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人にあらざる人

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 秋のある日、僕はへッドフォーン・ステレオをひとつ買った。いま買うことの出来る全商品が展示してある店の棚のまえで、ひとつひとつ見くらべながら、添えてある丁寧な能書きを読んでいくと、ひとつを選ぶまでに一時間ほどかかった。

 へッドフォーン・ステレオとしては最高級のものである、という能書きのついていた製品を私は買った。最高級であるならば、へッドフォーン・ステレオをとおして人々が聴きたいと思っている音楽がどのようなものか、もっとも端的にわかるはずだと僕は思ったからだ。

 CDとその再生に関する特性を考えぬいたうえで、最初からCDとして制作された、質も志もたいへんに高いと思っていい外国の女性歌手の作品を、僕はCDプレーヤーとカセット・デッキとをとおして、CDからテープにダビングした。そしてそのテープを、買ったばかりのへッドフォーン・ステレオで聴いてみた。

 最高級のへッドフォーン・ステレオとは、現在の基準で言うなら、その再生音が重低音にむけて思いっきり加工してあるということだ。付属しているへッドフォーンも、そして私がダビングに使用したプレーヤーもテープも、すべてがCD用に性能の向上がはかってある。

耳のなかにイアフォーンを装着し、スイッチをオンにする。やがて耳から体のなかへ注ぎこまれるようにして聞こえてきた音楽を受けとめながら、自分の頭のなかにひとつの見取り図がすこしずつ出来ていくのを僕は楽しんだ。ありとあらゆる分野で新しい技術が開発され高められ、それが人々の日常生活の上へ何重にも網の目のようにかぶせられていくという世界の、僕なりの見取り図だ。

 頭のなかに見えてくるその見取り図を感概とともに受けとめながら、僕はへッドフォーン・ステレオから聞こえてくる音を聴いていった。私がそのとき聴いたのは、ごく簡単に言うなら、音楽にあらざる音楽だった。いまこの国でなぜか多くの人が快感として受けとめている重低音という世界にむけて、電子技術的にとりあえず加工されつくした音を、音楽として私は聴いた。クラシックな意味での各種の楽器を人間が演奏し、それをできるだけ忠実に録音し、出来るだけ忠実に再生しようと試みたかつての録音された音楽とは、近い距離にあるけれどもまるで別世界の、音楽ではない音楽を私は聴いた。

 音としてはきわめて特殊な電子音が、音楽とみなされて広く愛好されるようになっている。食品とはとうてい呼びがたいような、食品にあらざる食品を圧倒的に多くの人たちが日常的に食べている。いまの東京のまんなかで採集した空気を、50年まえのものと比較するなら、いまの空気は人が呼吸する空気とはとても呼べないものではないだろうか。

 生活のあらゆる分野が技術によって加工されると、やがてあるとき、この世はふっと別なものに変質する。この世ならざるこの世だ。そしてそこに住むのは、人にあらざる人だ。彼らを支えるのは、技術というものの結果的な証明であるはずの、数値という魔法だ。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年


1991年 『アール・グレイから始まる日』 音楽
2015年11月7日 05:30
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