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一台のオートバイが、ひとりの現代人を不安から救った

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『息子と私とオートバイ』を書くための基本的な体験となったオートバイ旅行をしたとき、著者のロバート・パーシグは三十九歳だった。十一歳になる息子のクリスとタンデムで、ミネソタ州のミネアポリスからカリフォルニアまで、一台のオートバイで旅をした。アメリカ中央部の大平原を走り、ミズーリ河とロッキー山脈をこえ、ミネソタ、北ダコタ、南ダコタ、モンタナ、アイダホ、オレゴン、カリフォルニアにいたるという旅だった。素敵な断片をいくつか引用してみよう。

『オートバイで旅をしていると、何もかも新鮮に見える。車に乗るのは、密室に閉じこめられているのとかわらない。車に慣れてしまって、窓越しにテレビの画面を見ているようなものだ。私たちはただの観客にすぎず、一切のものが枠のそとを退屈げに通りすぎてゆく』

『田舎道のおもしろさを、なぜ長いあいだ知らなかったのだろう。知っていてもわからなかった。知らなければ知らないですんでいた。いつのまにか本当の生活は都会の雑踏のなかにあり、田舎は都市生活の退屈な背景にすぎないと信じこんでいたらしい。おかしな話である』

『わたしはよく労働休日や戦歿将兵記念日の週末に郡道を走るが、ほかの車に出会ったためしがない。それでいて国道と交差しようとすると、国道には車が地平線のはてまで数珠つなぎに繋っている。車のなかには苦虫を嚙みつぶしたような顔が見える。子供たちが座席で泣きじゃくっている。空いている道があることを教えてやろうにも方法がなく、車のなかの連中はいつまでも苛立っていて、こちらの方を見る余裕すらない。

 いま走っている沼地はまえにも何度か見たことがあるが、見るたびに新しい。この無数の沼も弱肉強食の世界であるにちがいない。残忍無慈悲な自然の支配を受けているのだろうが、沼がそこにあるということ自体が、心を刺戟し、人間を興奮させる。見ていると、赤い羽の水鶏の大群が、オートバイの爆音に驚いて、蒲のなかにつくった巣から飛び立つ。クリスの膝をもう一度たたく……。すぐあとで、ついさっきも水鶏を見るように言ったことを思い出す』

『「車で来る人はみんな反対の方向に行くのね」とシルヴィアが言う。「それにみんな憂鬱そうだわ。はじめの人も、つぎの人も、そのつぎの人も、だれも同じ顔つきをしているのね」
「これから出勤するんだよ」

 シルヴィアがそう感ずるのはもっともだが、だからといって、この光景が異常なわけではない。

「そりゃ働きに行くからだよ。月曜の朝なんか、まだ半分眠っているようなものさ。月曜ににやにや笑いながら会社に出掛けてゆく人間なんていやしないよ」

「全然表情がないのね。お葬式の行列みたい」。シルヴィアはそう言って両脚を地面におろす。

 シルヴィアの言う通りである。しかし人間だれしも働かなければ食えない。それだけのことだ。わたしは言った。「さっき沼を見ていたんだけどね」

 シルヴィアは、しばらくしてから顔をあげて「何を見てたの」ときく。

「羽の赤い水鶏の大群がいてね。そばを通ると、一斉に飛び立つんだ」
「あら」
「久しぶりに水鶏を見て、満足したよ。頭のなかでばらばらだったものが、ひとつに結びつく感じでね。考えごととか、いろいろなものが。わかるだろう」』

『息子と私とオートバイ』(早乙女忠訳・1976年・新潮社刊・絶版、『禅とオートバイ処理技術』五十嵐美復訳・1990年・めるくまーる社)は、アメリカでの原題は『禅とオートバイ・メインテナンス技術』という。著者である「私」が、オートバイとの本格的なつきあいのなかから、自分はなにかひとつのしっかりしたことをなしとげたのだという深いよろこびを手にしていく。そのよろこびのなかには、宇宙的に真なるもの、絶対の理につうじるようなものがある。それは、オートバイと「私」とが完全に一体になったときに見えてくるものであり、それこそほんとうに自分が手にしなければならない「真なるもの」であり「よきもの」であり、禅的なとも言える「道」でもあるのだ。

 これこそ絶対なのだと、自分の全存在をかけて言いきれるようなすばらしいことを自分で直接に体験し、感覚のなかではっきりととらえることによって、いつも自分の頭の上に重く垂れこめている暗雲のようなもののむこうへ、突き抜けていける。現代の都会に生きている人たちは誰もみな、頭の上にこの暗雲をいだいている。機械文明の本質やしくみをなにも理解しないままに、文明の便利さだけを利用し、消費しているからだ。ほんとうにたしかな真理みたいなことに関して自分はいったいなにを知っているだろう、そしてさらには、自分になにがほんとうにできるのだろうかという自覚に達した都会人は、やがてたいへんな不安におそわれるはずだ。自分は絶対の真理を見たのだ、だから自分はもう大丈夫だと言いきれるような状態が自分の内部にほしいのだが、自分の内部はいつまでたってもからっぽのままだ。たいていの現代人は、生まれながらにしてこの大問題をかかえこんでいる。

 オートバイとのつきあいをとおして、著者は、さまざまな感覚や知識を自分の内部でひとつにまとめあげていき、オートバイという合理的システムの追求とかさねあわせて、ひとつのたしかなことをつかんでいく。かなり強度の精神障害を現実に体験した著者が、この本の最後で、「もう大丈夫だ。そう言いきってもいいような気がする」と書けるようになるまでに、オートバイをとおした自己治療が、ほぼ完璧におこなわれた。そして、そんなふうにして自分がつかんだたしかなことを、著者は、オートバイ旅行につれて出た息子に、伝えていこうとする。息子というひとりの人間と自分との、永遠の接点がついに生まれてくる本書の最後の部分は、とても感激的だ。

 ただ単なるオートバイ讚歌でも旅のすすめでもなく、メカニズムの解説書でもないし哲学書でもないこの本は、ちょっとむずかしく感じられるかもしれない。しかし、読むべきだと思う。自分はなんにも知らないしたしかなことはなにひとつできないまったく最低の能なしなのだという自覚を、ぼくたちは持つべきだ。現代の人とは、もともとこのような人たちなのだから。なにも知らずに、そして知らないままにすごしてしまえるという心のゲットーに、ぼくたちは住んでいる。

 もうひとつ、引用を読んでもらおう。

『寒くて目が醒める。寝袋の口からのぞくと、空が濃い灰色にみえる。首を引っこめて、また目をつぶる。だんだん空の灰色が薄くなるが、まだ寒い。吐く息が見える。急に、空が灰色なのは雨雲があるからだということを思いだして、すっかり目が醒めてしまう。早朝だし、大気がひどく冷たいので、オートバイを走らせるわけにはゆかないから、寝袋から出ないでいる。だが眠気が吹き飛んでしまった。オートバイの車輪のスポーク越しに、ピクニック用テーブルの上のクリスの捩れた寝袋が目にはいる。クリスはぴくりとも動かない。

 わたしの目の上にオートバイがひっそりたたずんでいて、いつでも出発できる態勢でいる物言わぬ守護者のように、夜通し待っていたようにみえる』

 著者を救ってくれたのは、このたしかな一台のオートバイだった。

『ブックストアで待ちあわせ』新潮文庫 1987年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年

今日のリンク:ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイと修理技術(上・下)』五十嵐美克訳、早川書房(2008)

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1987年 1996年 『ブックストアで待ちあわせ』 『禅とオートバイと修理技術』 アメリカ オートバイ ロバート・パーシグ 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』
2015年12月14日 05:30
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