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「ザ・ルーキー」

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 ジム・モリスは幼い頃からボール遊びが好きだった。ピンポンの球からバスケット・ボールまで、ボールならなんでもいい。転がして遊んで飽きない。投げる、蹴りとばす、父や母に高く投げてもらい、それを追いかけて捕る。あらゆるボール遊びが好きでしかもきわめて巧みだった。ボール遊びは成長とともに野球へと収斂し、小学生になる頃には上級生よりはるかに頼りになるボール・プレーヤーとして、地元では知られた存在だった。

 彼の父親は職業軍人だったから、少年のジムは父親の転属に合わせて、住む場所を転々とさせた。どこに住んでも野球の腕でたちまち知られる存在となり、野球以外にもバスケット・ボール、アメリカン・フットボール、さらには陸上競技まで、優秀なプレーヤーとしてこなした。メジャー・リーグで野球をするのがいつしか彼の夢となり、その方向に向けて進もうとはしたのだが、マイナー・リーグのシングルAで肩を故障させた。故障は重く、手術は成功したのだが、野球のボールであれなにであれ、物を投げることは二度と出来ない、と医師に宣告されてしまった。

 結婚して子供が出来、妻と共働きで生活を支える日々を送るようになるのだが、仕事は安定せず収入は少ない。なんとか仕事を安定させるためには大学を出る必要があると判断し、アルバイトのような仕事のかたわら、大学へ通う。大学は要するに資格なのだ。それを大学で学んだならこの仕事にはクオリファイする、ということになる。クオリファイするなら求人に応募することが出来、そこから採用につながる可能性は大いにある。

 子供は三人に増える。妻は忙しく働く。自分も忙しい。大学の単位はなかなか取れない。故郷と言っていい西テキサスで高校のスポーツ・コーチを務めたとき、就任したときにはぼろぼろだった野球チームを整えなおして鍛え上げ、リーグ優勝させてしまった。僕たちが夢をここまで追いつめたのだから、コーチもふたたび夢に挑戦してくださいと生徒たちに言われ、ジム・モリスは引っ込みがつかなくなってしまう。

 アメリカン・リーグのタンパ・ベイ・デヴィル・レイズというメジャーリーグ球団が、西テキサスの大学でトライアウトのテストをおこなう、という情報がジムに届く。夢を追うなら、このテストを受けるのが、夢への第一歩となる。テストを受けなければ、自分は夢をあきらめたことになる。一度でいいからメジャーでやりたいと願う自分を裏切ることは出来ないし、生徒たちの熱い期待をはずすわけにもいかない。

 だからジム・モリスは左投げの投手として、トライアウトのテストを受ける。一九九九年の夏、ジム・モリスは三十五歳、体重は百キロを越え、奥さんと三人の子供をかかえていた。二十歳前後の若者たちのいちばんあとで、ジムは五十球を投げた。見守る人の数が一球ごとに増え、時速百五十キロを楽に越える彼の投球に、最後は現場にいた人たち全員が集まった。テストに彼は合格した。次の日にもう一度、彼はテストされた。左の要員として有望だ、と球団幹部は判断したのだ。ここと言う状況でマウンドに出ていく、シテュエーショナル・レフティだ。

 トライアウトに合格したジムは、セント・ピーターズバークにあるスプリング・トレーニングの施設へいくことになる。それまでの日常生活は終わりだ。妻や子供と別れ、マイナー・リーグの過酷な旅暮らしとなる。サラリーなし、ボーナスなし、支給されるのは実費と日当だけだが、それでは自分ひとりの生活もまかなえない。いっきに妻の負担が増える。生活はすぐに破綻するかもしれない。球団幹部から彼の奥さんに電話があり、こうした野球生活を続けることが出来るかどうか、生活や経済の事情などを、奥さんは子細に聞かれたという。これが一生の最後のチャンスだからと、奥さんはジムを送り出す。

 それから三週間、毎日走って一週間で四キロの体重を落とし、一日おきの投球練習を繰り返した。住むのはモーテル、食事はデニーズ、前途には不安しかなく、したがって夜毎に妻にかける電話の料金がかさむ。これをジムは乗り越え、高い評価を得た。そしてオーランド・レイズというダブルAに昇格した。かつてマイナーで六年を過ごしたジムだが、ダブルAまで上がるのは初めてのことだ。カロライナ州でマッドキャッツと対戦し、テネシー州ノックスヴィルまで移動したとき、コロンバスでダーハム・ブルズに合流せよ、という指示がジムに届いた。ダーハム・ブルズはトリプルAで、アメリカでもっとも有名なマイナーリーグのチームだと言われている。そこでもジムは良く投げたのだが、少しずつ打たれるようにもなり、二週間休まされることとなった。

 九月一日にメジャーの各チームは二十五人枠を四十人へと拡大する。シーズンをそこまで戦ってきて疲れのたまっているメンバーたちのなかに、新たなパワーを補給するためだ。デヴィル・レイズはその年は負けシーズンだった。ウェイド・ボッグスの二千本安打達成がいつになるか、というのが残された唯一の話題だった。四十人枠へはトリプルAからジェフ・スパークスが上がっただけだった。メジャーもマイナーも、残されたシーズンはあと二週間だった。

 ダーハム・ブルズはシーズンの最終戦がシャーロットとの三試合だった。この三試合にすべて勝つとインタナショナル・リーグはブルズの優勝になるのだが、最初の二試合を勝って三戦目を落とした。今年はこれで終わりだろうかと思っていたジムのもとに、ロードに出ているデヴィル・レイズに合流せよ、という指示が伝わった。メジャーへの昇格の瞬間だ。一九九九年九月十七日、金曜日、夜の十時三十分だったという。ロードとは、このときは、テキサス州ダラスのすぐ近く、アーリントンだった。家族や親しい友人たち全員が球場へ来ることが出来る。

 アーリントンではウェイド・ボッグス、フレッド・マグリフ、ホセ・カンセコたちがジムを迎えてくれた。監督はラリー・ロスチャイルドで、フロリダ・マーリンズがワールド・シリーズを征したとき、投手コーチをしていた人だ。ロッカー・ルームに入ると、自分のロッカーのドアにジム・モリスと、名前がくっきりと書いてある。なかにはユニフォーム一式が入っている。背中にも名前がある。背番号は63。対戦相手はテキサス・レインジャーズ。気温は四十度近く。アメリカにおける野球の黄金時代を再現したレトロ・パークの球場は美しくて居心地が素晴らしい。そして観客は三万七千人の満員だ。一九七十年に三十六歳のミニー・メンドーザがミネソタ・ツインズで初めてメジャーのプレーを体験して以来の高齢ルーキーのジムは、このときすでにメディアで広く知られた時の人でもあった。

 八回の表、二死、走者一塁の場面で、ジム・モリスはブルペンのゲートからフィールドに出た。マウンドで向き合った相手チームの打者は、レインジャーズの遊撃手、ロイス・クレイトンだった。ストライク、ストライク、ファウル、空振り。メジャーで最初の打者をジムはファストボール四球でかたづけた。

 以上のようなオールド・ルーキーのメジャー・デビュー物語が、おしまいの三十ページほどで語られ、そこにいたるまではジムの生い立ちと成長、そして結婚してからの苦労話が続く一冊だが、僕は興味深く読んだ。映画になってデニス・クェイドがジムを演じている。DVDは出ているはずだから、次は映画で楽しもう。

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出典:『Free&Easy』2007年12月号


『Free&Easy』 本を読め 野球
2018年2月26日 00:00
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