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あの路地にいまも昔の自分はいるか

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 神保町の三省堂の前を西へ通り過ぎ、左の脇道に入ってすぐ右側、すずらん通りへ出る手前に、西へのびる短い路地がある。この路地に入ると、そこには出会うものがたくさんある。僕は大学生だった頃からフリーランスのライターでもあった。十年以上の時間を僕はライターで過ごし、仕事の本拠地は神保町だった。いたるところにあった喫茶店でさまざまな打ち合わせをし、ひとりになると喫茶店をはしごしながら、いろんな原稿を書いた。

 そのような喫茶店が二軒、この路地のなかにいまもある。外観や店内、テーブル、コーヒーなど、昔とまったく変わっていない。自分がフリーランスのライターとして過ごした十年以上の時間に、ここへいけばいまも出会うことが出来る。今年は桜が咲く前の季節にそこへいってみた。路地に入ると、そこを歩く自分は、五十年ほど前の自分になることが、簡単に出来た。まず誰よりも先に、何よりも先に、ここでは昔の自分に会うことが出来る。

 路地を歩き、二軒の喫茶店に順に入ってみた。ミロンガとラドリオだ。路地をはさんで斜めに向き合っている。ほんの五、六歩で、この二軒をはしごするのが、いまも可能だ。かつての好みの席が、どちらの店でも健在だった。原稿用紙と鉛筆を持っていれば、僕はその二軒でなにかの原稿を書いたかもしれない。

 現在の僕は四十年、五十年前の僕と、おそらく同一人物だろうから、かつての自分に会いたければいつでも会うことが出来そうなものだが、あの神保町の路地という舞台があればこそ、いつもは忘れている昔の自分が、喫茶店のドアを押して開ける瞬間、そして椅子にすわってコーヒーを注文する瞬間、見事に当時のままに、僕のなかに立ちあらわれる。その自分を見てつくづく思うのは、僕という人は昔もいまもまったく変わっていない、ということだ。

『Honda Magazine』2017年 Summer


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2020年4月2日 07:00
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