アイキャッチ画像

一九六七年の風景に淡い思い出が甦る

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 この本に収録されている二百二十七点の写真のうち、時間的にもっとも遠いのは一九六六年に撮影されたもので、現在にいちばん近いのは一九九七年の撮影だ。失われた東京の街角の景色と気楽に言うけれど、一か所あるいはせいぜい二か所を例外として、他のすべての景色が消えてしまって存在しない事実に、僕は自分というひとりの存在の核心において、戦慄を覚える。そしてその意味において、東京はこの上なく怖いところだ、と僕は言う。

 戦後の日本は経済を最優先させてきた。経済さえ拡大され上昇していくなら、そしてそれによって政権が維持されるなら、あとは野となれ山となれ、という方針のなかに、多くの人々の生活の安定など、まったく想定されていなかった。経済がうまくいけば最後に恩恵を受けるのは人々だ、という考えかたのもとに、人々の生活などは、無視されたのではなく、そんなものはそもそも存在していない、と規定された。

『昭和の東京1 新宿区』という写真集を見ながら、それにしてもすべてが見事に消えたものだ、と僕は感慨を深める。経済だけがあり、それ以外のものは存在しない、という方針のもとに、経済のさらなる拡大のために、東京は再利用の連続のなかに取り込まれた。いまはこのように利用するけど、それはもう終わりだから、次はこのように利用する、という方針は過去を作らない。作られないものが残るわけがない。だから東京は消え続ける。東京に生きるとは、喪失の歴史を生きることだ。人々は失い続ける運命にある。

 撮影者の加藤嶺夫さんはニコンのFMという一眼レフ二台に、五十ミリと三十五ミリのレンズを、それぞれ装着していたという。撮影時にもっとも注意したのは、建物の垂直線が内側に倒れないように撮る、ということだった。そして使った白黒のフィルムは一日に一本だった。現像したネガを入れて折りたたむスリーヴをはさむボール紙の表紙に、撮影順に場所と方向を記録した。

 こうして撮影された写真を一冊の本のなかでいま見ると、もの静かに撮られた白黒写真が発揮する、事実に即した雄弁さを僕は存分に受けとめる。見てはいたけれどろくになにも目にとめてはいなかった、二十年前、三十年前の街角の景色のディテールを、自分の体感のなかに確認しようとしても、そんなことはまったく可能ではない。東京に生きた僕は、そうとは知らぬままに、じつは失うことにかまけ続けた。

 画面の片隅に当時の自分がいないものか、とも思う。白黒写真だからジャケットもスラックスも黒く、シャツだけが白い、リーゼントに暗い顔をした手ぶらの青年がいれば、それは一九六六年の僕かもしれない。

 写真番号192は外堀通りの神楽坂下から神楽坂通りの上り道を画面のまんなかにとらえたものだ。六七年七月二十七日だったという。この景色を写真でとはいえ再び見ることが出来るとは。上り坂のすぐ手前の右側にある建物の屋上の広告塔に、軽い心、と読める。その上に英文字でクラブとあるが、ホステスたちのたくさんいた、ナイトクラブとキャバレーの中間のような大箱だった。

 中央線からこの広告塔を何度となく見た。軽い心という店へ重い気持ちでいってみようではないか、とその当時の友人たちと、しばしば冗談を言い合った。冗談は思いがけない方向で現実となり、それゆえに、思い出深い場所となった。喪失の日々にも淡い思い出はひとつふたつある。

出典:『週刊朝日』2013年6月28日号


『週刊朝日』 片岡義男の書評
2018年4月25日 00:00
サポータ募集中