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フロント・グリルと僕の関係

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 一九六十年代のなかばから後半にかけての時代の、シヴォレーやフォードなどごく庶民的な乗用車のフロント・グリルがいくつか、ここにある。ひとつずつ観察してやがて頭のなかにまとまる感想は、かつてこういう時代があった、ということだ。

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 普通の乗用車のフロント・グリルの造形として、こういうデザインは悪くないと僕は思う。僕としてはたいそう好きだ。いちばん好きだ、と言っていい。

 何本かの横の線に対して、効果的に交差する垂直の線。そしてそれらぜんたいをひとつずつまとめる、両端のヘッド・ライト。よくまとまっている。端正だ、とすら言えるだろう。こうした自動車を日常の道具にしていた人たちの、気質や性格、価値観や世界観などが、これらのフロント・グリルの造型のなかに、ほどよくあらわれてもいる。

 攻撃的な印象があることは、否定できない。たしかに攻撃的だ。しかし、獰猛さにまでは拡大されていない。ある程度までは攻撃的な印象である、というところにとどまっている。よくまとまっているけれども、ごく普通のことでもある、というところが僕としては捨てがたい。

 このようなフロント・グリルを好ましく思う僕は、このようなフロント・グリルと個人的な関係を結んでいる、と僕は感じる。現実には大量生産の普及品以外のなにものでもないのだけれど、その前提の上でなおかつ、僕とこれからのフロント・グリルとは、個人的に結ばれている、と僕は思う。

 僕がアメリカで自動車を日常のものとしなければならないとき、その僕をなにほどか体現してくれるのは、このようなフロント・グリルであり、それに似合った車体なのだ。僕という個人が発揮しなければならないインディヴィデュアリズムは、アメリカという文脈のなかでは、ここにあるいくつかのフロント・グリルのような性質のものとなる。

 なぜか自分がいつまでも好きであり続ける物体のかたち、ということについて、一九六十年代のアメリカの自動車のフロント・グリルを材料にして、僕は考えている。好きなかたちとは、おそらくそのまま、自分の性格なのではないか。

 ではカタオカさんはこういったフロント・グリルのような性格の人なのですか、と人に訊かれたなら、そうです、僕はこのとおりの人なのです、と僕は答える。

出典:『Free&Easy』2000年1月号


『Free&Easy』 アメリカの色とかたち
2017年11月20日 00:00
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