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「ワンス・アポナ・タウン」

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『ワンス・アポナ・タウン』というノン・フィクションは、二〇〇二年に刊行されたボブ・グリーンの作品だ。次の年にペーパーバックになったのを、僕は今年の春に手に入れた。ワンス・アポナ・タイム(昔々、あるとき)という定型の言いかたを、軽い気持でふともじると、ワンス・アポナ・タウン(昔々、ある町で)ともなるのだという感銘を、東京の書店の棚でこの本を見つけたとき、僕は楽しんだ。

 昔々とは、アメリカがヨーロッパと太平洋で戦争をしていた、一九四十年代前半を意味している。そしてその昔々の、ある町とは、ネブラスカ州のノース・プラットだ。当時のこの町には一万二千人ほどの人が住んでいた。そしてユニオン・パシフィックの鉄道が、この町のなかを東西に貫いていた。ノース・プラットのフロント・ストリートには、地面と同じ高さの乗り場と駅舎があった。「ノース・プラット・キャンティーンの奇跡」という副題の舞台はこの鉄道と駅舎であり、そこで奇跡の主役を演じたのは、ノース・プラットとその周辺に住んでいた、昔々のアメリカの人たちだ。

 ネブラスカ州はおおざっぱに言って、北アメリカ大陸のまんなかにある。そのネブラスカ州の、おなじくおおざっぱに言ってまんなかに、ノース・プラットという町そのものは、いまでもある。ネブラスカ州は農業州だ。昔のアメリカらしさを体現するたいていの農産物を、現在も大量に産出している。このネブラスカ州のなかを西から東へ、ノース・プラット河とサウス・プラット河が流れていて、この二本の河が合流する地点から西へ寄ったところに、ノース・プラットは位置している。一九七一年に、最後の客車列車がここを走り、二年後には駅舎その他の施設は取り壊された。いまは記念銘板と国旗掲揚柱がその跡地に立っているだけだ。アムトラックは別の場所に線路を敷き、貨物列車を運行している。その音を、ノース・プラットでも聞くことが出来るという。

 ノース・プラット・キャンティーンという言葉は、幼い僕が戦後に覚えた、太平洋戦争におけるアメリカ軍用語のうちの、いまも忘れていない言葉のひとつだ。ノース・プラット・キャンティーンという、音声における字面が、僕の記憶に刻み込まれた結果だろう。戦後すぐの頃、たしかふたりのGIたちから、きわめて熱心に、ノース・プラット・キャンティーンについて、聞かされたのを僕は記憶している。キャンティーンとは、兵隊および軍の関係者たちのための、飲食と娯楽を中心にした施設の総称だ。

 一九四一年のクリスマスの日を初日として、太平洋戦争が終わるまでの全期間、毎日、休むことなく、ノース・プラットの駅舎は、そこを兵員輸送列車で通過していく若いアメリカ軍兵士たちにとっての、キャンティーンとして機能した。ノース・プラットおよびその周辺に住んでいた人たち全員が総出で、自前の農産物を駆使して、ありとあらゆるご馳走を作り、駅で十分間だけ停車する列車の兵士たちすべてに、感謝と励ましと愛をこめて、無償でふるまった。ノース・プラット・キャンティーンとは、ごく簡単に書くと、こういうことだ。第二次世界大戦に兵士として参戦したアメリカ人なら、まず知らない人はいないほどに語り継がれた出来事だ。

 大戦当時のノース・プラットはユニオン・パシフィック鉄道のメイン・ラインだった。一日に三十二本の客車列車が、ノース・プラットのトレイン・ディーポを発着した。これは現在から振り返ると、信じられないようなすごいことだ。いまのノース・プラットはほとんど忘れられた、存在しないも同然のアメリカだ。インタステートのたしか80だったかをひた走りながら、あるときいきなりそれを降りて、大平原のなかをどこへとも知れず吸い込まれるかのように走っていくと、ノース・プラットがある。空港もあるけれど、十九人乗りのビーチ・クラフトで平日は二便、週末は三便という、もはやあるかなきかの寂しさだ。

 このノース・プラットを東から西へと向かう兵員輸送列車は、太平洋の戦場へと送り出される兵士たちを乗せていた。西から東へと向かう列車には、ヨーロッパ戦線へ向かう兵士たちが乗っていた。列車は十五輌から二十輌編成で、一日に平均して三千人から五千人の兵士が、戦争のあいだ毎日、ノース・プラットを通過したという。兵士たちは蒸気機関車の煙の煤でまっ黒、着たきり雀の汗のかきほうだい、汚れほうだいで、シャワーはもちろんないし、洗顔もままならない。故郷を遠く離れ、不安や孤独を友にして、行き先は戦場なのだから、身も心も最悪の状態だったはずだ。その彼らが、アメリカのまんなかで、突然、思いもかけずに、ホームメードそのものの御馳走を、無料でふるまわれて歓待され、励まされ慰められ、幸運や無事を祈られ、軍務を感謝されつつ、笑顔で送り出されるという、夢のような体験をしたのだ。ノース・プラットでの十分間停車を、延べ六百万人のアメリカ軍兵士が受けとめ、ほとんど宗教的とすら言っていい深さのある感銘を、心に刻むこととなった。

 そうしたかつての兵士たちは、健在ならいまは七十代、八十代、そして九十代という年齢だ。全米に散っている彼らを、ひとり、またひとりと、ボブ・グリーンは訪ね歩き、ノース・プラット・キャンティーンについて、語ってもらう。ノース・プラットの現在の様子を綴っていく文章に、かつての兵士たちやその奥さん、子息たちの語りが重なり合い、一九四十年代前半のアメリカの息吹が蘇るとき、そのアメリカがもはやどこにもない現在のアメリカもまた、否応なく目の前に立ちあらわれる、というつらい体験を読者は著者のグリーンと共有する。

 ノース・プラット・キャンティーンは、すでに書いたとおり、一九四一年のクリスマスの日に、誰が言いだしたということもなく提案され、それはただちに実行に移されて盛大に実現し、それ以後は終戦の日まで、一日も休むことなしに、完璧なヴォランティア行為として、維持され完遂された。十分間という停車時間のなかで可能な軽食であったとは言え、六百万もの若い兵士たちが、ひとりの食べそこないもなしに、自然の豊かな食料による豊富な手料理を楽しんだ。当時のアメリカの、農業国としての底力を端的に示した出来事としても、ノース・プラット・キャンティーンは示唆に富んでいる。

 当時の日本国内では、食料はほとんど致命的に不足していた。あらゆる食品がかたっぱしから、配給制や切符制へと移行していた。配給制とは遅配に次ぐ遅配や配給停止、つまりありませんという意味であり、切符制もおなじことで、切符はあってもそれと交換する食料は、どこにもなかった。国民は庭を耕して南瓜を植えろとか、道ばたの雑草を積極的に食え、などと政府から命令されつつ、空腹と栄養失調の日々を生きていた。

 ボブ・グリーンの文章で『ワンス・アポナ・タウン』を読んだあと、フリッツ・ウィーヴァーの朗読で、全編を聴きとおしてみるのも、悪くないと思う。カセットなら四本、CDなら五枚で、六時間。音声で聴いたほうが、昔々をより深く感じ取れるだろう。

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出典:『Free&Easy』2006年9月号


『Free&Easy』 戦争 本を読め
2018年1月26日 00:00
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