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いまも思い出す、あのひと言

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 僕がまだ二十歳か二十一歳だった年の、もうそれほど寒くはない季節、三月の誕生日が過ぎたばかりの頃のよく晴れた日の午後。この程度でよければ、いまでもまだ僕は記憶している。僕よりずっと年上の編集者とふたりで、僕は歩道を歩いていた。その場所も、現場へいけば特定出来る、と思う。

 その頃の僕は、原稿料のともなう原稿を、わずかではあったがすでに書いていた。僕の原稿を受け取って活字にしてくれるだけではなく、もっと書くといいと言ってくれていたのが、そのときいっしょに歩いていた人だった。

 歩きながらの気楽な雑談の延長として、「僕も編集の仕事を覚えるといいでしょうか」と、僕は言った。そのひと言を聞くなり、その人は顔をまっ赤にした。そして、とにかくこれだけは言っておくというあわてた様子で、「きみは原稿を渡すほうの人になりなさい」と、その人は言った。

 まだごく若い頃の自分に対してなされた、あのときのあの人によるあのひと言、というような文脈で引用することの出来るひと言は、僕の場合はこのひとつしかない。これひとつあればそれで充分だ、と僕は思う。

 その人が顔をまっ赤にしたのは、編集のような仕事がきみに持続的にこなせるわけがない、という意味であったはずだと、いまの僕は解釈している。善し悪しがちょうど半々で差し引きゼロという、海のものとも山のものともわからなかった僕に関して、その人は自分なりの判断のすべてを端的なひと言に託して、僕へと引き渡した。受け取った僕としては、そこから先の責任はすべて僕ひとりのもの、というわけだ。

 僕に関する判断のすべてを、その人がきわめてわかりやすいひと言に託し得たのは、その人の人生経験と能力の問題だ。ただの青年でしかなかった僕は、幸いにもそれに接触することが出来た。あとにも先にもこのとき一度だけの、しかもほんの一瞬の出来事だった。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年


2000年 3月 『坊やはこうして作家になる』 仕事 書く
2016年3月30日 05:30
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