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ハワイ土産に8ミリフィルム!? あの頃、映画とは何だったか

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映画とは光である

 映画の科学的なからくりについては、子供の頃からよく知っていたような気がする。

 完成された映画とは、撮影されたフィルムが編集という意図によって取捨選択され、つなぎ合わされたものとしての、一本のフィルムだ。そのフィルム上の像が光によってスクリーンに投影されるのだから、映画とは光である、とも言える。

 このことを視覚的に確認することが出来たのは、煙草の煙だった。

 僕が子供だった頃の日本では、上映中の喫煙は客の自由だった。前のほうの席にすわっている人が煙草をつけると、吐き出す煙が暗い空間を立ちのぼり、漂った。その煙のなかを、スクリーンへと向かう映写機の光が通過していった。

 暗いなかに煙草の煙が見えると同時に、スクリーンに届く寸前の映画でもある光もまた、見えたのだ。

 映写中に一度は振り返ってうしろを見た。いちばん後ろの壁のなかは映写室であり、そこにある映写機からスクリーンに向けて光を放つための小窓がいくつか、映写室の壁にあいていた。

 撮影されたフィルムが編集という意図によってつないであるだけのものが、映画だ。だから、映画は編集だ、という言いかたも成立した。

 吠えながら突進してくるライオンに緊張して身構えるターザンは、ライオンとターザンを別々に撮って巧みにつないだだけであり、本来はおたがいになんの関係もない。密林はセットだ。ターザンが官能的に泳ぎ、鰐と格闘する池はガラスの水槽で、鰐は精巧なゴム製だ。

 映画は撮影されているときがもっとも楽しくスリルに満ちている。だから完成して映画館で上映される段階にまで到達した映画は、もはや脱け殻のようなものだ、とかつて書いたことがある。

 撮影されているときとは、わかりやすいひと言を使うなら、メイキングのことだ。『カサブランカ』は伝説的な映画として語られることが多いが、作品としての出来ばえは感心しない。しかし、この映画がどのように作られたか、という話をまとめた本は、何度読んでも素晴らしく面白い。

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 映画はフィルムだ、という事実を実感することの出来る機会は、身辺にたくさんあった。そのうちのひとつは、フィルム運びの青年を目の前に見るときだった。オデヲン座の前でしばしば見た。

 いまで言うレーサー・タイプの、ハンドルの低い細身の自転車の荷台に、映画フィルムの入った金属製の丸い缶をいくつか、黒いチューブでくくりつけ、出発前のひととき、サドルにまたがって彼は煙草を喫っていた。その煙草を足もとに落とし、肩ごしにうしろを見てから、おもむろに発進していた。リーゼントに革ジャンパー、そしてジーンズに革のブーツの彼は、たちまち走り去った。

 おなじ映画を上映していた映画館はあちこちにあり、そのフィルムは何軒かの映画館が使い回していた。下北沢からだと、もっとも近くて三軒茶屋だったか。近すぎてひと走りのうちにも入らなかったのではないか。渋谷までなら、ひと走り、と言っていい距離だった。

ハワイ土産の8ミリフィルム

 ごく小規模のものでいいから上映室のような部屋を作り、そこに映写機とスクリーンを設置し、映画のフィルムを手に入れるなら、映画を自分のものとして所有することも可能だ、と考えたのは、フィルム運びの青年から得た発想を延長させたものだった。

 一般に公開された映画作品を16ミリにプリントしたものは、かなりの数で市販されていた。雑誌に掲載された広告を見たことがある。この16ミリは明らかに個人的な所有の対象だった。

 8ミリでは、小さなリールで白黒とカラーのフィルムが、そして撮影機と映写機が、スクリーンを含めた周辺の機材とともに、過去のある時期、一般用に大量に市販された。

 僕ですら撮影機は何とおりか持っていた。いまでは中古をむきになって探さないかぎり、どこにもない。自分が撮影したフィルムは何本か残っているはずだ。

Photo by iStock

 1970年代の後半から1980年代の前半にかけて、ハワイの土産物店で、8ミリのカラー・フィルムによる作品が、ハワイ土産として何種類も市販されていた。

 ハワイの観光名所めぐりのようなフィルムのなかでもっとも人気があったのは、波乗りの魅力を捕らえた作品だった。映写するとひとつのリールが3分ほどだった。この波乗りの8ミリ・フィルムを、白い壁に葉書くらいの大きさで上映し、何人かが頭を寄せてその画面に見入る、という体験は良いものだった。

 あのときのフィルムも、最後に映写したときのままに、何本かがどこかにあるはずだ。

 フィルムを光でスクリーンに投影するという意味で、このハワイ土産の8ミリ・フィルムは、僕にとっての最後の映画だったのだと、いま思う。映画としてきわめて純度の高い、したがって良き記憶として、いまも僕のなかにある。

ポリネシアの映画館での体験

 僕が街で映画を観ていた頃の映画館は、二番館、三番館、といった序列からさらにはずれた映画館であり、それゆえに、と言っていいかと思うが、建物としての構造は、基本的にすべておなじだった。

 1970年代の後半、ポリネシアのどこの島でだったか、木造平屋建ての映画館に、無視することの出来ない親近感を覚えたのは、このせいだ。

 なにかひとつの興味のために、町の人々がひとときそこに集まって過ごすだけという、したがって余計な設備などいっさいない、作りつけの椅子が何列かに、あとはスクリーンに映写室だけという、人がいなければただがらんとした、木造平屋建ての空間は、少なくとも屋内ではあった。

 今日は土曜日だから映画があるよ、と言われて、その建物へいってみた。百人ほどの人たちで席は埋まっていた。

 どの人もおたがいに親しい知り合いのような雰囲気で、大声で喋る、笑い合う、ものを食べる、子供たちは叫びながら走りまわる、という雰囲気のままに、上映が始まった。

 アニメーションとブルース・リーの劇映画との、二本立てだった。ドラゴンのなんとかというそのブルース・リーの映画は、前の年の夏に西宮で観たものだった。西宮のどこだったか、地元の商店街はまだ賑わっていて、その賑わいのなかに、当然のこととして、映画館があった。

 土曜日の夜の、ポリネシアの映画館は、スクリーンになにが映ろうが、劇映画がどのように進展しようが、いっこうにお構いなしに親しく濃密な喧騒のままだった。

 建物の両側、そして客席からはうしろにあたる、建物の正面にはそれぞれ大きなドアがあり、どれもすべて開け放たれたままだった。

 夜風は自在に吹き込み、やがて雨が降り始め、その雨は激しさを増し、ついには豪雨のような降りかたとなった。場所によっては雨滴が体にかかるほどだったが、人々はへっちゃらで喋り、笑い、食べては飲み、子供たちはひたすら騒ぎ続けた。

 カラカウア・アヴェニューのワイキキにあった映画館では、場内が暗くなって上映が始まると、いつのまにか天井が開いていた。夜の星空を直接に仰ぎ見ることが出来た。潮風が吹き込み、館内にある椰子の樹の葉が揺れ動いた。

 小学生だった頃、夏の夜の屋外で、劇映画の上映会がおこなわれた。夏とは、夏休みのある日だ。夜は、ただの夜だ。そして屋外とは、小学校の校庭だった。

 その校庭のしかるべきところに、大人たちは丸太を二本、立てた。その二本の丸太に、スクリーンの白い布を張り渡した。そのスクリーンから適正な距離のところに、大きくて頑丈な三脚を立て、その三脚に映写機を設置した。

Photo by iStock

 スクリーンに向けて椅子がならべられた。いちばん近い教室から運び出した、生徒用の椅子だ。ポリネシアの島の映画館とおなじく、百席はあっただろうか。地面にござを敷いてすわっている人もいた。周囲になんとなく立っている人もたくさんいた。やがて上映が始まった。

 上映中の映画をスクリーンの裏側から観る、という貴重な体験の場だった。スクリーンは常に風を受け、はためき揺れていた。

 丸太に結びつけてあった紐のひとつがほどける、という出来事もあった。スクリーンは片方が垂れ下がった。男がひとり丸太をよじ昇り、スクリーンを引っ張るようにして、紐を丸太に結びつけた。丸太を降りてくるその男に人々は拍手した。

素晴らしいウェイトレスの一言

 なぜかそこだけ覚えている、という種類の場面がいくつも記憶のなかにある。なんの脈絡もなしに、それらの場面を、ふと思い出す。長く一本につながったフィルムのなかの、短い一部分、というフィルムだ。まったく無作為にふたつだけ選んでみた。

 ひとつは『ベン・ハー』だ。

 1959年のアメリカ映画で、「70ミリの巨大画面に古代ローマの歴史絵巻を再現した大スペクタクル」として、いまなお語り草となっている作品だ。ベン・ハーとは、エルサレムの豪族の息子の名であり、彼をチャールトン・ヘストンが演じた。

 この映画のなかに、ジーザス・クライスト、つまり日本語ではイエス・キリストが、ナザレの預言者として、うしろ姿で登場する。

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 ベン・ハーの母親と妹が、不治と思われていた病を得る。十字架に磔にされるという、あの処刑の現場に向かっている途中の彼に、ベン・ハーの母親と妹は触れる。すると病は快癒する。このシークェンスのなかでも、顔は見えないが、イエス・キリストが画面に登場する。

 もうひとつは1984年のFalling In Loveという映画の、日本での題名は『恋におちて』というものだった。

 ロバート・デ・ニーロとメリル・ストリープの演じるふたりが、偶然に出会ったことが恋へと進展することを充分に意識して、最初の夕食をともにする場面がある。客の多い賑やかな店だ。ウェイトレスたちが忙しく立ち働いている。

 ふたりでテーブルにつき、デ・ニーロはウェイトレスにビールを注文する。このウェイトレスが素晴らしい。ごく平凡に考えれば、ウェイトレスを演じただけの若い女優であり、このような役はいまの日本語でも、ちょい役、と呼ばれている。

 しかしこのウェイトレスは、ちょい役の人にしては良すぎる、と僕は確信した。どこからどう見ても、表現されたものに魅力的な深みのある、完璧な女優だ。さすがハリウッドだ、人材の層は厚い、ウェイトレスのちょい役でも、良すぎるほどの人を使うのだ、などと僕は思った。

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 ビールを注文したデ・ニーロに、素晴らしいウェイトレスはビールの銘柄を訊く。デ・ニーロは即答出来ない。きみにまかせるよ、なにか勧めてくれないか、などと彼は言う。忙しい現場で、自分の仕事の領域外でこのような負担をかける男性客のデ・ニーロに、その素晴らしいウェイトレスは、Give me a break.と言う。

 これまで何本もの映画のなかで、Give me a break.という言葉は使われたはずだ。『恋におちて』でこのウェイトレスが言ったGive me a break.は、アメリカ映画史上最高のものだ、と僕はいまでも確信している。

 この場面を観てからずっと、あのウェイトレスは良かったなあ、と何度も僕は思い出した。ずっとのなかの何度は、あっと言う間に、33年間にもなった。いつの間にか、ほんとに、あっと言う間の、33年間だ。

 アイパッドでたわむれに検索してみたら、このウェイトレスのことが、たちまち判明した。当時で31歳のフランセス・コンロイという女優で、このときすでに、俳優としての実績はじつに立派なものであり、現在ではそこに何層もの実績が重なっている。

 おそらくメリルとは親しい友人の関係にあったのではなかったか。メリルに頼まれたフランセスは、まるで冗談を楽しむかのようにこのウェイトレスの役を引き受け、見事に演じたのだ、と僕は推測している。

 この場面もまた、長い一本のフィルムのなかの、ごく短い一部分だ。

出典:『現代ビジネス』講談社 2017年4月9日
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現代ビジネス
2018年10月29日 00:00
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