めはするけれど、それがなにを意味するのか、わからない。いつもの駅なかや駅そばの、あの店この店で食べる、お待たせしましたとテーブルに運ばれてくる、ボンゴレやカルボナーラなどの、ひとまずは出来上がった料理の具体例が、スパゲッティという一語を見たり聞いたりするその瞬間に頭のなかに浮かぶようなら、スパゲッティという言葉はその人にとってもはや自分と分かちがたく緊密に一体化した、母国語としての日本語そのものだ。

 いつもいくこの店、いったことのあるあの店その店などで、客としてテーブルについて注文し、やがて出来てきたのでさあ食べるぞという、日常の具体的な状況、つまり場に、他のほとんどの日本語の言葉がそうであるように、スパゲッティという言葉もまた、密着している。スパゲッティという言葉で反射的に思い浮かぶのは、店あるいは自宅などの具体的な場で自分が食べる、あれやこれやのスパゲッティ料理という、あくまでも具体的な物体であるなら、スパゲッティという言葉はその人の日本語になりきっていると言っていい。英語やイタリア語あるいはフランス語などで、スパゲッティと一語だけ言えば、あるいは書けば、それが言いあらわすのは、スパゲッティというものぜんたいという、概念に近いものだろう。

 ナポリというイタリアの地名も、これはもう日本語だと言っていい。英語だとネイプルズだ。戦後の日本はアメリカの影響下にあり続けたが、ナポリはナポリのままだろう、ネイプルズに変わる気配はどこにもない。日本がアメリカの影響下にその身を置くずっと以前から、日本ではナポリはナポリだったのだ。ついでだが、古代のナポリはニアポリスと呼ばれた。ナポリタンNeapolitanという英語の綴りのなかに、その面影が残っている。そしてナポリタンという言葉は、前半のナポリがイタリア語で、後半のタンが英語だ。

 ナポリタンはナポリの形容詞であり、ナポリの、ナポリの人たちの、といった意味だ。イタリア語だとナポレターノというマスキュリン、そしてナポレターナというフェミニンのふたとおりがある。僕にとってナポリタンの初体験は英語のそれであり、そのあとにアイスクリームという言葉がついて、ナポリタン・アイスクリームだった。手を抜いた略式のものだと、スクープですくい取ったあの半球のようなかたまりが三つだった。色、フレイヴァー、味が、それぞれ異なった、本来は少なくとも五種類くらいが、半球ではなく層をなしている。ニアポウリターン、などと発音して注文していた、米軍基地の若いGIたちの、アメリカらしさとナポリとの落差を、アイスクリームという普遍がいっきに埋める様子は、子供の僕にとっては興味深い観察の対象だった。音楽の世界にはナポリ6度の和音、というものがある。Neapolitan Sixthと書く。植物の世界では八重咲ニオイスミレがナポリタン・ヴァイオレットと呼ばれている。

 そして日本には、スパゲッティ・ナポリタンというものがある。スパゲッティ料理であることを示すものとして、まず最初にスパゲッティの一語があり、そのあとにナポリタンという形容詞があるのは、その限りにおいては正しい。スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌという料理がフランスにあるという。スパゲッティのあとにア・ラときて、そのあとに形容詞の女性形であるナポリテーヌがつく。スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌという言いかたは、フランス語としてごく普通に正しい。イタリア語で言うなら、スパゲッティ・アラ・ナポリターナとなるはずだ。

 スパゲッティ・ナポリタンという日本語からは、例によってア・ラが省略され、と言うよりも無視され、したがってその結果としてと言うべきか、形容詞は女性も男性もないナポリタンという英語が配置されている。無視されたア・ラは、日本語に取りこまれる外国語によくある運命のひとつをたどっている。

 ア・ラ・モードという言葉がかつて大流行したが、いまは死語のひとつだろう。ア・ラ・カルトもそれに近い。ア・ラ・カンパーニュという名の店が、僕の自宅から十二、三分のところにある。ア・ラ・プロヴァンサールと名づけたスパゲッティ料理を供する京都の店を、二十年以上前から知っている。かつてもそしていまも、フランスにたいそう憧れた日本だが、「ア・ラ・フォンセ」というような基本的な言いかたすら、日本語にはならなかった。ア・ラ・フォンセを日本語で究極的に意訳すると、イヤミの「おフランスざんす」になると僕は思うのだが。

 スパゲッティ・ナポリタンが、あるいはナポリタンが、日本人の食生活の一場面に定着して久しい。スパゲッティ・ナポリタンを注文した女性の客に、「当店では女性のお客様にはナポレターナをお出ししております」と言う店の存在を、僕は聞いたことがない。スパゲッティ・ナポレターノとスパゲッティ・ナポレターナのふたとおりがあり、レシピは別立てであるという面白い店の存在も、聞こえてはこない。しかし、それはそれで、いっこうにかまわない。

 ナポリタンという一語だけで、日本語世界では、ケチャップと少量の野菜その他を使ったスパゲッティ料理を意味する。スパゲッティ・ナポリタンと呼ぶと、あくまでも疑似的なものではあるけれど、正式感がイメージとして少しだけ漂う。スパゲッティ、とまず一語を掲げて大きな括りとし、その下に、ナポリタン、イタリアン、バジリコ、ミートソースと、四種類のスパゲッティ料理を挙げ、その店で供しているその他の料理や飲み物のすべてとともに壁の看板に列挙している店の前を、僕は十日に一度は歩いている。そしてこの手書きされた看板を見るたびに、小さくはあるけれども感銘と言っていいものを、僕は覚える。

 ナポリタンはレシピが厳密にきまっていて、料理人による自由裁量の度合いの幅がきわめて狭い、という料理ではない。むしろその反対だ。店によって、料理人によって、基本はおなじでも細部はほとんど自由だと言っていい。そのとき手近にある材料によっても、出来上がりは微妙に違ってくる。日常生活の場、そしてその場の、そのときどきのありかたの違い、というものを料理そのものよりも優先した結果に他ならない。そしてそのようなナポリタンが出来てくれば、日常のなかの食事の場がひとつ、そこに成立する。

 イタリアン、というスパゲッティ料理にも僕の興味は惹かれる。イタリアという大枠のなかでイタリアンというスパゲッティ料理がまずひとつ成立し、視界をナポリへと絞ったなら、そこにナポリタンが生まれる、という解釈は少なくとも言葉の上では成立する。さきほど書いた、僕が十日に一度はメニュー看板を見ている店で、ナポリタンとイタリアンとを食べくらべてみると、イタリアンがおおまかにイタリアで、それが絞りこまれたものがナポリタンだと言いきれるほどの、明確な差異を両者のあいだに確認することができるのかどうか。

 ナポリタンとイタリアンとは基本的にはおなじであり、ナポリタンとは言わずにイタリアンと呼んでいるだけの場合も、多いのではないか。ナポリというひとつのところに特定したくない、という気持ちを拾い上げるのが、限度いっぱいに範囲を広げた、イタリアンという呼称なのかもしれない。イタリアという大枠のなかでまずスパゲッティ・イタリアンが成立し、それがあるがゆえに、イメージをナポリにピンポイントしたスパゲッティ・ナポリタンが成立していく、という構造があると言ってもいい。順序はまったく逆に、ナポリタンに次ぐ後発の作品の命名が、苦しまぎれにイタリアンだったという可能性も、充分に考えられる。

 戦後の日本ではすでに半世紀を超える時間が経過しているのだが、イタリアの地名を冠してナポリタンと双璧をなすスパゲッティ料理が、定着度を基準にすると、ひとつもない事実は興味深い。作ろうと思えばいくらでも作ることはできる。イタリアの地名スパゲッティ料理が、現実にはたくさんあるに違いない。スパゲッティ・サルデーニャ。スパゲッティ・ポルトフェライオ。スパゲッティ・パレルモ。スパゲッテ・サン・レモ。いまとっさに僕が創作したものばかりだが、スパゲッティ・アラ・イソラ・ディ・カプリアなど、もっともらしいではないか。

 こうしていろいろと考えてくると、スパゲッティ・ナポリタンにおける、ナポリタンという言葉の突出ぶりが、否応なくはっきりしてくる。日本人とスパゲッティ・ナポリタンとの接点は、少なくとも言葉の上では、ナポリタンという一語にある。謎は見えてきた。なぜ、いかなる理由で、ナポリタンなのか。三十年、四十年前から、スパゲッティ・ナポリタンという呼称の、ナポリタンという言葉に、僕がなんとなく感じていたことが、少しずつ明確になってきた。ナポリタンというひと言は、適当につけたイメージ語ではなく、なにかかならず、しかるべき由緒があるはずだ。

 ナポリ以外に、外国の地名あるいは人名をつけた、日本で広く親しまれた食べ物が、ナポリタン以外にどのくらいあるだろうか。思いつくままに列挙してみよう。シャリアピン・ステーキ。ロシア紅茶。ニューヨーク・ステーキ。メイン・ロブスタ。モンブラン。シベリア。広東麵。上海蟹。日本におけるまったくの創作から、現地のものを日本でそう呼んでいるものまでいろいろだが、その数はけっして多くはない。ここにスパゲッティ・ナポリタンを加えてみると、ナポリタンという言葉が持つ抜きん出た雰囲気は、認めないわけにはいかないのではないか。

底本:『ナポリへの道』東京書籍 2008年

 


2008年 Neapolitan アイスクリーム ア・ラ ア・ラ・カルト ア・ラ・カンパーニュ ア・ラ・フォンセ ア・ラ・プロヴァンサール ア・ラ・モード イタリア イタリアン イタリア語 イヤミ カタカナ カルボナーラ ケチャップ シベリア シャリアピン・ステーキ スクープ スパゲッティ スパゲッティ・アラ・ナポリターナ スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ スパゲッティ・サルデーニャ スパゲッティ・ナポリタン スパゲッティ・パレルモ スパゲッティ・ポルトフェライオ スパゲッテ・サン・レモ テーブル ナポリ ナポリへの道 ナポリタン ナポリタン・アイスクリーム ナポリタン・ヴァイオレット ナポレターナ ナポレターノ ニアポリス ニューヨーク・ステーキ ネイプルズ バジリコ フェミニン フランス フランス語 ボンゴレ マスキュリン ミートソース メイン・ロブスタ モンブラン レシピ ロシア紅茶 上海蟹 京都 八重咲ニオイスミレ 半世紀 外国語 広東麵 形容詞 戦後 戦後日本 日本 日本語 東京書籍 死語 片仮名 米軍基地 自宅 英語 GI
2020年8月24日 07:00
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