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ホノルル・ブックストアへ歩くまでに

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 リチャード・ブローティガンという作家の『アメリカの鱒釣り』について、その本を実際に自分で手に入れる以前に、なんらかの情報源をとおして、多少は知っていた。まったく面白い作品であるとか、素晴らしい試みであるとか、あるいは、タイトルからするとフィッシングの本であるかのような印象をうけるが、現実にはそうではないといった、評価ないしは情報の断片を、ぼくはすでに持っていた。

 だから、ホノルル・ブックストアのダウンタウンにある店で現物を見たときは、まず最初に、あ、これなのか! という感じで、良きめぐりあいの瞬間の、うれしい感銘があった。

 ペーパーバックの棚にブローティガンの作品がならんでいて、そのなかでもひときわ目につくよう、『アメリカの鱒釣り』が、ディスプレーしてあった。

 『アメリカの鱒釣り』は、ものすごくいい感じの、つまりぼくにとってはたいへんに強く買う気を起こさせる、ペーパーバックだった。アメリカのペーパーバック本を、巧みにそして同時にかなり簡素にパッケージされた「物」として、まずとにかく買うことの好きなぼくにとっては、『アメリカの鱒釣り』は、それまで一度も経験したことがなかったほどに、素敵なペーパーバックとして、ホノルル・ブックストアの棚にならんでいた。

 ぼくが買ったペーパーバックの『アメリカの鱒釣り』は、たいへんに薄い。いま手もとに出してくると、あちこちひろい読みをつづけ、書評を書きたくなくなってくるから、したがって目のまえにはないのだが、この薄さが、なんとも言えず不思議な感じに知的で、ぼくの好奇心を大きく刺激してよこした。

 その薄さは、つまりそれだけで、すでに充分に、ひとつの世界だった。きわめてシャープでありながら、同時にたいへんメローでもある感情の、静かな、おだやかなきらめきのようなものを、ぼくは、その薄い『アメリカの鱒釣り』を最初に手にとったとき、確実に感じとった。というよりも、ぼくの指さきをとおしてぼくの内部へ、流れこんできた。

 本ぜんたいの色は、いい感じのピンクだった。たて位置の長方形に写真が一枚、配してあった。日本語に翻訳された鱒釣りの表紙にもおなじ写真が使用された。日本語によるブローティガンはこの鱒釣りが最初だったから、内容に接する以前に、読者たちはまずこの写真に挨拶することとなった。

 なかを開いてみたぼくは、再び、非常にうれしいよろこびを体験した。ページのメイクアップが、ものすごくいいのだ。いい雰囲気を持ったデザインの活字の、ごく小さいのを使って、行間のスペースをすくなくして、つめこんである。

 鱒釣りの文章には区切りの部分がたくさんあるが、この区切りのところが、ページの余白として、思い切った広さにとってある。

 小さな活字のつまりぐあいと、この余白との、おたがいに呼応しあうありさまは、みごとなものだった。ペーパーバックのページ・メイクアップとしては、『アメリカの鱒釣り』は、いまでもぼくにとっては最高のものだ。しかし、現在の版にこの面影はない。

 この本を買いたい、という強い衝動にかられたぼくは、鱒釣りを二冊、そのとき買った。

 あまりにも軽やかで透明な感じがするため、一冊だけではぼくの手からするっと抜け出してどこかへいってしまうのではないのか、という印象があったからだ。

 ブックストアを出たぼくは、キング・ストリートをエワ・サイドにむかって、歩いていった。

 五月なかばの午前11時ごろだった。快晴の日だ。明るく強い陽ざしのなかに、すべてのものがくっきりと浮き出ていて、風が芳しく、ぼくの大好きな感じだった。

 小さな川をこえ、キング・ストリートがペレタニア・ストリートと交差する三角地帯に、アアラ・トライアングル・パークという公園がある。

 現在は人工的なちまちまといかにも公園らしくなっているが、かつては芝生と樹、そして公衆便所があるだけの、なんの変哲もないパークだった。

 このアアラ・トライアングル・パークまで歩いてきたぼくは、芝生のうえに寝そべり、買ったばかりの、リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』を、読んだ。

 読みすすむのはもったいない。もうここでやめよう、という気持がなんどもわきあがってくるのだがその気持とおなじ強さで、もっと読みたい、という気持も同時にあるという、ひとりの読者としては至福の状態で、ぼくは鱒釣りを読んでいったのだった。

 不思議な魔法にかかったぼくは、さきほど歩いてきたキング・ストリートをそのままマーチャント・ストリートまでひきかえしてホノルル・ブックストアに入り、鱒釣りとはサイズのちがう、したがっていかにも詩集でございという感じのペーパーバックも含めて、そこで手に入るブローティガンの作品を、みんな買った。

(『コーヒーもう一杯』1980所収)


1980年 『アメリカの鱒釣り』 『コーヒーもう一杯』 アメリカ ハワイ ブックストア ホノルル リチャード・ブローティガン 小説
2015年10月26日 05:30