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第9条

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 僕が小学校の一年生だったとき、「天皇は日本の国のシンボルです」と、先生が教えてくれた。シンボルという言葉を、片仮名で書いて日本語として使うことに、すでに人々のあいだに違和感はまったくなかったようだ。しかし当時の僕にとっては、シンボルという英語は記号という意味だった。地図のなかのお寺の記号、というような場合の、記号だ。象徴という意味があることは、もちろん知っていた。シンボルよりも象徴という日本語のほうがはるかにいい、と幼い僕は思った。少なくとも見た目にも心理的にも、象徴という漢字のほうが、すわりはずっといい。

 何年か前の夏、終戦記念日にちなんで制作されたいくつかのTV番組のなかに、日本国憲法が作られていく過程をテーマにしたものがあった。これを僕は幸運な偶然によって、見ることが出来た。この番組のなかに、シンボルの話が出てきた。タイプライターで打たれた英文の憲法草稿のコピーのようなものが、画面いっぱいにアップになった。天皇の位置や役割を規定した冒頭の部分だった。日本の天皇の位置は at the head of the state であると、草稿には書かれていた。この言いかただと、天皇は国家元首ということになる。国の最高権力は天皇のものとなる。これでは明治憲法とおなじではないかと判断したひとりのアメリカ人が、 at the head の部分を一本の線で無造作に消し、その上に is the symbol と書きなおした。年配だが少なくともその頃はまだ健在だったそのアメリカ人は、日本で憲法の作成にたずさわったひとりだった。ケイディスという人だったと思うが、「そうです、これは私が書きなおしたものです。これは私の字ですよ」と、日本のTVのインタヴューアーに語っていた。

 なぜシンボルなのかという、僕にとっての謎は、こうしてあっけなく解けてしまった。彼が線を引いて消した瞬間は、戦後の日本で天皇制が存続することに決定した瞬間のひとつに、数えていいのではないか。このTV番組の放映は、終戦記念日であることを忘れるなら、そして身辺になにごともないならば、夏の頂点を向こう側へ越えてまもない日の、まことに日本の夏らしい、しかしなんとも言いようのないほどに平凡な夜の小さな出来事だった。

 僕はじつはある私立大学の法学部を卒業している。日本国憲法は一年のときの必修科目だった。そのときの僕が知り得たかぎりをいま書くなら、憲法そのものよりも、それが成立していくプロセス、そしてそれ以後の日々のほうが、より興味深い物語だ。一九四五年の十月に、憲法を改正することをGHQは日本政府に示唆した。政府はすぐに作業に着手し、十一月には草案を天皇に報告した。日本史年表を見ていくと、それ以後はおよそ次のような展開をたどったということがわかる。

 十二月には、憲法研究会という団体の草案要綱が出来た。四六年一月には自由党の草案が出来た。そして二月には、日本政府は改正試案をGHQに提出した。年表に記載してあることだけを見ているとよくはわからないが、日本政府の改正試案が出来るよりも前に、マッカーサーはGHQの民政部に、新しい日本国憲法の草案を作ることを命じていた。一夜づけの勉強のようなことをしながら、何人かのアメリカ人たちが、大急ぎで草案を作成した。草案は九日間で出来たということだ。GHQは日本政府が提出した改正案を拒否した。

 進歩党、そして社会党の草案も出来た。極東委員会の第一回がワシントンで開催された。三月には改正草案要綱が政府から発表された。主権在民、天皇の象徴制、戦争放棄などが、いまの言葉で言うところの目玉だった。日本の憲法を改正するにあたっては日本の世論を尊重せよ、と極東委員会は決定したと年表に出ている。

 四月には草案の正文が政府から発表された。平仮名の入ったロ語体の文章だった。天皇は戦争責任において訴追されない、とキーナン検事は六月に発表した。おなじ月に共産党の草案が出来た。七月には極東委員会が改正案に盛り込まれた基本原則を採択した。十月には衆議院と貴族院が改正案に同意し、改正は成立した。そして十一月に公布され、次の年、一九四七年の五月三日、施行された。

 憲法の改正は占領軍によるものだった。かつては交戦国であり、いまは敗戦国である日本を占領している占領国であるアメリカが、日本の改正憲法を作った。基本的にはこれはルール違反だ。かたちとしては、天皇の発案による明治憲法の改正、ということだった。明治憲法のもとでは、ある部分は憲法のとおりに日本は営まれ、ある部分は憲法とは完全に関係のないところで運営され、後者が天皇制を支えた。天皇を戦犯から除外すること、そして天皇制を存続させることと引き換えに改正憲法は生まれた、というのが定説であるようだ。

 新しい憲法が公布されたとき、日本の進む方向はすでにきまっていた。アメリカとの関係を外の世界ぜんたいに対するバリアーのように使い、そのバリアーのなかで経済至上主義で国を復興させていく、という方向だ。振り返る歴史というものは、本当に良く出来た物語だ。新憲法の公布は朝鮮戦争と重なっている。この戦争による特需は、敗戦後の欠乏と混乱から日本を引き上げるための、巨大な力として作用した。すぐに高度成長期が来た。改憲も含めて、憲法に関する根源的な論議は、国の方向に反するという暗黙の了解のようなものを、多くの人が了解事項として引き受けた。

「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」という文章が、日本国憲法の前文にある。この決意の主体は日本国民だ。そしてその決意が「念願」するのは、「恒久の平和」というものだ。日本国民は、おなじ前文のなかでもうひとつ、決意している。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という決意だ。諸国民とは、国民の皆さんではなく、世界の国々という意味だ。平和に関して自分たちが自分の側でおこなうのは決意であり、自分たち以外の他者に対しておこなうのは、信頼だ。

 恒久の平和のためのこの決意および信頼という行為には、前文のなかで国際的な広がりがあたえてある。「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」日本国民は、「いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」と信じている、と新しい出発をするにあたって、「われら」はあらかじめ自らを諫めている。

 国際的な広がりのなかでの、恒久の平和のための決意と信頼を、日本がなし得るもっとも大切で具体的なこととしてとにかく最初に規定したのが、「戦争」と「武力による威嚇」と「武力の行使」の永久の放棄をうたった第九条だ。この永久の放棄を支えるさらに具体的な行為として、日本国民は「戦力は、これを保持しない」し、「国の交戦権は、これを認めない」と、明言した。

 無条件降伏した日本が受諾したポツダム宣言は、日本に武装の完全な解除を求め、家庭に戻って平和な生産をしなさい、と説いていた。これを日本は実行した。そして平和な生産行為は現在の日本を作り出した。いったん完全に解除された武装は、しかし、再びおこなわれることとなった。日本国憲法を国際的な広がりのなかに置いて考えると、自衛権と自衛のための戦争は否定されないと僕は思う。そのこととは別に、日本を占領していた連合国によって、憲法では認められていないはずの戦力を、日本は持つこととなった。新しい憲法を連合国側が作ったという現実の内部に、日本がふたたび軍事力を持つという新たな現実が、連合国側によって作られた。

 一九四六年の四月に、憲法改正草案の口語体による正文が、日本政府によって発表された。その二か月後、六月に、吉田首相は、自衛のための戦争も交戦権も日本は放棄した、と衆議院で言明した。この言明は、四年間、有効だった。四年後、一九五〇年の一月一日、日本の新憲法は自衛権を否定していない、とマッカーサーは言った。その二年前、アメリカ陸軍の長官は、日本は共産主義に対する防壁である、と演説した。日本の敗戦からずっと、沖縄のアメリカ軍基地は、本格的なものに向けて整備され続けてきた。日本の自衛権に関するマッカーサーの発言に続いて、アメリカの国防長官や統合参謀本部議長が日本を訪れ、沖縄だけではなく日本のアメリカ軍の基地をぜんたいとして強化していく方針を明らかにした。

 沖縄の基地が恒久的なものになることが、二月にはGHQによって発表された。六月には統合参謀本部議長が今度は国防長官とともに来日した。それからひと月もたたないうちに、警察予備隊という組織の創設と、海上保安庁の増員を、マッカーサーは指令した。七万五千人という規模の警察予備隊は、朝鮮戦争に出動したアメリカ軍の空白を補填するもの、ということだった。少なくとも名称の上では、それは軍隊ではなく、警察の、予備の、隊だった。憲法という最高であるはずのルールに対して、自分たちがルール違反を犯していることを、連合国最高司令官はもちろん知っていたはずだ。

 日本の憲法とは別に、もうひとつ、連合国側のルールが厳しく存在している、という現実がここではっきりした。法規の二本立てだ。連合国側のルールは、連合国の都合だけで運営される。だからそれには、日本国内の法規との調節は必要ない。調節しなければならないのは日本の法規だ。なにか問題があると、そのつど新たな解釈を編み出してはそれによって運営していく、という政治的な方法を政府は採択せざるを得なかった。裁判所がその政治手法を追認し、国民はその全体を、日本で生きていくにあたっての了解事項のひとつとして、きわめて柔軟に了解してきた。

 一九五二年、GHQは廃止され、日本に対する平和条約と、日米安保条約とが発効した。日米安保条約のほうは、国民にはなにも知らされないままに作られたものだった。日本には戦力はないから、占領アメリカ軍がそのまま今度は駐留軍として残ることを日本は希望し、アメリカがそれに応えるというかたちで、日本にこのときで二十六万のアメリカ軍が残ることになった。警察予備隊という戦力の存在と、これは論理の上では矛盾していた。しかし現実の問題としては、保安庁法が出来て保安庁が発足し、続いてそれまでの警察予備隊は保安隊に組み込まれた。地上、そして海と空とを合わせると、このとき保安隊は十二万の軍だった。新国軍の土台となってほしい、と吉田首相は演説した。

 一九五三年の十月には、日本の防衛力を少しずつ大きくしていくことに関して、日本とアメリカの共同声明が発表された。五四年の一月には、沖縄のアメリカ軍基地をアメリカが無期限に保有することを、アイゼンハワー大統領が発表した。二月には日米相互防衛援助協定が調印され、五月には日米艦艇貸与協定というものも調印を見た。そして七月には防衛庁と自衛隊が発足した。アメリカの同盟軍の戦力である自衛隊は、アメリカ軍との密接な関係のなかで拡大を続け、現在にいたっている。

 安全保障条約は一九六〇年に新しい条約に改定された。社会主義国からの威嚇に対抗するためのものだったこの条約に、経済協力のための規定が新しく設けられた。社会主義国の威嚇からおたがいを守るという旧来の守備範囲から、ともに資本主義を守っていくというより広い範闘へと、この条約の守備は広げられた。そして現在も条約はそのまま続いている。ということは、日本におけるアメリカ軍とその基地は、日本を守るための別の国の軍隊であるから日本の憲法とは関係はないとする解釈や、自衛隊はフル・スケールの現代戦争を遂行するに足る戦力ではないという解釈も、そのまま続いていることになる。なにか問題があれば第九条をそのつど新たに解釈して運営していくという政治的な手法を裁判所が追認しているということは、そのような政治的な手法が国益の選択として、正しいと裁判所が認めていることだと思っていい。そして、そのようなかたちであれ、国益にもっともかなう手法が採択されることを、国民はあらかじめすべて了解している、と僕は解釈する。

 第九条をめぐって湾岸戦争とともになされた論議は、僕なりに整理すると、次の三点にまとまる。ひとつは、第九条が実行に移されたなら、それはすさまじく前衛的な思想であり、世界を震撼させるに足るおそるべき理想主義である、という論だ。第九条はたいへんにいいものだから、日本人はこれを世界に広めるべきだ、という言いかたに直すとわかりやすい。

 第二の点は、いまあげた理想主義という論点と関係しつつ、別な方向へのびていく。軍事力というものを持たない国家というものが、想定出来るものかどうか、そしてそのような国家は、現実にあり得るのかどうか、という論だ。軍事力に当然のこととして付随する力も、軍事力とともに放棄されるのか。あるいは、他の力にともなって発生してくる軍事力というものは、考えないのか。たとえば外交力も、軍事力とともに放棄するのか。

 第三の点は、新憲法は占領下のごく一時的なものであったはずだ、という論だ。やがて占領は解かれ、日本は独立する。そのときは自分の問題として日本自身が、憲法を点検しなおせば良かった、とこの論は展開する。

 日本との戦争が続いているあいだずっと、アメリカの軍事力の攻撃性は、日本の軍事力の攻撃性と、正面から衝突していた。日本を敗戦に追い込んだあとのアメリカは、戦争のあいだ受けとめ続けた日本の軍事力とは対極にあるものを、戦争終結直後の時期の問題として、日本に求めた。それは、軍事力を日本が完全に解除して消し去り、軍事力が自分たちの内部から二度と立ち上がってこないことを、日本が誓うことだった。アメリカが日本に求めたそのようなものは、当時のアメリカにとっての国益だった。その国益に沿った憲法を、アメリカは日本のために作った。

 戦後の日本は、三つの論点のどれをも、迂回したようだ。日本は原爆を二発も投下された。世界史上初めての、そしていまのところ唯一の、途方もなく高いコストを日本は戦争で支払った。このコストの高さに懲りているという意味では、日本は心から平和を願っている。

 百年もたてば原爆のことは忘れられるかもしれない。しかしいまは忘れられていない。戦争の放棄は、言葉にとどまるかぎりでは、そういう道もあり得るかもしれないという程度のものだが、実行され続けるなら、つまり日本が世界に向けて掲げた理念として、たとえば軍事のつきまとうあらゆる世界の現実と戦い続けるという実行がなされるなら、戦争の放棄はたいへんに素晴らしい。そのような戦いのなかには、自衛権は含まれるだろう。

 第九条の存在を理由にして思考も実践もすべて停止させてはいないか、つまり平和という理念のための戦いという、やっかいでつらいことはしたくないと思ってそのとおりにしてはいないか、という指摘は第九条があるかぎり有効だ。理念なき平和というものは、しかし、現実にあり得る。理念のための努力はいっさいすることなしに、ある日のこと手に入った平和、思考という範疇に入る活動のいっさい放棄して維持されてきた平和というものは、日本国内では実現した。国内文脈では、そのような平和があり得た。そしていまもその平和のなかにある。このような平和は、日本にとって、戦後最大の既得権益となったのではないか。あまりにもその権益に慣れきったため、日本人は世界のどこでも、その権益が自分たちには通じると思っているのではないか、という指摘も第九条と等価で存在し続ける。通じないですよ、とたとえば外国から言われると、既得権益を侵されているかのように受けとめる習性のようなものを、自分たちは持っていないだろうか。

 既得権益を侵されて喜ぶ人はいない。しかし、既得権益は侵されやすい。侵されないように自分たちの既得権益を守るのは、国家の役目のひとつだ。それでは既得権益を守るとはどういうことなのか、という問題が立ち上がってくる。敗戦後の日本に現在まで続いた平和は、他からあたえられた平和、あるいは他から保障された平和だった。そのような平和を手に入れることと引き換えに、日本は国家観や歴史観を放棄した。それらはもはやほとんど役に立たないから、という理由による放棄だったのだろう、と僕は思う。平和のただなかに自分たちはありながら、平和とはなんのことだかなにもわからない、という状態を手に入れたと言い換えてもいい。

(『日本語の外へ』筑摩書房、1997年所収)

日本語の外へ表紙

湾岸戦争をアメリカのTV放送だけで追ってみる、という試みから始まった本書は、アメリカを突き動かす英語という言葉の解明へと焦点を移していく。母国語によって人は規定され、社会は言葉によって成立する。たえず外部を取りこみ攻撃し提案していく動詞中心の英語に対し、日本語とは自分を中心とした利害の調整にかまける言葉だと著者は結論付ける。日本語によって生きるとは、どのように「偏って」生きることなのか?英語と日本語への熟考が、やがて読み手を世界の認識の根源まで導く鮮やかな思考の書。

『日本語の外へ』(1997年・筑摩書房・Kindle版、2003年・角川文庫

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2016年5月3日 05:30
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