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サブカルチャーの教祖と呼ばれた男が自宅に常備していた物とは?

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書斎でくつろぐ植草甚一

 本のページに印刷された六センチ四方ほどの大きさのカラー写真をいま僕は四倍のルーペで見ている。その写真の被写体は植草甚一さんだ。

 植草さんはスーツにタイを締め黒い靴下を履いて座椅子の座布団にあぐらをかいている。座椅子の背に右の肘を置き、左腕の肘から先を座り机の縁に置いている。かなり気楽な姿勢だ。撮影された時間は夜だったのではないか。

 座椅子からはみ出した座布団の下に三分の一ほどかくれて、雑誌『ワンダーランド』が一冊、カーペットの上に置いてある。出来たばかりの頃の創刊号に近い号だ。この写真が撮影されたのは昭和48年だったということだ。1973年だ。いまから44年も前だ。

『ワンダーランド』2号 植草甚一編集

 1973年とはどんな時代だったのか。ごきぶりホイホイ。スカイラインGT-R。シュガーカット。筆ペン。カルピスソーダ。カロヤン。象印マホービンのエアーポット押すだけ。こんな時代だ。

『ワンダーランド』創刊号のすぐかたわらに、押すだけのエアーポットではないと思うが、赤い色の保温ポットがひとつある。このポットのなかに用意されていた湯で、植草さんはコーヒーを入れて飲んだのだろうか。ごく小さな座り机の上に、コーヒー・カップが四つある。そのどれをも植草さんが使ったのだろう、と僕は思う。

 座り机には、三段ほどの小さな棚が置いてある。座り机とおなじ高さの段に、クライスというドイツ製のインスタント・コーヒーのビンが三つある。三つとも違う種類だ。そうか、と僕は思う。赤い保温ポットのなかの湯は、インスタント・コーヒーのためのものだったか。

 このカラー写真は、椎根和さんというかたが書いた「コーヒーは都市伝説公理の点である」というエッセイに添えられたものだ(『作家の珈琲』平凡社/2015年に収録)。このエッセイから二パラグラフを引用しよう。次のとおりだ。

 一九六八(昭和四三)年、経堂にあった一軒家の居間兼応接間兼書斎のような植草さんの部屋を訪ねた。前後左右すべて洋書で埋められた部屋の中央に二帖ほどのスペースがあり、座机があり、かたわらには至福の時をすごすさいの常備茶があった。日本茶の茶筒もあったが、目立ったのは鮮やかなグリーンのMJBのコーヒー缶だった。徹夜の読書中には何杯も飲む。そうするとブラジルとコロンビア豆をブレンドした柔らかいMJBのコーヒーは飲みやすかったのだろう。

 香りがダンディ植草さんの悲哀を消し、酸味が好奇心を培養し、コクが彼の文章に酩酊感をにじませた。米国の古いコーヒーメーカー、MJBはそのバランスが絶妙によかった。

19世紀末から存在するコーヒー銘柄

 植草さんの写真が撮影された1973年当時に市販されていた、MJBの缶入りのコーヒーがひとつ、切り抜きで添えてある。緑色に黄色だ。確かに鮮やかだし、充分に目立つ。

MJB COFFEE

NEW

ELECTRIC PERCOLATOR

COFFEE・1LB. NET

 という英文字が缶の表面に印刷してある。MJBの缶入りのコーヒー粉を、僕は一度くらいは買ったことがあるだろうか。缶コーヒーではなく、MJBの缶入りのコーヒー粉を、僕は買いたくなった。植草さんの部屋にあったのはいまから40年以上前だ。いまでも市販されているだろうか。

 MJBは健在だった。僕が手に入れたのは907グラム入りの大きな缶で、値段はじつに988円だった。

REGULAR/PERC

MJB

ARMY GREEN

IDEAL FOR AUTO DRIP

SINCE 1881

 などの文字が印刷してある。缶のこの緑色はアメリカ陸軍を連想させるオリーヴ・ドラブ色とはかなり違うのだが、愛称のようなものだと思えばいいか。ARMY REDという赤い色の缶もある。PERCはパーコレーター向き、という意味ではないか。挽き具合は粗挽きだそうだ。

 さっそくMJBのコーヒーを飲んでみた。邪魔しないコーヒーだ、というのが第一印象だった。なにごとかを忙しくおこなっているとき、要所ごとに飲むコーヒーとして、最適なのではないか。220ミリリットルのカップ一杯のために使う粉の重さを計ってみたら10グラムだった。この大きなひと缶で90杯ものコーヒーを飲むことが出来る。そのくらい飲んだなら、散歩と雑学が好き、と僕も言うようになるだろうか。

筑摩書房 2013年

出典:『現代ビジネス』講談社 2017年8月6日
表紙:Photo by iStock


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2018年11月12日 00:00
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