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『第三の男』を、やっとこうして楽しんだ

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 一九四九年のイギリス映画『第三の男』を僕は子供の頃にたしか下北沢のオデオン座で観た。面白い映画は西部劇しかないという子供だったから、『第三の男』はつまらないと思った。そしてそれっきりとなったままだったが、ときどき妙に気になるときがあった。傑作として評価されているこの映画を、つまらないと思った子供の僕はなにだったのか、という気になりかただ。

『第三の男』と言えば、監督のキャロル・リードや主演女優のアリダ・ヴァリ、そしてジョーゼフ・コットンとオーソン・ウェルズというアメリカの男優たち、さらには撮影を担当したロバート・クラスカー、背景音楽としてチターを演奏したアントン・カラス、語り種のようなラスト・シーンなど、いまだに話題となるきっかけはたくさんある。原作はグレアム・グリーンだというのも、そのなかのひとつだ。

 だから僕は『第三の男』の原作をペイパーバックの山のなかに探してみた。おなじ内容のものが三とおりあった。そのうちのひとつ、一九九九年にペンギン・ブックスから刊行された、『第三の男』としてはもっとも新しい版で、原作を読んでみた。小説として書かれたものではなく、キャロル・リードによって映画になる物語の、おおまかな外枠だけを小説の文章で中編ふうに書いたものだ、ということを初めて知った。

 死んだ友人の埋葬に立ち会った寒い二月の次の週、街の雑踏のなかでその友人と偶然にすれちがいながら、友人のほうはまったく気づいていなかった、というアイディアないしは思いつきを紙切れにメモしたことから、『第三の男』は出発したと、グリーン自身がまえがきのような文章のなかで書いている。発端と言うべきか、それとも核心と呼んだほうがいいのか、とにかくこれほどに小さな、ほんのちょっとしたところから、小説にしろ映画にしろ、物語というものはスタートしていくのだ。

 第二次大戦が終わってまだ間もない頃のウィーンが舞台になっている。ソヴィエト、イギリス、フランス、そしてアメリカの四カ国によって統治されていた頃だ。そのウィーンの寒い冬の雰囲気はよく出ているし、謎が謎を生んでいく過程は無理なく物語となってはいるけれど、その物語の核心の部分、つまりスクリーンをとおして観客に提示する普遍的な主題は、そのぜんたいがごっそりと抜け落ちたままだ。これでは映画にならない、と僕は思った。しかしその原作は映画になり、いまは古典的な傑作の位置にある。ということは、この大枠をもとにキャロル・リードとグレアム・グリーンが、クリエイティヴな議論を延々と重ねた、ということにほかならない。そしてその結果がどうなったかは、映画のほうをもう一度観れば、よくわかるのではないか。

 五百円で市販されているDVDを買って来て、僕は『第三の男』を五十数年ぶりに観た。物語の大筋はすでに知っている観客の僕にとって、映画『第三の男』はじつに論理明晰な絵解きだった。面白く観た。つまらなかった、という子供の頃の感想は、訂正しておかなくてはいけない。あるときふと謎の一端が姿を見せ、なにげないように見えてじつは計算づくのちょっとした描写を重ねては、謎にいろんな方向から影をつけていくと、謎はいつのまにかその怪しさを深めていく、という監督の意図を、撮影監督のロバート・クラスカーは見事に実現させている。クラスカーはこの作品でアカデミーの撮影賞を手にした。助監督を務めていたのはガイ・ハミルトンだったのを知ったのは、僕にとってはうれしい発見だった。

 西部劇小説を多作しているアメリカ人の作家、ホリー・マーティンズは、幼なじみの親友、ハリー・ライムという男から、よかったら遊びに来ないか、と誘いの手紙を受け取る。ハリー・ライムはいまウィーンにいるという。誘いに軽く乗ったホリーは、呑気にウィーンにあらわれる。そしてハリーが事故死したことを知る。つまらない自動車事故で命を落としたという。遺体が埋葬される葬儀にホリーは立ち会う。

 埋葬された遺体はじつはハリー・ライムではなく、死んだことになっているハリーは生きている、というのがこの物語の謎だ。ハリーは病院からペニシリンを横流しさせ、それを薄めて闇で売りさばき、大きな儲けを上げている。そのペニシリンで治療を受けた人たちは、老人から幼児まで、深刻な後遺症のなかにある。死亡した人も多い。作家のホリーにとって、幼なじみのハリー・ライムは、アイディアと実行力に富んだ男であり、そこに彼は深い敬愛の念を抱いていたのだが。

 ウィーンにおけるハリー・ライムの恋人、アンナ・シュミットをアリダ・ヴァリが演じている。ライムの働いた悪事に彼女は気づいているが、一度は愛した男としてのハリーは、いまも彼女の心のなかに生きている。彼女が知っているそのようなハリー。そして、幼なじみのホリーが知っている、昔のハリー。そのふたとおりのハリー・ライムとは別に、ハリー・ライム当人としてのハリー・ライムがいるという、普遍性のある主題がひとつ、大きく浮かび上がってくる。

 ハリー・ライムを逮捕することに、ホリー・マーティンズは国際警察から協力を求められる。舞台女優をしているアンナは、偽造パスポートでウィーンに入って来た不法入国者だということが、おなじ警察によって見破られる。アンナに心を動かしているホリーの気持ちを見抜いた警察は、アンナに正式の書類をあたえることと引き換えに、囮となってハリー・ライムをおびき出す役目を、ホリーに承服させる。

 警察による拘束から釈放されたアンナは、自分の身分証明と引き換えにホリーが幼なじみを警察に売る約束をしたことを直感する。あなたがハリーを警察に売る値段がこの私なら、私はその値段なることを拒否する、とアンナは言う。普遍的な主題がもうひとつ、ここで説得力をともなって、観客の前に立ちあらわれる。警察が周辺を固めているなかを、ホリーとの待ち合わせの場所である夜のカフェに、ハリー・ライムはあらわれる。追われるハリーは地下に構築された巨大な下水道トンネルに逃げ込む。ここを流れる下水のすべてが青きダニューブ河へと流れ込むという。そこで追われながら、ハリーは警官をひとり射殺する。その警官の拳銃で、ホリーは幼なじみの親友を射殺する。自分が幼い頃から知っていたハリーと、ハリー当人としてのハリーのどちらをも、ホリー・マーティンズは自らの手で葬ることになる。

 ハリーの葬儀が墓地でおこなわれる。ホリーはそこにいる。アンナも来ている。アンナはホリーに一瞥もくれず、ひと言も口をきかず、墓地の外の長くまっすぐに続く道を歩いていく。有名な、と言っても知る人はもはや少ないあのラスト・シーンで、この映画は終わる。全編をとおしてアントン・カラスのチターが効果を上げている。こういう音楽をよく見つけたものだと思う。

 一九九九年は映画『第三の男』にとって五十周年だった。それに合わせてペンギンから出たヴァージョンが、記念写真のいちばん左にある。六二年のバンタム・ブックス、そして七二年のポケット・ブックスがまんなかの二冊で、右にあるのは『ハリー・ライムの生涯』という本だ。ハリー・ライムという男はもっとさまざまに物語の主題になるはずだ、というアイディアを出発点に、いろんな書き手がハリー・ライムをめぐって文章を書いた。オーソン・ウェルズの文章も収録されている貴重なペイパーバックだ。

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出典:『Free&Easy』2008年7月号


2018年3月14日 00:00