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キャロル・ホルトグリーン

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──遠近法のなかへ」
に収録されたものです。

 キャロル・ホルトグリーンはF–14という戦闘機のパイロットだった。アメリカの女性の軍人だ。航空母艦への着艦訓練をしていたとき、彼女の機体はエンジン不調におちいった。母艦のすぐそばで機体ごと海に墜落し、キャロルは命を失った。うしろの席にいた同僚は、墜落寸前にベイル・アウトして無事だった。

 このときの様子はヴィデオに撮影されていた。その映像を僕はCBSの『イーヴニング・ニュース』で見た。航空母艦の着艦デッキが、こちら側から向こうへ、画面の下に縦位置にとらえられていた。そのデッキに向けて、海の上の超低空を、キャロルのF–14が進入して来た。機体は左に傾いていた。左のエンジンは明らかに停止していた。着艦を誘導する担当者は、「ベイル・アウト! ベイル・アウト!」と、無線をとおしてキャロルに叫んでいた。機体はさらに左へ傾きつつ、大きく左へそれて海へ墜落した。

 左エンジンの作動不良におちいった機体をなんとか救おうと、自分に出来るあらゆることを彼女は試みていたのであり、彼女の操縦ミスという可能性はゼロであるという正式な発表が、その事故からかなりあとになっておこなわれた。彼女の事故の直後から、彼女を中傷する文書が出まわった。キャロル・ホルトグリーンは女性であるという理由だけで特別扱いを受け、求められている水準に技量が達しないままにF–14のパイロットになったのであり、今回の事故はそのことの当然の結果だ、という内容の文書だ。

 この文書が男たちの側から発せられたものであることは、まず確実だ。内容の一部がおなじニュース番組で読み上げられるのを僕は聞いたが、なんとも言いようのないみじめなものだった。キャロルは戦闘機のパイロットとして充分に一人前であったという発表は、事故原因の発表であると同時に、この怪文書による中傷を正式に否定するためのものでもあった。女性の兵士たちについて考えるとき、彼女たちは女だから、という発想が思考の発端となる人がいまも多数いるに違いない。

 ごく最近までは、軍隊は男だけの世界だった。そこへ女性が入って来た。いまでは軍隊のどの部署にも女性がいると言っていいほどに、女性兵士の数は増えた。そのこと自体に対する男性の側からの反感は、いまも根強い。男だけの世界を伝統として守ってきたミリタリー・アカデミーに女性が入学を試みると、アカデミーの内外からさまざまな反対意見が出て賛成意見と衝突しつつ、地域社会ぜんたいの問題となったりする。伝統を伝統として守ることには意味があるし、とにかくどこへでもいいから女性も進出すればいいというものでもない。しかし、軍のなかでの女性の数は増えるいっぽうだし、位置も向上を続けている。

 アーリントンの儀礼兵に女性が加わるべく、連日の厳しい訓練を何人かの女性たちが受けている報道を、僕はごく最近に見た。女性のドリル・サージャントが、新兵をすさまじい勢いでいじめ抜いて基礎訓練をほどこしている様子も、ニュース番組のなかに見た。ブート・キャンプへ取材にいけば現実を目のあたりにすることが可能なはずだ。戦闘機の女性パイロットは珍しい存在ではない。

 アメリカ海軍の航空母艦にドワイト・D・アイゼンハワーというのがある。乗組員の総数は五千人だ。五千人といえばちょっとした町の人口だ。この五千人のうち四百五十人が女性だ。六か月のトゥアー・オヴ・デューティを終えて母港に帰還したこの航空母艦を、『イーヴニング・ニュース』が取材していた。「航空母艦の乗組員であれなんであれ、女性が軍務に適していないという考えかたは完全に間違っている」と、艦長は語っていた。クルーの一割近くが女性であるこの航空母艦は、男女のじつに見事な共存組織だということだ。

 着艦トレーニングのやりなおしのために離船を命じられた戦闘機のパイロットには、女性もいたし男性もいた。厳密に計測されるのは兵士としての能力であり、性別などではない。航海中に妊娠した女性が何人かいた。このためU・S・S・D・D・アイゼンハワーは、ラヴ・ボートという愛称を一時的にもらった。妊娠した、というのは正確ではない言いかただ。航海中に妊娠が進行した、と言うべきだろう。寄港先で配偶者が待っていれば、そこで妊娠があってもなんら不思議ではない。

「水の消費が激しいんですよ」と、艦長は語った。「女性の乗組員が頻繁にシャワーを使うせいかと思って調査したところ、まったく逆なんです。女性がいなければ二日に一回しかシャワーを浴びない男たちが、みんな一日に二回もシャワーを使うということが判明しましてね」

 女性の戦闘機パイロットが敵との戦闘フライト・ミッションに加わることを、国防長官が許可するとかしないとかの話が出ていたのは、ほんの三、四年前のことだ。リチャード・チェイニーは賛成し、軍の上層部は反対し、公聴会が開かれるというようなことが、確かあったはずだ。狭い艦内に寝台が何層にも密集する航空母艦や潜水艦には、女性の乗組員は認められないという意見がこのとき出ていた。現実はそんな意見をとっくに置き去りにして、はるか先を進んでいる。

 航空母艦の女性乗組員が総員の一割に達しようとしているとき、女性兵士というものに対して明らかに消極的だった陸軍と海兵隊が、合計で八万人分のポストを女性に開放することになった。これがそのまま実現されると、アメリカの全軍の八割以上が、男女の性別を問わない場所になるという。地上で敵兵と射ち合って戦争する任務の部隊と、そのような任務に直接に関係する部署にだけは、少なくともいまのところは女性は許可されていない。

 女性の数が急激に増えていきつつあるアメリカの軍隊を取材する機会として、湾岸戦争は絶好だったはずだ。取材すればよかった、といまになって僕は思う。いまからでも遅くない。湾岸の映像は大量に残っているはずだし、現状というものは、それがあるところへいけばそのままそこにある。女性兵士が増えていく軍隊というものをとおして、アメリカという国家を描くことは充分に可能だし興味深い。

 湾岸戦争のさなか、サウディ・アラビアの上空で、空中給油機から戦闘機に給油しているアメリカの女性兵士という存在について、ほんの一例として僕は思う。航空燃料を大量にかかえた巨大な給油機が、サウディの上空を飛んでいる。窓の外には、一見したところ強烈に晴れた空しかないが、じつは給油機を中心にして、燃料をほぼ使いきって補給を受けに来た戦闘機で大渋滞している。それらを一機ずつ無線でさばきながら、二十代の女性兵士が、ごくあたりまえのことのように、任務をこなしていく。

 ひとつ前の世代の空中給油機では、給油をする管であるブームのオペレーターは、腹ばいになってブームを操った。いまの給油機ではオペレーターは座席にすわってブームを操作する。座席のすぐ前に四角い大きな穴がある。給油機の胴体後方の、真下だ。給油を受けに来たレシーヴァーである戦闘機を、この穴から直接に、オペレーターは見ることが出来る。穴の外の上方から、給油ブームが斜め下に向けて伸びていく。ブームには動翼があるから、オペレーターはそれを操舵することが可能だ。

 給油ブームの長さは伸びきって十二メートルほどだ。つまり給油機の胴体のすぐ下、十二メートルほどのところに、レシーヴァーの戦闘機が位置することになる。高度は三千フィートほどだ。まわりは要するに空であり、下には雲や地表が見える。自分に向けて伸びているブームに向けて、戦闘機のパイロットは機体を接近させていく。

 給油機のブーム・オペレーターは、ブームの鮮やかに彩色された先端で、レシーヴァーの受油口を狙う。F–14なら左の主翼のつけ根の前方に衝突防止灯がある。このランプのすぐ左に受油口がある。ブームの先端が受油口に入ると、それは自動的に固定される。そして毎分千五百ガロンの航空燃料が、給油機からレシーヴァーに向けて流れ始める。ブーム・オペレーターの技量は、給油時間の増減に決定的に関係する。

 給油機と戦闘機という、ふたつののっぴきならない現場の接点で、冷静に沈着に的確に、そして戦闘機のパイロットの冗談に言い返すことすらしながら、任務をまっとうしていく彼女のなんというアメリカらしさであることか。そのアメリカらしさの背後に、アメリカという国の力を僕は確実に見る。

 日本についても、僕は思わざるを得ない。自立した女性とか、仕事を持って生きる女性というようなイメージを、現実というしがらみとどのように折り合いをつけていくか、というごく初歩的な段階の日本から見ると、アメリカの女性兵士たちは、比喩で言うなら何光年も引き離した前方にいると言っていい。初歩的なだけではなく、大きく欠落したものが、日本の遅れ具合のなかにあるようだ。欠落しているものとは、たとえば国家観あるいは歴史観だ。国家観とともに、軍隊や戦争、そしてその他の、国家とのさまざまな関係などについての思考や実践も、抜け落ちている。そういったことについて、考えようと試みることすらもはや出来ない状況が、いまの日本の人たちにはあるようだ。

 新しい可能性としての、軍隊という組織。アメリカは、自分たちの軍隊に関して、このような可能性を見ている。男女の性差とともに、あるいはそれよりも先に人種差に関して、たとえばアファーマティヴ・アクション(積極的差別是正措置)とはなんの関係もないまま、他に例のない白と黒との見事な共存をアメリカの軍隊は持ってきた。ずっと以前からそうなのではなく、以前には人種差は厳しく存在し機能してもいたが、ヴェトナム戦争よりこちら側という短い歴史で言うなら、アメリカの軍隊のなかでは白も黒も褐色も、差を設ける根拠としてはほとんど機能していない。

 軍隊は完全な能力社会だ。部署のひとつひとつにファミリーとしての強いつながりがある。差はひとりひとりの兵士の能力や訓練度、そして階級だけだ。黒が白を怒鳴りつけ、しごき上げ、こき使う光景は、少なくとも軍隊のなかでは、ごく普通にあるものだ。軍隊のなかでは人はチームを組んで活動する。チームを構成する全員が、目的とその達成のための技術でつながっている。日常というしがらみから明確に切れた世界で、全員が等しく機能しなければならない。肌の色など、そのことになんの関係もない。出来る奴は昇進していく。あまり出来ないのは、おなじ位置にとどまる。ただそれだけのことだ。

 しかし、将軍の位置になると、有色の人は極端に少なくなる。これは別の問題なのだろう。別の次元の問題を解決するには、もっと長い時間が必要なのだと考えなくてはいけない。志願兵の三十パーセントが黒人だ、という数字がある。黒人がこれだけの数になってくると、上層部にも変化が出来始めて当然だ。変化がもしなければ、そこでアメリカの軍隊は二流以下に転落する。

 仮想敵国からの攻撃に対して、全軍のあらゆる部署が、一日二十四時間いつでも、一年三百六十五日いつでも、即座に迎撃と攻撃に移ることの出来る態勢というすさまじい機構を、世界最大のスケールで、この五十年間、アメリカは維持し続けてきた。技術開発力や生産能力のずば抜けた高さ、資源の途方もない豊かさなど、すべてのハードウエアの向こうに、明確きわまりない国家観と歴史観、そしてそれらのおなじく明確きわまりない市民的共有というソフトウエアが、アメリカの力として横たわっている。そしてそれが、たとえば旧ソ連を囲い込んで外とのつながりを断って密室として孤立させ、西側から完全に切り離して崩壊させることをとおして、西側へ引き込むことに成功した。まだ副大統領だった頃にニクソンが言ったとおりの展開となった。

 昔、たとえば開拓時代には、男女の性差はあって当然だった。それがなければ社会は機能しなかったはずだ。開拓時代は終わって久しく、全土は基本的にはすべて都市化されたと言っていい。都市のなかで生きていくとは、頭脳労働の切り売りをいかに巧みにおこなうか、ということだ。頭脳労働をするにあたっては、そしてその質に関しては、男女のあいだに性による差などありはしない。そのような視点から、社会のなかにいまでも無数に残っている性差をあらためて観察すると、性差というものの異様さが浮かび上がる。その異様さを、ひとつひとつ消して普通にしていこうとする試みを、アメリカ社会は続けてきた。この意味で、アメリカは完全に都市化をとげただけではなく、少なくとも意識の上では、充分に成熟していると言っていい。

 女は割りを食うという思いと、その思いを支える現実は、しかし、まだ社会のなかに強固に残っている。テキサス女子大学という大学が共学に変えたところ、女性の学生たちは反対した。反対の意思表示に込めた彼女たちの力は、たいへんに強いものだった。男性が入って来ると女性はかならず二次的な存在となり、すべての点において女性は割りを食うこととなり、大学ぜんたいが男性原理となってしまうから、というのが共学反対の理由だ。女子大としての伝統を守るというようなことではなく、女性が女性主導で教育をまっとう出来る場を確保しておきたい、ということだ。

 上下両院の議員選挙に関する、男女比の数字は興味深い。選挙活動で使う資金は、男性の一ドルに対して女性は六十七セントだという。資金総額をくらべると男性と女性の比は二対一だ。資金になぜこのような差が出るかというと、女性の候補者には女性から寄付が多く集まるからだ。数としては比重は大きいのだが、寄付された金額の総計となると、さほど多くはならない。女性にも開かれている就労チャンスは男性にくらべて少なく、給与所得は男性より低い。その結果として、議員候補者に女性たちが選挙資金として寄付する金額は、男性からのものにくらべると低くなる。

 両院のオフィス・ホールダー、つまり両院でなにかの部署の長になっている女性は、男性にくらべるとたいへん少ない。資金というものはオフィス・ホールダーに流れる。だから女性には資金は流れにくくなる。選出されて長の位置につくオフィスを、女性議員は男性にくらべて五分の一しか獲得していない。一九九三年の数字だったと思うが、女性のオフィス・ホールダーは下院で二十九名、上院では二名、そして知事は三名だった。

 普通の日常生活にもっと近い領域の数字をあげるなら、一年間にアメリカ国内で殺される四千五百人の女性のうち、三人にひとりは夫ないしはボーイ・フレンドによって殺されるという、驚嘆すべき数字がある。女性は結婚すると殺される率が急上昇する、という言いかたがアメリカにはある。殺されるとは、夫によって、という意味だ。結婚すると、という言いかたを、男性とかなり親しくつきあうと、というふうに換えなければならない、と最近では言われている。アメリカの女性が殺されたり強姦されたりするのは、よく知っている男性や親しい男性、そして夫によってであるというのは、残念ながら正しい。

 彼女は女だから割りを食わせても構わないという根強い考えかたは、キリスト教を背景にして成長してきた近代の自我のなかにある。その自我は、進歩や発展をしなければ、最終的には評価されない。発展したり進歩を遂げていくことが期待される領域のなかに、女性は含まれていなかった。女性のほかには、老いること、あるいは老いた人たち、病気、病気の人たち、そして死そのものなどがあった。老いには敬意が表されるべきとされ、病には進歩した治療があり、死に関しては尊厳が語られている。かなりのところまで女性もすくい上げられた。自分たちの近い過去である近代というものを、徹底的に懐疑的な視点から検証しなおすトータルな作業が、じつはフェミニズムだった。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年7月18日 00:00
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