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誰がいちばん初めに波に乗ったのか

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 誰がいちばん初めにサーフィンを考えついて実行したのか、わかっていない。

 ちょっとした板っきれをボディ・ボードに使ったサーフィンは、数千年の歴史を持っているにちがいない。南太平洋の、どこかの小さな島で、ある日、波乗りは生まれた。

 考古学的な発見物から逆算していくと、ハワイ諸島に人間が住みついたのは、紀元前五〇〇年ころだという。ハワイに住みついた人間は、タヒチからカヌーで太平洋を渡ってきた人たちだと言われている。タヒチあたりである程度まで開発されたサーフィンがハワイに伝えられ、ハワイにおいて独特の発展をとげたのではないか、とぼくは直感している。

 サーフィンというものが持っている、なんとも言いようのない官能的なヴァイブレーションは、ハワイによく似合う。最初にサーフィンがおこなわれたのは、南太平洋のどこかちがう島であるかもしれないが、ハワイにもたらされたからこそ発展したのだ、とぼくは信じている。

 十八世紀になって、ハワイは、ヨーロッパとはじめて接触を持った。船に乗ったヨーロッパ人たちが、ハワイにやって来て、ハワイおよびハワイ人を「発見」したからだ。このときすでに、サーフィンは、ヨーロッパ人がびっくりするほどの高度な技術を要するスポーツになっていた。

 ヨーロッパ人がサーフィンを見ておどろいたのは、ハワイにおいてだけではなかった。たとえば、『バウンティ』号という戦艦の乗組員、ジェームズ・モリスンは、タヒチで住民たちの日常生活をよく観察し、記録にのこしているが、そのなかに、サーフィンのことが出てくる。

 大きく盛りあがった波がくだけるまで、タヒチアンはサーフボードでその波に乗り、ボードに立ちつづける、とジェームズ・モリスンは書いた。

 ほかにも、南太平洋のいろんなところで、ヨーロッパ人がサーフィンを目撃し、書きのこしている。サモア。トンガ。そして、西はニューギニア、東はイースター島と、サーフィンは広く目撃されている。どこかひとつのところでサーフィンが考案・実行され、そこから、南太平洋の島々へ伝播していったのだろうか。

 それとも、あちこちのいろんな島で、ほぼおなじ時期に、個別に生まれ、育ってきたものなのだろうか。どっちでもいい、とぼくは思う。いろんな島で、個別に生まれたのだ。きっと、そうだ。

 まわりを、あの巨大で力強い、荒々しい太平洋にかこまれた小さな島で何百年と生活をつづけるためには、海というものに対して、独特な仲良しな関係をつくりあげていく必要が、ぜったいにある。

 島の人々の生活は、そのほとんどあらゆる部分が、海と密接なつながりを持っている。つきあえる部分とは徹底的につきあわないと、自分たちの生活が成り立たない。

 泳ぐときの補助具として板っきれをつかい、やがて、波に乗るという一種のスポーツのために使われるようになり、サーフボードという独立した道具が開発され、サーフィンが生まれたのだ。

サーフィンがあちこちで個別に生まれたということの具体的な証拠のひとつとして、たとえば、アフリカの西海岸、つまり、大西洋でのサーフィンの発生をあげることができる。

 板きれに腹ばいになって人が波に乗っているという目撃の記録が、一八三八年に、すでにある。セネガル、象牙海岸、そして、ガーナあたりだ。いまでも西アフリカではサーフィンがさかんにおこなわれているが、これは、オーストラリアをへてハワイから伝わった現代のものだ。一八三八年といえば、サーフィンがハワイから伝わるはるか以前だ。

 昔、南太平洋のいろんな島でサーフィンを楽しんでいたのは、どんな人たちだったのだろうか。

 ウエスタン・ポリネシア、メラネシア、そして、ミクロネシアでは、サーフィンは、子供のあそびだった。それは主として少年たちの関心事だったということだ。

 だが、イースタン・ポリネシアでは、誰もが波乗りをしていた。年齢や性別に関係なく、それは島の人たち全員のものとなっていた。たとえばタヒチがそうだったし、ニュージーランド、マルケサス諸島でも、事情はおなじだった。

 そして、ハワイでは、サーフィンは、ほんとうに全員のものだった。島の人たち全員がサーフィンを楽しむということに関して、もっとも徹底していたのが、ハワイなのだ。

 ヨーロッパ人たちが船でやって来る以前のハワイにとって、サーフィンは、サーフボードで波に乗って楽しむというスポーツ以上のものだった。ハワイでの生活の最重要な一部分であり、欠かすことのできないものだった。

 サーフボードをつくるための樹を切り倒すためのおごそかな宗教的儀式があったし、酋長たちのサーフィン・コンテストでは、負けた曾長が死刑になったことすらある。

 このようなサーフィン・ライフを目撃したヨーロッパ人たちが、サーフィンについての感想や観察を、いろんなふうに書きのこしている。

「手入れの良いサーフボードを、いつもよくかわかして自分の家に持っているのは、ハワイの若い男にとって、イギリスの男性が自分の馬車に誇りを持つのとおなじような誇りの対象なのだ」と書いた人がいた。

 一八二三年にマウイに渡った宣教師は、次のように書いた。

「サーフボードは、個人的な所有物として、性別を問わず、酋長なら誰でも持っている。そして、一般の人たちも、その多くが、サーフボードの所有者だ」

 ラハイナに特別に大きな波がたてつづけにやって来たときの住民たちの反応は、この宣教師がのこした記録によると、次のようだった。

「サーフボードを使ってする大好きなスポーツを楽しむための、絶好のチャンスとなった。いつでも、毎日、誰もが、サーフボードを楽しんだ。波が大きければ大きいほど、サーフボードをあやつる技術にたけている人は、楽しみも大きいのだ。何時間もぶっつづけに、何百人という人たちがサーフボードであそぶこともあった」

 サーフィンに適した大きな波が沖合いにできると、島の住民たちは、仕事もなにもほうり出し、サーフボードで海に出た。別の宣教師は、次のように書きのこしている。

「人々がみんな海に出ていってしまい、村はからっぼになってしまった。畑をたがやしたり、魚をとったり、タパという布をつくったりする作業をすべてほうり出し、村の全員が、大波を相手に楽しむのだった」

 昔のハワイの人たちは、海岸のすぐ近くに村をつくって住んでいた。海岸の近くのほうが、暑さをしのぎやすいし、海で魚をとったり、いろんなかたちで生活が海に依存していたからだ。

 だから、波がくれば、すぐにサーフボードをかついで、海に入っていくことができた。

 ヨーロッパの文明と接するまでのハワイは、厳格なカースト制度のもとに、複雑できびしいタブーや禁止事項の多い生活が、一般の人たちに強いられていた。女性と男性の差別も、相当にあった。王家の人たちや酋長たちがおこなうことを、一般の人たちが真似しておなじようにおこなうのは、宗教的なタブーによって不可能な場合が多かった。

 しかしサーフィンだけは、等しく万人のものだったようだ。タブーはいろいろとあったのだろうけれど、おなじ大波を、男も女も、酋長も平民も、まったく平等に楽しむことができたのだ。このことはとても面白い。

 サーフィンという行為そのものに、万人に等しく無料で開かれた素晴らしいヴァイブレーションという特性がいつだってかならずある。これを、昔のハワイの人たちも、感じとっていたにちがいない。それに、島の生活ぜんたいが海と密接にかかわっていたから、海だけは全員のものだという感覚もあったのではないのかと、ぼくは思う。

 ハワイの古い伝承のなかに、サーフィンのことが頻繁に登場する。昔のサーフィン・エリアをそんな伝承のなかから書きぬいてならべてみると、昔のハワイの人口集中地帯つまり村のあった場所と、ほとんど一致している。いまではサーファーはすくないけれど、ハワイ島のコナは、当時のもっとも有名なサーフィン・エリアであり、人口がいちばん多かったところでもある。カメハメハ一世がサーフィンをおぼえたのは、このコナでだった。

 大昔の伝承のなかからサーフィン・エリアをひろっていくと、ハワイ島だけで四十九個所もあるという。オアフ島が十七、マウイが十九、カウアイが十六、ニイハウが三、そしてモロカイとラナイが、それぞれ、ひとつ。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年


『サーフシティ・ロマンス』 エッセイ・コレクション サーフィン ハワイ 片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』
2015年12月15日 05:30
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