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秩父がチャイチャイブーだなんて、すごいじゃないか

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 ハワイに対するぼくのほうからの熱意や興味は、たいへんにトータルなものでありつづける。あのような興味深い場所ないし文化に対して、部分的にしか興味を持たないということは、すくなくともぼくの場合、ありえない。

 そのトータルな興味のなかで、比較的に小さな部分を構成しているのは、ピジン・イングリッシュないしはハワイでの日系人社会における共通の言語に対する興味だ。ハワイ日系人社会という類まれな文化の首根っこをまずおさえるためには、その文化への重要な出入口のひとつである言語を手のなかにつかむことがぜひとも必要だ、とぼくは以前に書いた。たしかにそのとおりだが、しかし、ピジン・イングリッシュという言語そのものが文化の総体であるわけではけっしてない。言語は、その文化の、もっとも深い部分をぼんやりと指さしてくれているにすぎないような気がする。したがって、ハワイ日系人社会が持っている(持っていた、と過去形で書いたほうが、より正確だろう)共通の言語への興味は、ハワイに対するトータルで大きな興味のうちの、小さな一部分になるわけだ。

 ピジン・イングリッシュにぼくがまきこまれていくための、ぼくにとっての決定的なきっかけは、ピジン・イングリッシュによる、ほんのささいな、ただのひと言だった。

 そのひと言は、チャイチャイブー、だ。発音のしかたは、厳密に一種類しかない。ピジン・イングリッシュの日常的な使用者たちの耳に抵抗なく受け入れられる発音というものが厳格に存在する。音のつまり方、のばし方、抑揚のつけ方、口のなかでの音のこもり方など、単語別にと言ってもさしつかえないほどに、きちんときまっている。その、きまり方からすこしでもはずれた発音をするなら、それはピジン・イングリッシュの真似であり、本物ではない。

 チャイチャイブーのひと言をどう発音するのか、言葉で書くのはとてもむずかしい。「秩父丸」という船の名がローマ字で書かれるとき CHICHIBUMARU となる。MARU を略し、CHICHIBU のほうだけをチチブと読まずに、チャイチャイブーと読む。これを知らされたときのぼくが受けとめた衛撃は大きかった。チャイチャイブーのひと言を、針の先でついたような小さな小さな穴だとすると、その穴のむこうに、ハワイ日系人社会、特に二世たちの社会あるいは文化のようなものが、その瞬間、見えた、という気がしたのだ。それ以前から、彼らの独特な言語に親しみや習慣的な慣れを覚えていたせいも作用していなくはないのだが、とにかく、チャイチャイブーのひと言に、ぼくは、うわっ、これはすごい! と思った。

 日本郵船の所有する船で、船籍も日本だった秩父丸は、太平洋航路の豪華船だった。外国人の乗客が多く、彼らのうちの多くが、冗談にあるいはまじめに、ローマ字で書かれている船名をチャイチャイブーと読んでいて、それが日系人たちの耳に入っていたのだろう。日系人自らがチチブをチャイチャイブーと読みかえたとは、考えにくい。

 秩父がチチブと読まれているあいだは、その発音がいかにアメリカ語的であろうとなんであろうと、チチブは日本語である。だが、いったんチャイチャイブーと読まれたら、そのとたんに、それはアメリカ語となる。そのアメリカ語を、かつての二世たちは、おそらく冗談半分なのだろうけれど逆に借用し、自分たちの言葉の一部分にしたのだ。そして、それは、とても重要な一部分だった。なぜなら、日系ハワイ二世たちにとっての共通の言語がいくつか持っている特徴のなかで、もっとも重要な特徴は、アメリカ語から借用されて用いられている単語あるいは句であるとぼくは見当をつけているからだ。

 話の順序としてまず秩父丸についてすこし書き、それから、二世たちの共通言語にふれていくことにしよう。およそ一七、五〇〇トンの秩父丸にぼくは乗ったことがない。この船に乗って横浜からハワイまでいくということがどういうことなのかをおぼろげながらでも知るには、体験者から話を聞くか、書き残された記録を読むか、あるいは、近似の体験をしなければならない。太平洋の船旅、というものを具体的にしかも順を追って知るには、近似の体験をするのがいちばんいい。だが、昔の秩父丸による太平洋の航海を知るには、話を聞くか記録を読むかのふたつしか方法はない。昔とまったくおなじ体験はもうどうやったって出来ないのだという事実もまた、ハワイにかかわる魅力のひとつになってくる。

 昭和一〇年(一九三五年)に出版された『アメリカ百日記』という本が手もとにある。天理教の中山正善氏がニューヨークでおこなわれた「世界信仰友愛会」に招待されてアメリカを旅したときの様子や印象、感想などを素直に書き記した本だ。この本に、横浜からハワイまでの秩父丸による航海のもようが書いてある。秩父丸にとっては第十九回目のハワイ航路であったという。

 一九三五年には、日本からハワイへの移民はもう完全に禁止されていた。ハワイではアメリカ白人の側からなされる排日運動がひときわ高くなっていたころだ。近親者とか妻子、夫の呼び寄せなども禁止されていたから、このころに秩父丸のような船で日本とハワイとのあいだを往ったり来たり出来たのは、旅行者あるいはすでにアメリカ国籍のある二世たちだけだった。一種の風来坊のように、日本とハワイないしはアメリカ大陸のあいだを船で往きつもどりつしていた二世たちが当時はいた。現実には風来坊ではなく、それなりに切実な理由をたずさえて往き来していたのだろうが、秩父丸のデッキでCHICHIBUMARUとローマ字で書かれた救命ブイを足もとに置き、陽やけした顔にカンカン帽をかむり白いスーツ姿で記念写真におさまった二世の姿は、なんとも言えない。このような人たちもいまは老人だ。またとなく愉快でもの悲しい彼らが消滅してしまったのは、惜しい。記念写真は船のうえで現像焼付けがおこなわれるから、同船の人たちと共に写真におさまれば、その人の著名まで記念にもらえる。意外な人たちと同船することが多かったようだ。

『アメリカ百日記』の著者、中山正善氏について、ぼくは多くを知らない。横浜から船出するにあたっては、二輛連結の貸切り列車で大和からのぼってきたというから、それにふさわしい重要な人物だったのにちがいない。横浜埠頭につめかけた見送り人のスナップ写真が掲載してある。このような写真には、ぼくはなじみがある。埠頭に見送りにやってきた人たちのための場所は、一階と二階の二段になっている。簡単な手すりがついている。撮影する人のカメラの位置のせいか、その二段になった場所は船のほうにむかって傾斜しているようで、ぎっしりとつまっている人たちはいまにも海へころげ落ちるのではないかと思われる。ほとんどの人たちが、カンカン帽をかむるかあるいは小旗を持っている。見送り人の数はとても多い。太平洋航路の豪華船には、さまざまな要職にある人物が乗りこんだ。そのひとりにつき二〇〇名の見送り人があったとして、要人が五名で見送り人は千名になる。そして、当時は、数多くの人たちが要人の船出を見送った。『アメリカ百日記』のような記録のなかに残された、秩父丸によるハワイ航路についての記述に、なんらかの問題があるとすれば、それは、記述する当人が一等船客であることだ。風来坊二世は時として二等や一等をはずむことがあったかもしれないけれど、たいていの場合は、三等船客だった。一等船客であった人の記述のなかに三等で旅をするありさまが記述されることはまずない。航海中の自分の部屋である船室は、中山正善氏の場合、左舷後部の一八六号室だった。

「あまり広くはない。天井も低い。入口の両側に寝台があるが、せまいので落ちそうになる。中央正面には鏡台」があるこの部屋は、見送りの人たちが持ちこんでくれた盆栽や百合、金魚の泳いでいる金魚ばちなどで「植物園のように」なったという。昭和十年、太平洋航路をアメリカにむかう要人に人々は盆栽を贈ったりしたのだ!

「サルンや喫茶室で見送りの人々と挨拶をかわす。また、甲板に出ては、いろいろと写真を撮られる……正三時、秩父丸は一声ボーと吠えた。出帆の合図だ。と同時に、その巨体は音もなく陸地をはなれた。曳船に曳かれて岸壁と平行に海のほうへと動き出したのだ。万歳! と、岸壁の人々は叫んだ」

 やがて曳船は曳綱をはなし、秩父丸は自力で航行をはじめる。一本だけの煙突からは、意外に色の淡い煙が、うっすらと吐き出されている。機関の音が「太鼓のような音」に聞こえる。その音は、のんきな音だ。

 横浜を出てしばらくすると、食堂にあつまって最初のお茶を飲み、このあいだに乗組員たちは密航者を船内くまなくさがしてまわる、というようなことがおこなわれていた船もあったらしい。秩父丸でもおこなわれたのだろうか。

「船内では部屋ボーイが洋服からその他、万事の世話をやいてくれる」という。そのボーイは、客のトランクから洋服をとりだしてクロゼットのなかに吊ったりする。このトランクは、スティーマー・トランク(船旅用のトランク)といって、なにも入っていなくてもずしりと重くて大きい、頑丈をきわめたトランクだ。寄港地やホテル、旅館のスティッカーを隅のほうから貼っていく。

「部屋の天井には通風孔が三つある。常に涼しい空気を吹出している。これで部屋の温度が調節されているのだ。風呂は六時すぎに風呂ボーイが案内にくる。塩水である。石けんをなすりつけ、真水のシャワーで洗い落とすのだ」

 船上での一夜が明けて、昭和十年六月十六日。とてもむし暑く、シャツは汗を流したという。

「一面に暗雲低迷して視野ひらけず。しかし海上はおだやかである。船は自信ありげにそのなかを航している。いずれを指しているのか日陰なきため素人にはわからない」

 曇った日には、海の塩をはらんだ空気がたちこめる。デッキに出ると眼鏡がすぐにすりガラスのようになってしまうし、洋服も塩を吸いこむ。何日かたって、熱い陽に照らされたりする。白く塩をふいてくる。

 船内での生活は、やはり単調にならざるをえない。体育室、プール、各種の室内遊戯、デッキ・ゴルフなどで退屈をまぎらすことができるのだが、とにかく、一日一日、食べることと体を軽く動かして運動することのくりかえしなのだ。

 朝の七時半にボーイが紅茶と果物とを船室へ持ってきてくれる。八時半には食堂で朝食だ。四人でひとつのテーブルにつく。約一時間。マナーなどはきちんとしていなければならないので「気のはる食事ではあるが、内地よりうまい」

 十二時半に昼食。このあと音楽が演奏される。秩父丸オーケストラという楽団が専属で乗りこんでいて、「ミュージカル・プログラム」というものを配布したうえで、五曲ほど演奏する。タ食のときにも演奏がある。シャルル・グノーの『アヴェ・マリア』、ドリゴのセレナーデ、ハンガリア舞踏曲、タンゴ曲、そして『そして酒は涙かため息か』がフォックス・トロットで演奏される。

 午後の六時に入浴。七時に食堂でタ食。食べることと体を動かすことのくりかえしだ。体を動かすといっても、プロムナード・デッキを何度も歩きまわる、というようなことだ。秩父丸の場合、プロムナード・デッキの一周は六六〇フィートだ。人々は競うょうにしてこのデッキを歩きまわるのだ。

「日本船であれば万事日本流であろうと思っていたのは見事に裏切られた。日本人が多く日本語が主要なる用語であり、かつ日本文の電報が打てる以外は、すべて洋風である。通貨までが円ではなくドルになっている点は想像以外のことだった。ネクタイも結ばずに食堂へ出ることは看過されているのに、和服の着流しがよろこばれぬようなのも変ではなかろうか。ただ、娯楽室のとなりに日本座敷が一室あったが、やはり横文字で THE ZASHIKIと書いてあったように記憶する」

 船内のあまりの洋風に『アメリカ百日記』の著者はおどろく。だが、船内で洋風を勉強しておけばあとになって赤毛布(あかげっと)ぶりを演じることもすくないだろうと考え、三日目から夕食にタキシードを着用しはじめる。船内の洋風に加えて、食事の豪華さも、おどろきのひとつだ。そして、これしきのことにおどろいていてはアメリカへいってから日本の体面を汚すことになる、と教えられる。

 航海が三日、四日とかさなっていくと、「食堂の皆出席」ということが、船客たちのあいだで問題になってくる。船酔いにおちいる人が出てきて、いったん酔ってしまうと食事どころではなくなるからだ。海がしけてくると、船酔いはさらに多くなる。時化の日の朝は、食卓をかこむ人の数がすくない。食べる皿数も減る。「卓につかまり、欄干をつたいながら、甲板へと」出ていく。「甲板の椅子に長くなって朝風に吹かれながら、うつらうつらとする……眼鏡にあたる潮と、白波のうえに吹き散る水滴との以外にはなんら風の速さと強さとを肉眼に感ぜしむるものがない……二等船室の窓ガラスが水に叩き破られたという話を夕方に聞いた」

 二等船室ともなると、窓ガラスを叩き割るだけの力を持った波が当たるようなところに窓があるのだ。そして、三等船室では、通風孔から海水がもろに飛びこんでくることがある。

 船が日付変更線を通過するときには、パーティがおこなわれる。六月一五日に横浜を出て、六月二十日がその日だった。ハワイにむかうときには、二十日が二日かさなる。このときの秩父丸では、甲板でスキヤキ・パーティがおこなわれた。

 甲板といっても吹きさらしではなく、天井もあれば周囲の壁もあるところだ。紅白の垂れ幕とおぼしきものを壁にめぐらせ、甲板に畳を持ち出し、岐阜提灯を吊して、おこなわれた。畳みは、ほんとうに畳なのだ。甲板いっぱいに敷きつめるわけではないが、畳をいくつかつなげて敷いたうえに、それぞれ数人ずつのグループを組んですわる。このときだけは和服のほうがむしろよく、「ハッピや羽織や浴衣を着用におよんだ奇妙な姿がたくさんでき、百鬼夜行を思わす風情、たがいに座を乱して酒杯を交換」するということになる。

 スキヤキのあとは花火大会。日本人の目には、貧弱な花火なのだが、洋上で見るとまんざらでもなく、「西洋婦人が一発ごとに発する変な讃辞も、もっともなり」という気持ちになってくる。二世たちが、身のこなしもあるいはものの考え方もいつとはなしにアメリカふうになっていくプロセスのなかには、こんなふうに具体的でこまかな場面ごとに、西洋ふうももっともなりと納得していく作業が無数につらなっていたのではないだろうか。花火につづいて、食堂で講演会があった。同船者のなかに、イタリーへいくという藤原義江、ハワイ大学へ講義しにいく柳宗悦がいたので、『アメリカ百日記』の著者を加えて三人が、三十分ずつの話をした。

 どんな日本人が同船しているのかは、日本人だけの茶話会がおこなわれたときに確認できた。珍しいほどに日本人が多く、いろんな人がいたという。どのような人たちかというと──。海外の支店をまわって世界情勢を知るために渡航する三菱商事の重役。バンクーバー領事一家。海軍大佐。コロムビア大学の講師。外務省の留学海外研究生。青年外交官。西本願寺の北米開教総長。大蔵事務官。ボストンに留学する海軍少佐。商用のためにドイツへいく人。新聞連合の人。大観社の人。森村ブラザーズの人。ざっとこんなふうなのだ。二度目の二十日にはボーイたちの芝居がおこなわれた。運動会もあった。一等船客が出資して景品を買い、デッキ・ゴルフ、テニスなど、いろんな種目のある運動会だ。

 こまかく書けばきりがないのだろうけれど秩父丸による一等船客の船旅というものは、だいたいこのようなものなのだ。そして、三等船客は、このような船上生活のいずれの局面にもあまりかかわりあわなかったのではないのかと思われる。

 船内では新聞が発行されていて、一等の船室には配達されてくる。その新聞には、日々の緯度、経度、横浜からの航行距離、ホノルルまでの距離、海温、気温などが記載されている。その数字によると、気温が数度はねあがるのは、横浜を出て二十日目だ。十九日目と比較すると五度もあがる。海温は十九日になって五度あがり、ホノルルに着く前日には、十八日にくらべて八度も上昇していた。気温も海温も急に上昇したこのころに、潮の色が、かわるのだ。荻原井泉水が昭和十三年に『アメリカ通信』という本のなかで、次のように書いている。

「潮はほんとうに南国のブリュウである。その波にちりばめられている日の光もすばらしく華やかだ。また、日の熱も非常に強くなったことが感じられる。船員たちも、けさから皆、白い服に着かえてしまった。日覆(ひおおい)に、強い風がハタハタと吹きわたっている。デッキの籐椅子がよくも風に飛んでしまわないと思うくらいだ。この椅子に腰をおろして飲むアイスウォーターがうまい」

 このとき荻原井泉水は大洋丸という船でホノルルにむかいつつあり、横浜を去ること二四五三マイルの地点にいた。アイスウォーターとは、水のなかに氷をうかべたものではなく、水を冷蔵庫で冷やしたものだ。ハワイの家庭では冷蔵庫にいつもこのアイスウォーターが入っていて、訪問するとまずこれを飲ませてくれる。荻原井泉水はこのアイスウォーターが「うまい」と言っているが、ほんとうに目まいがしそうなほどにうまい。

『町からはじめて、旅へ』晶文社 1976年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年


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2016年1月27日 05:30
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