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均衡を失う日本を考えるための定点

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〈書評〉パール・バック著、丸田浩監修、小林政子訳私の見た日本人

 パール・バックの両親は一八八〇年、明治十三年に、アメリカから中国へ渡った。父親は理想に燃える宣教師、そして母親はその新婚の花嫁だった。中国に到着するまでに、横浜、神戸、長崎と寄港し、そこで知った日本が、ふたりにとっての最初のアジアとなった。

 両親は何度となくアメリカと中国を行き来したようだ。一八九二年、明治二十五年、アメリカで生まれたパール・バックは、幼くして中国へ渡ってそこで育ち、大学教育はアメリカで受け、人生の前半と言っていい四十年ほどを、戦乱の続いた中国の農村部で過ごした。一九三四年にアメリカへ戻ってそこに永住する前の二、三年間、家族とともに九州の雲仙で生活した。アメリカの作家として成功を収めた人の経歴として、あるいは自身の体験として、これは希有なものだ。

 本書『私の見た日本人』は一九六六年にアメリカで出版されたものだ。パール・バックは一九七三年に没したから、この作品は晩年のものと言っていい。原題は訳者のあとがきにあるとおり、「日本の人びと」だが、日本とその人々はパール・バックがとらえた日本とその人たちなのだから、『私の見た日本人』という題名は、これ以上ではあり得ない正解だ。

『私の見た日本人』には、パール・バックが子供の頃から体験した日本がさまざまなかたちで含まれているはずだが、描かれている日本とその人たちの時代背景は、一九五〇年代の終わり頃から一九六〇年代の前半にかけてだろう、と僕は推測する。パチンコの玉が百円で五十個買えた時代だ。入ると玉が十五個出て来た穴が、一台のパチンコ盤に八か所あった。

 白黒とカラーの写真が数多く収録されている。同行した男性が日本で撮影したもので、カラーのフィルムはアンスコクロームのネガだったという。使用した写真機とレンズは現在のニコンが提供した。いい写真だ。「事物や情景を微細に見つめて本質をつかみ見事に表現する力」と訳者が書くパール・バックの優れた能力の充分に発揮された文章を、写真は美しく補完している。

 日本は外国からさまざまなものを取り入れ、日本に合わせて改良して大いに活用したけれど、日本そのものを変えることはけっしてなかった、とパール・バックは書く。「外見や生活様式は変わっても、日本人は基本的に変わらないことがはっきりしてきます」。外国のものをただ真似るのではなく、創造的に利用したのだという。「日本人は出会ったどの文化からも最高のものを見つけ出す人たちです」とも彼女は書く。

 かつて日本で撮影された写真をひとつずつ見ていくと、子供から大人への境目あたりで僕も確かにこのような日本のなかに生きていた、とは思うけれど、いまはもうどこにもない日本だよ、とも思う。かつて存在した日本と、いまはもはやどこにもない日本という、おたがいに真反対へと向かうふたつの日本は、明らかに均衡を失って久しい。かつての日本が急速に消えていき、いまはもうどこにもない日本となると同時に、これまでどこにもなかったような日本が、次々に重層的に出現しては、次のものと入れ替わっていく。

『私の見た日本人』にとらえられた日本とその人々を、五十年、六十年前の、便宜的な定点として理解すると、そこから現在にいたるまでの日本とは、外からさまざまな事物を取り入れては、自分たちの都合に合わせて活用するという変わることのない原則の、いまはこれですという程度の、単なる延長線上における、単なる現在としての、活用形態でしかないのだろうか。

 いつまでたっても、なにがあろうとも、変わらない日本、変わることの出来ない日本、というものについて、多くの人が語る。変わらない日本について考えるための定点として、本書はその機能を失っていない。

出典:『週刊朝日』2013年5月31日号


『週刊朝日』 片岡義男の書評
2018年4月23日 00:00
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