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自動車泥棒のビューイック・リヴィエラ

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 写真のなかで左から二番目にある『自動車泥棒』という小説は、シャーウッド・アンダスンの『オハイオ州ワインズバーグ』とともに、僕にとってはもっとも記念的な小説だ。読みながら受けとめたスリルと共感の密度や高さ、そして読み終えた僕の内部に残った感動の深さなどにおいて、このふたつの小説を越える作品に、僕はまだ出会っていない。

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 作者のセオドア・ウィーズナーにとって、おそらく処女作だった『自動車泥棒』は、一九六七年に刊行された。評価はたいそう高く、なにかの賞を受賞した。写真のなかにあるペイパーバックになったのは一九七三年で、僕は七十年代のなかばまでには、このペイパーバックを手に入れていた。ぜひ読まなくてはと思いながら、読まないままに時間は経過していき、ついに読んだのは一九八十年代のなかばだったと記憶している。

 シャーウッド・アンダスンの『オハイオ州ワインズバーグ』では、登場する人物たちを近すぎもしなければ遠すぎもしない、絶妙な距離から子細に観察した。僕はたいへんな感銘を受け、それによって作家への道へなかば無意識に自分を向けたほどだったが、その僕は『オハイオ州ワインズバーグ』という作品の外にいる人であり続けた。『自動車泥棒』の場合には、物語のなかへ引き込まれていくと同時に、主人公の高校生、アレックス・ハウスマンに自分が重なり続けることを、僕は体験した。言葉で書かれた彼に、それを読む僕が刻一刻と重なっていくとは、言葉を介して読み手の僕が自分を彼へと置き換えていた、ということに他ならない。

 主人公のアレックスは十六歳くらいではないだろうか。ミシガン州の自動車工場の町に住む高校生だ。両親は離婚し、自動車工場で工員として働いている父親とふたりで暮らしている。父親が作業衣のまま帰宅して部屋に入ると、工場に常に充満しているさまざまな工業オイルの匂いが発散される。おだやかな人だが夜の十時過ぎにシフトが終わると、素面で帰って来ることは珍しく、バーが閉店になる午前二時をまわってから、強く酒の匂いをさせながら酔っぱらって帰宅することが多いという、本人にとっても息子のアレックスにとっても、つらい状況だ。

 アレックスには弟がひとりいるのだが、離婚した母親に引き取られ、アレックスとはすでに疎遠だ。母親は人生がうまくいっている男性と再婚して裕福に暮らし、アレックスとその父親とは階層的に別世界の人となっている。アレックスはもの静かな少年だ。バスケット・ボールの選手であることを別にすると、特にどこがどうということもない、目立たない存在だ。自分がなにをどうしたいと思っているのか、周囲の人たちにはややわかりにくいタイプだろう。

 しかし彼は彼なりに思っていることは深いし、思うという営みそのものが、たいそう複雑だ。街角でなにげなくふと盗んだビューイック・リヴィエラで冬のミシガン州の町を走る冒頭の場面から、彼の物語は始まっていく。読み進めば進むほど、読む側である僕という人は、作中のアレックスへと、置き換えられていった。これほどまでに徹底して自分が作中の人物に置き換えられた体験を、僕はこの小説で初めて持った。

 アレックスと僕とのあいだに、共通点はいっさいなにもないと言っていい。かたやミシガン州であり、かたや東京の片隅だ。おなじような境遇はまったく体験していず、物理的な隔たりは大きいのだが、感情の深みのなかでは同一人物ではないか、と僕は彼の物語を読みながら何度も思った。これは僕だ、僕の話だ、と本気で思いながら、僕は最後まで読んだ。

 物語の背景となっている時代は一九五九年だ。この年にアレックスは高校の二年生ないしは三年生なのだから、現実の僕とのあいだの年齢差は、あったとしてもせいぜい三歳ほどだ。小説のなかに言葉として存在しているアレックスは、その言葉をひとつずつ読んでいく僕と、少なくとも年齢的には、成長途上の感受性形成期のなかの、ほぼおなじ地点にいるのだ。僕が『自動車泥棒』を読んだのは四十代のなかばだったが、言葉をたどって物語のなかに入ると、一九五十年代の終わり近くに高校生だった自分へと、直ちに、全面的に、戻ることが出来た。

 アレックスをめぐってその物語のために費やされる言葉のひとつひとつが、僕のための言葉だった。書き込んであるすべてのディテールが、ひとつ残らず、僕にとって切実に当てはまるディテールだった。単なる外面的なリアルさをはるかに越えて、あらゆる言葉が僕にとっては思い当たることのあるもので、それ故に、すべての言葉は僕の深内部へと浸透し、僕そのものとなった。いま『自動車泥棒』を読み返すなら、冒頭のワン・パラグラフでたちまちにして、アレックスへ、そしてその分身である自分へと、僕は戻ることが出来る。

 小説という創作された架空の世界のなかでの他人事、などとはとうてい思うことの不可能な、まさに自分のことであるアレックスの物語は、父親のライフル銃による自殺をへて、アレックスが陸軍に入隊するところで終わっている。十七、八歳ですでにほとんどすべてのことがうまくいかなくなっているつらい人生を、陸軍という俗世間からは隔離された組織に、彼は自らをいったん預ける。入隊のくだりなど、ほんとに人ごととは思えない。

 著者のセオドア・ウィーズナーは、十六歳でハイスクールをドロップ・アウトし、アメリカ陸軍に入隊して三年を過ごし、その何年かあと、ミシガン・ステート大学とアイオワ大学で学んだという。彼は自分のなかに深く横たわる感情を、『自動車泥棒』という小説のなかで、アレックスへと見事に置き換えた。そのアレックスに僕が自分のすべてを見ることをとおして、僕は自分をアレックスに置き換え、それによって僕は、自分のなかにある感情の深みへと、降り立つことが出来た。文学にのみ可能な離れ業だ、と言うほかない。小説の言葉を仲介して、自分がこれほどまでに自分を他者と置き換えることが出来るのかという、心からの驚きをともなった発見は、それ以後の僕にとって、おそらくもっとも重要なものとなったはずだ。

 写真のなかで『自動車泥棒』のうしろにあるペイパーバックは、『ザ・トゥルー・ディテクティヴ』という一九八七年の作品だ。その他に、インターネットを経由してアメリカの古書マーケットから手に入れた小説が三冊ある。一九九〇年の『ウィニング・ザ・シティ』と、一九九四年の『ノヴェンバーフェスト』、そして二〇〇〇年の『港の灯』の三冊だ。作品はまだ他にもあるが、ニュー・ハンプシャーのポーツマスに住んで大学で教える仕事を持つという、静かな生活を送る著者としては、ほどよい間隔を保って作品を発表することが出来てきたようだ。

 いま僕は『港の灯』を読んでいるところだ。写真のなかでは横たわる三冊のいちばん上にある、ハードカヴァーよりはずっと小型なペイパーバックだ。分量はさほどない。一九六七年の『自動車泥棒』から三十三年が経過している。時間としてはたいしたことはないが、推測される著者の年齢から言って、三十三年が経過すれば、作家としての最終到達点のすぐ近くまで来ているのではないか、と僕は思う。いま半分ほど読んだところだが、僕の予測はどうやら当たっているようだ。

出典:『Free&Easy』2009年4月号


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2018年3月30日 00:00
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