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帰って来る死体の映像

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──湾岸戦争を観察した」
に収録されたものです。

 湾岸戦争の主としてTVによる報道の基本方針について、No pictures of returning bodies this time.という言いかたがなされるのを、僕は八月のうちに、少なくともまだ季節的に暑いうちに、アメリカのTVニュースで聞いたと記憶している。「今回」とは、ヴェトナム戦争を前回に位置させた上での、今回だ。そして「帰って来る死体の映像」とは、戦死した兵士たちの遺体が金属製の容器に収められ、輸送機で太平洋を越えてカリフォルニアの基地に戻って来る様子、あるいは現地で輸送機に積み込まれたりする光景をとらえた映像を意味している。

 ヴェトナム戦争のときには、報道関係者による現場の取材は、ほとんど自由だった。危険を承知なら、取材をする人は、どこへでもいくことが出来た。撮影も自由だった。その結果として、戦場という現場から、戦争によって生まれるありとあらゆる破壊の映像が、検閲なしで、雑誌に掲載される写真として、あるいはTVで放映される実写フィルム映像として、社会に向けて大量に放たれることとなった。

 あの戦争の戦場で、どこが最前線なのか特定することは、常に不可能に近かった。いたるところに、そして思いもかけない場所に、それがごく当然のことのように、最前線は存在していた。出かけていけば至近距離でかならず猛烈な戦闘になることがわかりきっている場所にでも、取材者はカメラ・クルーとともに出向いていくことが自由に出来た。軍の車輛やヘリコプターにヒッチ・ハイクの感覚で乗り込み、現場に到着したら上官のひとりにも挨拶すれば、そこから先の行動は自由だった。

 ジャングルのなかで作戦行動している兵士たちとともに進んでいき、たとえば休憩時に、兵士たちの様子や会話をフィルムで撮影する。遅くとも二日遅れほどで、そのフィルムはアメリカ国内のTVニュースの材料となる。居間で夜のニュースを見ている人たちは、ジャングルのアメリカ兵のなかに、知った顔を見つける。「あそこの家の、あの息子さん」と指さして驚くことはしばしばあったし、「あ、うちの息子!」という劇的な場合もあった。

 休憩は終わり、兵士たちの行動は再開される。丈の高い熱帯の草のなかを、どこへとも知れずに歩いていくと、突然、前方のジャングルから、彼らは銃撃を受ける。現実の、本物の、戦闘が始まる。アメリカ兵が被弾する。血まみれになって彼は草のなかに倒れる。カメラマンも倒れる。倒れた位置から撮影を続ける。被弾した兵士の顔を左端にとらえている画面の右側で、さらにひとり、アメリカ兵が射たれて倒れる。このような映像がニュース番組のなかで放映されると、射たれて血まみれの、命があるのかどうかすらさだかではない兵士たちは、あそこの家のあの息子さんであり、うちの息子なのだった。

 救援のヘリコプターが来る。ローターの風で草をなぎ倒しつつ、ヘリコプターは着地する。射たれた戦友をかついで、兵士たちは身をかがめつつ、ヘリコプターに向けて走る。その兵士たちが被弾して草のなかに倒れる。カメラマンが無事にその場を脱出出来たなら、彼の撮影したフィルムはサイゴンで現像され、アメリカへ空輸される。東京へ運んでそこから衛星でアメリカへ送る、という手段もあったようだ。

 制限のほとんどない取材による戦争の映像は、アメリカが敵としていた相手の強靭さによって、いわゆる地獄絵図的な様相を、極限に近いところまで高められていた。これをTVで毎日のように見ていると、やがて確実に効いてくる。「視覚をとおして心の内部に蓄積されていくボディ・ブロー」という言いかたを、僕はどこかで耳にし、いまも記憶している。ボディを越えて、ブローはマインドに効いた。いったいこれはなになのか、なにのためにアメリカはこんな戦争をしているのか、という根源的な疑問を、人々に意識させずにはおかない効きかただ。

 ヴェトナム戦争に反対する気持ちは、人々のあいだに充分に高まった。しかしその反戦意識は、いわゆる戦争反対ではなく、自分の国とはなになのか、アメリカとはなにか、政府とはなにか、そして自分とはなになのかという、深刻をきわめた根源的な懐疑の念の、相当に徹底した掘り起こしとしての反戦だった。シンドロームとして尾を引いて当然の出来事だ。

 ごく簡略に言って以上のようなことを、今回の湾岸戦争の報道では、可能なかぎり避けたい、という軍および政府の基本方針を、この文章の冒頭に書いたNo pictures of returning bodies this time.というひと言が、象徴している。湾岸戦争の取材に関して、軍当局が禁止事項としてあげたものは、無数に近くたくさんあった。ほとんどのことが、禁止かあるいは申し出ても許可されないかの、どちらかだった。報道関係者のあいだに不満は大きく、当局の方針に反対する人たちは数多くいた。しかしぜんたいの結果として、当局の取材コントロールは、成功した。報道する側の完敗であった、という自覚の向こうから、戦争の報道とはいったいなになのか、という根源的な問いが出てきた。

 湾岸戦争は本当の戦争だったのだろうか、と僕は思う。生きた敵兵とその国を相手におこなった実弾演習のような、きわめて変則的な戦争ではなかったのか、という思いが消えない。アメリカ軍の動員は巨大だった。必要がないものまで、つまり全軍が、いろいろと試してみる絶好の機会として、動員されたのではないか。しかし、戦場らしい戦場は少なかった。戦場らしい戦場がいたるところに生まれるような戦争、つまり死傷兵が続々と出るような戦争は徹底的に避けた結果だとも言えるが、爆撃や砲撃の多さにくらべると、戦場はどこにもなかったと言っていいほどに少なかった。報道のコントロールがうまくいった陰には、このことも大きく関係しているのではないか。

 可能なかぎりコントロールされた状況のなかから出てくる、主としてTV放映用のヴィデオ映像というものに関して、湾岸戦争はさまざまに考えるきっかけをあたえてくれた。弾頭のレーダーが目標物をとらえ、その目標物に向かって正確に飛んでいき、見事に命中して自ら破裂する場面の、いわゆるピンポイント爆撃の映像は、平凡な人々を相当に驚かせたようだ。軍事目標だけをこのように正確に狙って爆撃するから、今回のこの戦争はクリーンな戦争である、という説明がその映像のあとを追った。命中したところだけの映像、しかも本物であるかどうか誰にもわからないような映像だけが公開されるというコントロールに、言葉によるさらなるコントロールが加えられていく。

 バグダッドへの爆撃では、一般市民のための施設が爆撃を受けた。大きな被害が出たはずだし、死傷者も少なくはなかったはずだ。無差別に爆撃したのか、それともピンポイントの狙いがはずれた結果なのか。一般市民の施設への爆撃は、サダムが作りだしたフィクションなのか。確かなことはなにひとつわからないなかで、アメリカ軍当局からの次のような説明が、もっとも広く受け入れられていく可能性は充分にあり得る。イラク軍の本来の軍事施設が爆撃で破壊されたため、軍は一般の施設に移ってきた。軍の車輛が出入りし、軍の電波が出ている事実を確認したのち、軍事施設として、アメリカ軍は正当な爆撃をおこなった、という説明だ。これを正確に具体的に反証するのは、たいへんに難しい。

 TV用のヴィデオ映像は、付随しているはずの説明どおり、その現実をそのまま撮影したものではあっても、限定された狭い範囲内の現実を写したのであることには、間違いない。撮影カメラがそのときそこにいたということは、そのときのそこだけしか撮影出来ないことであり、画面に映るのはレンズの画角内にあるものだけだ。いくらパンしてもズームしても、カメラがそのときはそこだけにいたという事実に、なんら変わりはない。

 このことから、ヴィデオ映像に対する基本的な不信感、ないしは仮想されたあるいは捏造された現実感が、確実に生まれてくる。別な説明に変えると、おなじ映像がまったく別のものになってしまう。たまたま撮ったもの、意図的に撮ったもの、ずっと以前に撮ったもの、別の場所で撮ったまったく関係ないもの、でっち上げられたものなどが、現実のなかに自由に複雑に入り込み、現実は本当の現実とは違ったものにされていく。現実は意図に沿って誘導される。一方の側による取捨選択がさらにここに重なるのだから、TVで人々が見る映像の、その発生地点を彼ら自身がつきとめることは、事実上は不可能だ。彼らは、ただとにかく見るほかないという、受け身の位置にまわらざるを得ない。そこから脱出するには、見かたというものを習得しなければならない。

 戦争そのものの映像が極端に少なかったのに反して、銃後の愛国心的な場面や事柄についての映像は、じつに豊富にあった、と僕は感じた。愛国心と言えば国旗であり、その色は赤、白、青だ。それに今回は黄色が加わった。兵士たちの無事を祈る、黄色いリボンだ。黄色いリボンの需要は大きく、大量の注文に応えて全力で生産してなお品不足である、という報道を僕は見た。平和や兵士たちの無事を祈る言葉が印刷してある黄色いリボンもあった。そのようなリボンで町ぜんたいを囲んだ大学生たちのことを、話題のひとつとしてニュース番組は取り上げていた。アイダホ州のマウンテンホームという町には、戦闘機のパイロットのトレーニング基地がある。その基地から湾岸戦争に出動した父親をいつも身近に感じていたいと思い、父親のパジャマを着て学校へいく子供のことも、ニュース番組に登場した。二月なかば、湾岸戦争で命を落としたアメリカ兵の、最初の葬送の儀式がアーリントンでおこなわれた様子を報道したなかで、三角に折りたたんだ国旗を、この戦争に関して僕は初めて見た。棺を覆っていた国旗を、縦に二度たたんだあと、端から三角形にたたんでいく。そしてそれは遺族に手渡される。

 銃後の愛国的なシーンが報道のなかで占めた多さは、そのままこの戦争に関する一般大衆の気持ちの反映だったはずだ、と僕は思う。ヴェトナム戦争のときのように、意味もなく大量にアメリカ兵が死ぬことだけはなしにしたい、とにかく生きて帰って来てほしい、という気持ちだ。アメリカの愛国心は陰影を深めた。そしてその深まりは、外国の戦争にアメリカの兵士たちが出ていくのはもう嫌だ、やめにしたいという感情に、はっきりした輪郭をあたえたようだ。

 市民の思考や行動の自由度において、少なくともいまのところ、世界でもっともその度合いが高いのは、アメリカだ。このアメリカで、政府や軍当局が市民ぜんたいを意のままにコントロールすることなど、とうてい不可能なことだ。湾岸戦争の報道に関して、政府や軍は、彼らに出来ることとして残されている最後の部分を、限度いっぱいに使った。情報の出口を徹底的にコントロールすることをとおして、その出口からもっとも遠いところにいる普通の市民たちの考え方や反応のしかた、感情の動きなどを、最終的に大きく一本の流れにまとめていくという操作を、彼らは試みた。その試みは成功した、と僕は思う。

 湾岸戦争に出動したアメリカ兵の平均年齢は、二十七歳だということだ。なんという若さだろうと思うが、中年の予備兵が多く召集されたことによって、兵士の平均年齢はこれでもずいぶん上がっているという。肉体的にもっとも負担の大きい歩兵の平均年齢は、ちょうど二十歳だった。「夜の砂漠で今夜も彼らは眠る」と、取材に来たダン・ラザーは言っていた。「彼らはなにを思うのか。彼らの明日は、どうなるのか。今夜、もしあなたがなにごとかについて考えたい気持ちになったなら、砂漠にいる歩兵たちのことを思ってほしい」と、彼はある日のレポートをしめくくった。

 兵士たちは、たとえばTVニュースの取材カメラに向かってなにかを語らなくてはならないとき、ホームとジョッブという言葉を多用した。ホームとは、自分の国であるアメリカ、そして出動前に住んでいた町、そのなかにある自分の家などを広く意味している。ジョッブとは、兵士として戦場へ来ている自分の仕事、つまり敵と戦ってそこから生きて抜け出てくることだ。「イラクに向けて北へ攻めていけばいくほど、自分はホームに近くなる」と、地上戦が始まったとき、若いアメリカ兵のひとりは言っていた。「人を殺すのは良くないことだけど、とにかく戦ってジョッブを終わりにして、早くホームに帰りたい」と、兵士たちは言った。家族からの便りも、兵士たちにとってはホームだ。家族だけではなく、アメリカの人たち全員の関心や祈りも、彼らにとってはホームだった。ホームとは愛国心であり、いつものライフ・スタイルでもあった。ライフ・スタイルを守り抜くのが愛国心であり、その両者を結びつけるものは、必要なら軍事行動を採択するというリアリズムだ。

 輸送船で帰って来た兵士たちを、港の埠頭で家族が出迎える。軍服姿に個人装備を持ったまま、兵士たちは妻と抱き合い、腰を落として幼い子供を抱き寄せる。そのとき彼は片手にまだライフルを持ったままだ。ライフ・スタイルという日常と、それを守るための戦争とは、愛国心によってどこまでもひとつにつながったリアリティだ。 「私の恋人を戦場にいかせたくない」という気持ちは、原理的にはたいへん正しくて美しい。しかし、妻も母親も、誰かの恋人である独身の女性も戦場へいったというリアリズムのなかでは、そのような気持ちは、きわめて主観的で自己中心的な、脆弱さをきわめた幻想でしかない。そのような幻想は、ほとんどすべての現実を、じつは引き受けることが出来ないし、引き受けることをあらかじめ拒否してもいる。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年8月8日 00:00