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カーメン・キャヴァレロ(3)

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 一九六五年、昭和四十年、十二月、キャヴァレロは三度目の来日を果たした。それに先がけて、『カーメン・キャヴァレロと二人の世界』というLPが日本で発売された。昔のヒット歌謡曲三曲に、六〇年代なかばの日本でヒットしていた歌謡曲を加えて、全十二曲。どの曲も電気ギターが主役で、同一パターンと言っていい編曲と演奏に終始している。ピアノはリズム・セクションの一部分であり、ソロをとることもなくはない、という扱いだ。キャヴァレロのピアノだけを先に録音し、あとから残りを重ねたのではないか、と僕は推測している。LPぜんたいは編曲の出来ばえを越えるものとなってはいない。

『カーメン・キャヴァレロのすべて』という、二枚組で箱入りのLPが国内で発売されたのは、一九六六年の春ないしは夏ではなかったか。これのたいへんに程度のいいものを、二〇〇〇年の春おそく、神保町で僕は四百五十円で手に入れた。収録してある全二十四曲に統一感はまったくなく、天才ソロイストとしてのキャヴァレロの魅力がよく出た演奏は三曲だけあった。一曲あたりじつに百五十円ではないか。

 一九六六年、昭和四十一年、キャヴァレロは四度目の日本へ来た。九月九日、東京厚生年金ホールから始まった公演がすべて終わり、彼が帰国したあと、おそらくは冬の始まりの季節に、『カーメン・キャヴァレロ・デラックス』というLPが発売された。厚いボール紙の見開きジャケットだ。見開いたそのまんなかに、カラー印刷の写真が一枚、貼ってある。舞台でピアノを弾くキャヴァレロを舞台の下からとらえた写真だ。裏は白でなにも印刷されていない。これが貼ってあることが、デラックスという言葉の根拠だったのだろう。

 それまでに何度となく紹介された、なんの新味もない曲ばかりを揃え、ジャケットを厚いボール紙で見開きにしたベスト盤を、デラックスと呼び始めたのはいつ頃からのことだったか。ジャケットのデザインはひときわよろしくなく、金文字や金色の部分がどこかにあれば、そのデラックスはしばしばゴールデン・デラックスと呼ばれた。そしてそれらはスーパー・デラックスへと高まることすらあり、二枚組のLPではダブル・デラックスあるいはツイン・デラックスなどとなった。一九六〇年代なかば以降の、日本経済のさらなる急激な高度成長と軌を一にした出来事であることは、たいそう興味深い。

 この『カーメン・キャヴァレロ・デラックス』の見開きジャケットの、外側にあたるスペースの主役は、横置きにした一点のカラー写真だ。東京あるいはどこかほかの場所で、キャヴァレロが宿泊したホテルの庭だろう。けっして好ましくない、と言うよりもあってはいけないような、はりぼての印象の強い日本庭園の片隅だ。そこにスーツ姿のカーメンが笑顔で立っている。自信にあふれていつも元気な、楽天的な人だったのではないか。その写真の彼を見て、僕はそんなことを思ってもみる。

 おなじく四度目の来日のあと、『夜霧の慕情』というLPが国内で発売された。当時のヒット歌謡十二曲で構成されていて、編曲や演奏そしてキャヴァレロの扱いなど、『二人の世界』の延長線上の産物だ。厚紙によるダブル・ジャケットを開いた外側のスペースは、縦に長いスペースとして使ってある。羽田空港の送迎デッキだろうか。夜のなかにひとり立つ外国人女性のモデルが照明を受けとめている。ただそれだけの写真で、たちまち夜霧の慕情という種類の、都会情緒の最先端イメージの提示になったという、そんな時代だった。

 僕が神保町で手に入れたカーメン・キャヴァレロの国内盤LPは、ここで一九八三年まで飛ぶ。この年には『カーメン・キャヴァレロ・スーパー・デラックス』と題したLPが発売された。LPとして出たキャヴァレロの、ひょっとしたらこれは最後に近いものではないか。日本ではこの頃からLPの時代が急速に終わっていったから。意図的にそうしたのかと思うほどの、変わりばえのしない選曲の内容だ。LPそのものはただのLP、そしてジャケットもただのジャケットであり、そのデザイン処理は並の出来だろう。根拠はどこにもないまま、かけ声だけはスーパー・デラックスだ。バブルの時代とは、こういうことでもあったのだ。

 日本で独自に編集した国内盤は、もっとたくさん買うことが出来る。しかし、それらを買うことに、意味はほとんどない。非常に多くの場合、デラックスあるいはそれに類似の言葉のついたシリーズものの一枚であり、選曲は似たりよったりで、この一枚にしかない魅力というものを、それらのどれもが見事に共通して持っていない。

 すでに紹介した国内盤のライナー・ノートからの引用を三種類、ならべてみたい。遠く過ぎ去って久しい、そして二度と立ちあらわれることのない、一九六〇年代の日本というものが、使われている言葉のひとつひとつによって体現されている様子を、確認することが出来る。

「キャヴァレロの魅力、それはムード・ピアノという言葉が使われる前から、独特のロマンティック・ピアニストとして、この世界の第一人者でした。世界中に数知れぬ、彼のスタイルの模倣者はあっても、何人も彼の右に出る者はない事実、余りにもキャヴァレロの偉大さを示しているではありませんか。華麗なパッセージ、しゃれた装飾句、気持ちよいバウンス・リズム、クラシック音楽の素養豊かな技巧と解釈、更には最近一段とモダンなジャズのフィーリングも身につけ、益々彼の芸術性には円熟味が加わってまいりました。勿論そのかげには、不断の努力精進があることでしょう」(藤井肇『カーメン・キャヴァレロのすべて』より)

「このアルバムは、彼が帰国後、日本における温かい歓迎と、なつかしい想い出を永久に記念する為に、我国の代表的名歌曲を選び、心をこめて、吹込んだものです。ここにも私共は、別の感覚を見出しました。全十二曲、いずれも皆様良くご存知の美しいメロディーばかりですが、ひとたびキャヴァレロの手にかかると、全く想像をはるかに超越した曲に一変してしまいます。名旋律に新風を吹きこむ事、これこそキャヴァレロの最も得意とする芸術であり、又最大の魅力でもあります。とに角、聴いてみて下さい。今迄数多く発売された彼のアルバムの中でも、最高傑作のひとつに数えるにふさわしい出来栄えと、私はかたく信じております」(藤井肇『日本の詩情』より)

「今年のオリンピックと言い、日本という国が、世界的に注目を浴びている今日、日本の良さを、世界中に紹介してくれたキャヴァレロの功績には心から感謝せずにはおられません。今回の再度来日に当たっては、ステージで日本の旋律の特集を聴かせてくれることは必定かと思いますが、私共は心から、キャヴァレロの芸術に尊敬と拍手を送ろうではありませんか」(小川正雄『わがこころの詩情』より)

 僕が手に入れたカーメン・キャヴァレロの国内盤LPは、一九五六年から一九八三年まで、二十七年間にまたがっている。時間順に復習していくと、興味深いことが見えてくる。そのことについても書いておこう。

 一九五〇年代に発売された国内盤は、『愛情物語』や『フランツ・リスト・ストーリー』のように、内容とジャケットはアメリカ盤とおなじであり、裏面は日本語によるライナーとなっていた。もっとも基本的な作りかたであり、その仕事はたいそう真面目に実行されていた、と言っていい。

 一九六二年にキャヴァレロは日本で初めての公演をおこなった。公演は大成功だった。彼の音楽に対して日本の聴衆が示した熱意あふれる強い支持は、キャヴァレロの気質や才能をとおして好ましい化学変化を起こし、『日本の詩情』というLPに実った。このLPは、日本とキャヴァレロとの、一対一の対等な合作だった。

 一九六四年のキャヴァレロは二度目の日本公演を体験した。彼への日本の聴衆の熱意は以前にも増して強く、それは『わがこころの詩情』というLPへと結実していった。『日本の詩情』というたいそう売れた商品は、『わがこころの詩情』として、もう一度繰り返された。

 一九六五年はキャヴァレロにとって三度目の来日の年だった。ここで詩情は歌謡曲へと交代し、『二人の世界』というLPが製作された。そしてここでキャヴァレロにあたえられたのは、脇役の位置だった。キャヴァレロの音楽に対して、日本側における製作者たちの都合が明らかに優先した結果だ、と僕は判断している。キャヴァレロと日本は、一対一の対等な関係ではなくなった。

 一九六六年にキャヴァレロは四度目の来日を果たした。歌謡曲のLP、つまり自分たちはこういうものを作りたいのだという日本側の都合が繰り返され、『夜霧の慕情』というLPになった。そしてこのLPでもキャヴァレロは脇役だった。

 ここまでの期間のあいだに、キャヴァレロの国内盤のLPはさらに何枚も発売された。選曲が似たりよったりでまったく変わりばえがしないという特徴が、それらすべてのLPをつらぬいていた。これらのどのLPにおいても、選曲やその配列に、確たる方針はいっさいなにもなかったようだ。いつもおなじ選択肢のなかから、十二曲ほどがきわめて無造作に選ばれてはLPになっていく、ということの繰り返しだった。

 国内盤のLPを二枚続けて買うと、二、三曲は重複した。三枚目を買うと、それまでの二枚を加えた三枚のなかで、多い場合だと五曲ほどが重なっていた。五枚買うなら、合計の曲数から重複するものを差し引くと、およそ半分になったりした。五枚買うことは二・五枚買うことであるという、不思議なことが体験出来た。

 せっかく買った新しいLPのなかに、まだ持ってない曲は二曲しかなかった、というようなことはごく普通にあり得た。熱心に買っていた人たちは、これで怒らなかったのだろうか。当時の客はそれほどまでに素朴で人が良かった、という言いかたが出来るのかもしれない。

 LPが何枚発売されても、おなじみの曲が繰り返し提示されるだけであり、キャヴァレロの全体像が明らかになるようなことは、けっしてなかった。そして四度目の来日の頃から、日本のLPの世界では、デラックスというものが始まっていった。オリンピックのあとの日本経済は、大成長の急坂を轟々と駆け登っていた。デラックスという形容詞をつけられたさまざまな商品が、世のなかにたくさん登場したことを僕は記憶している。このデラックスをそのまま使い、僕が自分で書いた本のタイトルにゴールデン・デラックスとつけたのが、一九六〇年代のなかばあたりではなかったか。

 デラックスになってもLPの選曲は相変わらずであり、ジャケットが厚いボール紙による見開きになっただけだった。ジャケットのスペースは単純に言っても二倍になるのだから、デザインの腕は振るえたはずなのに、そのまったく逆のことが起こった。デザインの質はないも等しいほどに低下し、そのままゴールデン・デラックス、ツイン・デラックス、ダブル・デラックス、スーパー・デラックスなどへと、連続していった。

 このことと同時に進行した事態が、もうひとつあった。十数枚から二十枚くらいまでのLPを、シリーズでひとつにくくって製作し販売する、という営業のかたちだ。これまで売れてきたから今回もある程度までは見込めるだろう、と判断をつけたおなじみの歌手や演奏家を十数名ならべ、それぞれについて一枚から三枚ほどのLPを作り、適当にシリーズ名をつけて共通デザインのジャケットに収め、マーケットに出すのだ。

 売り上げの数字が必要な時期がめぐって来ると、ある程度までは見込めるし営業も動きやすいという理由から、このようなシリーズが毎回おなじような内容で、何度となく繰り返された。日本でキャヴァレロのLPが最初に発売された頃には、それらのLPは確かにキャヴァレロの音楽そのものだったが、二十数年という時間の経過のなかで、会社で給料をもらう自分たちにとって必要な売り上げの数字という、自分たちの都合の最たるものへと完全に転換したところで、LPの時代は終わった。

 一九五〇年代から一九六〇年代いっぱいくらいの期間にアメリカで発売されたLPでは、ジャケット裏面のスペースの下段に、「このLPをお楽しみいただけたなら、さらに次のような作品をお勧めします」というようなコピーとともに、何枚かのLPが広告してあるのをしばしば見た。白黒で小さく複写したジャケットの写真がかならずあり、それぞれの収録曲がすべて列挙してあった。

 カーメン・キャヴァレロのLPにも彼のほかのLPがこうして広告してあり、それらを頼りにして、アメリカでデッカから発売された彼のLPを二十五枚まで、僕はその存在をつきとめた。あとさらに二、三枚はあるだろう。10インチLPも相当な数になるはずだし、SPは僕には追いきれない。この二十五枚のうち十八枚までを、僕は神保町で手に入れた。

 日本で発売された国内盤のLPでは、結局のところ、カーメン・キャヴァレロの音楽はそのほんの一部分が紹介されただけだった、と判断していい。紹介されずに終わった大きな部分を、アメリカ盤のLPのなかに、僕はいろんなふうに観察する。

 8000番台の番号のついているデッカのLPが六枚ある。頭の8は8000番台であることの目印でしかないから、それを取り払うと三桁の番号になる。もっとも若いのは289で、これは『エディ・デューチン・ストーリー』だ。そのあと、『追憶のエディ・デューチン』『キャヴァレロとカクテルを』『ラテン・ビートのキャヴァレロ』『明かりを暗くして踊る』と続き、999番が『フランツ・リスト・ストーリー』のLPだ。

 8000番台のあと、番号のつけかたは4000番台に変わった。この4000番台の頭にさらに7をつけた、74000番台の番号が同時に存在するが、7という数字はそのLPがステレオであることを意味しているだけだという。頭の4は共通だから除外して観察すると、4000番台でいちばん初めのキャヴァレロのLPは、僕の持っている範囲では、017番だ。そしてこれは、『くつろいで、どうぞ』というような意味のタイトルの、メドレー集だ。

 この017番から始まって、キャヴァレロのLPが十四枚以上発売され、おなじく僕が持っている範囲内で、アメリカでのいちばん最後のLPは、878番の『マジック・メドレー集』という作品だ。LPにはこの頃の慣例として製作年は明記されなかったようだから、『マジック・メドレー集』というこのLPがいつのものか正確にはわからないが、一九六〇年代のなかばから後半にかけてのものだと思っていいだろう。ヴォカリオンから出たLPが二枚、僕の手もとにある。ジャスミンやピクウィックのLPもある。日本で四度目の公演をおこなっていた頃、デッカでのキャヴァレロは終わり、傍系のヴォカリオンへ移ったのだろうか。

 カーメン・キャヴァレロのアメリカ盤のLPタイトルを僕は眺める。『カクテル・タイム』『映画音楽ヒット集』『誰もが知っている歌』『愛をこめて』『明かりを暗くしてワルツを』『スインギング・イージー』『今宵は愛を』というようなタイトルは、じつは内容とは無関係だと言っていい。内容はアメリカにかつて生まれた多くのポピュラーな歌曲の名曲を、唯一無二と評すべきスタイルを持った天才独奏者が演奏したものだ。

 その彼のLPにつけてあるタイトルは、ほかのすべての歌手や演奏家たちのLPタイトルとおなじく、当時のアメリカ大衆の嗜好を陳腐な言葉で言いあらわしたものにすぎない。その嗜好のなかへ揉み込むようにして購買動機を作り出すための手段のひとつが、こうしたタイトルだった。

 僕が手に入れた彼のアメリカ盤のLPは、もっとも新しいものでいまから三十五年ほども前のものだ。遠いものだと四十五年はへだたっている。当時のアメリカやその大衆、彼らの嗜好などは、とっくに消え去っている。これだけの時間が経過してようやく、キャヴァレロが数多くのLPのなかに残した演奏は、彼の音楽そのものとしての独立を獲得する。

 当時のアメリカ大衆の嗜好とはなにだったか。一語で言うならそれは踊り、つまり社交のためのダンス、あるいはそれに準じるものだった。週末の宵に大人たちが集い、ダンスに興じて社交に花を咲かせる、などと書くとそれはたいへんにいい世界のように思える。いい部分はもちろんあったけれど、つらい裏面も分厚く存在していたはずだ。

 ダンス・パーティという種類の時間は、当事者たちに自覚されていてもいなくても、拘束、強制、順応などのために、多様なプレッシャーの下に身を置いて使う時間だった。そのような時間を過ごす人たちの最小単位は、夫婦あるいは恋人どうしという、ひと組の男女だった。コミュニティのなかで完全に認められたひと組の男女であることを人に強制する圧力には、すさまじいものがあったはずだ。LPのタイトルが体現している当時の大衆のこうしたありかたは、いまや完全に消えて久しい。社交のためのダンスの時間が、日常のなかで大きな存在だった生活そのものが、とっくに消えている。戦後のアメリカの歴史は、良くも悪くも、人々の自由度が拡大され続けた歴史だった。自由を規制する枠は、次々にはずされては消えていった。

 僕が中古レコード店で手に入れたアメリカ盤のキャヴァレロのLPからは、それらが新品でアメリカのレコード店に出まわっていた頃にまといつけざるを得なかった固有の文脈が、経過して去った時間のおかげでもはや完璧に払拭されている。それらのLPは、いっさいの枠組みから解き放たれて、いまようやく、純粋にカーメン・キャヴァレロの音楽となっている。そのLPがターンテーブルの上で回転する。スピーカーから再生音が放たれる。そしてそれを僕は受けとめる。キャヴァレロのような天才の演奏を、夾雑物いっさいなしで受けとめるという至福の時間が、こうして僕のものになる。

[了]

(『音楽を聴く2 映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』第3部「この都電はジン・ボ・チョへ行きますか」2001年所収)


1960年代 2001年 「この都電はジン・ボ・チョへ行きますか」 『音楽を聴く2ー映画。グレン・ミラー。そして神保町の頃』 カーメン・キャヴァレロ レコード 神保町 音楽
2016年3月1日 05:30
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