アイキャッチ画像

波の上を歩いた姉

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 十五歳の夏の終わりに、姉は日本からカリフォルニアへ帰った。僕はハワイへ戻った。島はおなじだが、もとの家ではなく、新しい家だった。僕はまだ十歳になるまえだった。感謝祭が近くなった頃、姉はカリフォルニアからその家へ来た。姉は母親がちがっていた。彼女の母親は離婚したあと独身のまま、カリフォルニアにいた。事情が多少は複雑だったから、僕も姉もあちこちよく移動した。姉のほうが移動は多かった。

 感謝祭が過ぎても、姉は僕とおなじ家にいた。彼女はカリフォルニアには戻らず、しばらくハワイにいることになった、と父親が説明した。姉といっしょにいるのは、僕にとってはたいへんにうれしいことだった。

 クリスマスが近くなったある土曜日の午後、父親の親友のハリー・オキモトが僕たちの家に立ち寄った。姉が彼らのためにコーヒーをいれた。ハリーは新車と中古車のディーラー、修理ガレージ、そしていくつもの商売を経営していた。

「百マイル・カーを買ったやつがいるんだよ。錆びた車の山のなかから、久しぶりに一台少なくなったので、ほっとしたやらうれしいやら、おかしいやら」

 しわの深い陽に焼けた顔で、ハリーは楽しそうに笑ってそう言った。

 百マイル・カーとは、あと百マイルだけはちゃんと走ることを保証します、というおんぼろの中古車のことだ。ハリーが考え出した言葉ではないかと、僕はいま思う。彼はいつもいろんなことを考えては、さまざまに工夫して生きている人だった。彼が経営するディーラーシップの敷地の片隅に、誰の目にもひときわ古びてくたびれ果てた車にしか見えない自動車がひとまとめにならべてあり、そこには標識をつけた柱が一本立っていた。その標識には、ブラシ体の大きな赤い文字で、「マウイの有名な百マイル・カー 経営者ハリーの個人的保証」と書いてあった。

「どこの誰が買ったのだい」

 僕の父がきいた。

「カリフォルニアから来た若い白人の男たちさ。きみんとこの娘とおんなじ喋りかたをするよ」

 僕の姉はハワイふうの英語が完璧にできる。そしてカリフォルニアの英語も、おなじく完璧だ。いつのまにかハワイふうがうしろへひっこみ、カリフォルニアふうが正面に出ていた。

「僕のロットから百マイル・カーが動いたもっとも最近の例は、十か月まえに映画の撮影隊がハリウッドから来て、ぼろ車を五台貸してくれと言われたときだからね。あのときは、うちはリースはやってないと言って、五台とも買い取ってもらったっけ。今度の連中はサーファーだね。波に乗るんだよ」

 しばらくハワイを離れていた僕に、ハリー・オキモトは波乗りを手つきだけで説明してみせた。

 ハリー・オキモトの自動車販売と修理業は、何度か名称を変更した。そして場所も変わり、いまはハワイ島にある。いまの名称は、ハリー・オーのオート・セールスとなっていて、「あなたが車を買うのはここです」と、巨大な広告看板の下に注釈がつけてある。僕が十歳の頃には、販売業はハリーズ・オート、そして修理のほうはハリーズ・ガレージとなっていた。

 波乗りもサーファーも、それがなにであるか、もちろん僕は知っていた。父親が8ミリの撮影機と映写機を買ったとき、デモンストレーション用にフィルムが何本かおまけについて来た。パリの観光名所ガイドやイエローストーン公園の紹介などのフィルムのなかに、『ハワイの大波』というタイトルの作品があった。

 シークエンスによってカラーになったり白黒になったりする不思議なフィルムだったが、ハワイでの波乗りをいろんなふうに巧みにとらえた、じつによく出来たフィルムだった。思わず声をあげてしまうようなシーンがいくつもあり、ここぞというところではスロー・モーションも採用してあった。僕の記憶のなかでは、ブルース・ブラウンの初期の作品よりこちらのほうがスリリングで楽しめる、という印象をそのフィルムはいまでも保っている。父親の所有物のなかを捜せば、いまでもこのフィルムはあるはずだ。

 クリスマスが過ぎても、その年はいつまでも暑かった。どこへ持っていっても立派すぎるほどの真夏日として通用するような、よく晴れた暑い日の午後、仕事先の父親から自宅に電話がかかって来た。僕がその電話に出た。

「百マイル・カーを買ったカリフォルニアのサーファーたちを見物しにいこう、とハリーが言っているんだよ。僕はいけないけど、マイコといっしょにいってくるといい」

 と父親は言った。マイコとは舞子、つまり僕の姉だ。最初は別の名だったのだが、彼女は自分で舞子に変更した。

「いまから僕は家へ戻るよ。ハリーのところまできみたちを送っていくから、そこからはハリーに乗せてもらっていきなさい」

 ストライプの入ったビジネス・シャツにネクタイ姿で、タウン・アンド・カントリーのステーション・ワゴンを運転して、やがて父親が家へ戻って来た。僕と姉は外の道路に出て待っていた。

 ハリーズ・オートで降りた僕たちは、パネル・トラックに乗り換えた。でこぼこの車体のありとあらゆる部分に赤土のこびりついた、重苦しい褐色のパネル・トラックだった。ガレージで働いていたスペイン系のメカニックが運転し、姉と食堂のウエイトレスがキャビンのなかの席にすわった。ハリーはほんのすこし離れたところに食堂も経営していた。僕と中国人の料理人、ハリーの五人の息子たちのうちのひとり、そしてたまたまハリーズ・オートに居あわせた白人の夫婦が、パネルで囲まれた荷台に乗った。その夫婦はハワイへ移り住んでまだ日が浅く、まず自動車を買おうとしているところだった。

「このハイウエイを東西へ走る車が、僕の店からすべて見えるんだよ。一日のあいだに、知ってる人がたくさんとおるよ。誰が何時ごろとおって、何時ごろに引き返して来たか、一日の終わりに僕はすべてそらんじることができるほどだよ」

 パネル・トラックが走りはじめて、荷台の上でハリーは僕にそう言った。

「一時間ほどまえ、百マイル・カーに乗ったカリフォルニアのサーファーたちが、西へむかったのさ。のんきに波乗りをしてるにちがいないよ。だからこうして、これから見物にいくんだ」

 パネル・トラックはハイウエイを疾走した。ヘヴィ・デューティなタイアと固いサスペンションに支えられた荷台は、激しく揺れた。荷台は僕にとっては空の見える鉄の箱の内部だった。中国人の料理人は大人だったが、背丈が低いから彼もパネルの上から外を見ることはできなかった。ハリー・オーはつま先で立っていっぱいにのび上がると、パネルの上すれすれに外が見えた。彼の息子は彼よりも背が高かった。そして白人の夫婦はどちらもパネルの上から頭を出し、風に髪を逆立てながら、飽きることなく海に視線をむけていた。

 このままどこまでも走り続けるのではないかと、僕が悲しく思うほどに長いあいだ、パネル・トラックは走り続けた。西にむかって走ることは、パイナップル畑のほかはなにもない、ただの田舎のなかへ入りこんでいくことにほかならなかった。赤土のこびりついた、無骨で荒っぽい鉄のパネルを見ながら、つかまるところもないままに、僕は頭のなかに島の地図を思い浮かべていた。

 自分たちは島の西の端までもはや完全に走りきったのではないか、と僕は何度も思った。このままさらに走っていけば、まもなくかならずこのパネル・トラックは断崖の上から海へ墜落するはずだ、と僕は思った。舗装されたハイウエイはとっくに終わっていた。赤土の道を走るパネル・トラックの鉄の荷台は、たて続けに荒々しく跳ね上がり、激しい横揺れをくりかえした。パネルについている土が衝撃ではがれては土ぼこりとなり、荷台の底のあたりを漂った。

 一時間ほど走ったあと、パネル・トラックは速度を落とした。ギアが変わった。道路は登り坂になった。坂は蛇行していた。その坂を登りきると、トラックは草の上を徐行した。そして停止した。エンジンが止まった。

 運転していたメカニックそして姉とウエイトレスが、トラックを降りた。ハリーの息子が後部のパネルを倒し、乗っていた僕たちはそれぞれに草地の上に飛び降りた。ぜんたいの出来上がりを予測した上でなんとなく造成をはじめてそのまま放置されたような雰囲気のある、いちめん草の生えた広い空き地のなかに僕たちはいた。海の香りが風のなかにあった。前方にむけて、草のなかに道がついていた。その道を僕たちは歩いていった。

 ハリー・オーが久しぶりに売ったという百マイル・カーが、大きく枝を広げている樹の陰の下に停まっていた。ウッド・パネルははがれ、塗装は完全に色を失った、ぜんたいにわたって見事なまでにいたんだ、完璧におんぼろなステーション・ワゴンだった。

 僕たちはその車のまわりに立ちどまり、観察した。車のなかはガレージ・セールを二、三軒ぶんぶちまけたような、雑然とした混乱ぶりだった。ありとあらゆる生活用品がそのステーション・ワゴンのなかにあるように、僕には思えた。その混乱のなかで、口を開けてあおむけに横たわり、トランクス一枚の白人の青年が昼寝していた。僕たちに気づいて目覚めたりすることなく、彼は眠り続けた。

 ステーション・ワゴンと眠る青年をそこに置き去りにして、僕たちはさらに前方へ歩いた。樹のなかを蛇行する坂道を登っていった。頂上に立つと、いきなり視界のぜんたいが海になった。空の下で水平線は明らかに湾曲していた。巨大な海のいちばん手前、かなり急なスロープを降りたすぐ下にある、海のもっとも端の部分に、一本の波が出来ていた。おだやかな美しい日だった。その波は高さはせいぜい四フィートの、なんの威嚇も感じさせない扱いやすいショア・ブレイクだったが、そのときの僕の目にはたいへんに不思議なものに見えた。

 四人のサーファーたちがいなかったなら、その波はそれほど不思議なものには見えなかったもしれない。もっと北にある岬から見たなら、ほとんど陸だと言っていいほどに湾の内側に入ったところに出来る、左から始まって右へまっすぐに三百メートルほど走っていくその波は、特別なものでもなんでもなかった。スロープの陰になって崖の上からは見えないいちばん右の端で、あるいはふと立ちあがったその波の稜線は、四フィートの高さを安定して維持しつつ、立ちあがるはしからもの憂げに白く崩れながら、ゆったりした速度で左にむけてまっすぐに進んでいった。

 体の白い四人のサーファーがいるおかげで、そのおだやかな波は、いわく言いがたい不思議な生き物のような生命と雰囲気を獲得していた。サーファーたちの白い体にトランクスが色鮮やかだった。彼らの赤や黄色のサーフボードも、水の被膜ごしに太陽の光を鋭く反射させていた。

 おだやかに長くまっすぐにのびていく四フィートの波の内側のスロープを使って、快適なテンポでアップ・アンド・ダウンをくりかえしているサーファーがいた。サーフボードの裏にはスクリューと舵がついてでもいるかのように、彼は波の斜面の上でサーフボードを意のままに正確に操り、波の速度とおなじ速度で前方にむけて進んでいった。両膝を折って腰を落とした彼は、両腕を空中にのばしてバランスを取っていた。

 まったく異なった動きをしているサーファーもいた。スロープの陰にかくされているため、その頂上にいる僕たちからは見えないところでテイクオフした彼は、その波の進行していく方向にむけて、波の斜面の上を歩いているように見えた。水の色とよく似た色をした彼のサーフボードは、遠くからだと波と見分けがつかなかった。典型的なノーズ・ライダーであるそのサーフボードの上を、彼はノーズまで歩きそこに立ちどまった。そしてそのまま、波の上に立ちどまって波とともに前方へ進んでいくという、一見したところたいへんに不思議なことを、彼はなんの無理もなくこなしていた。そしてその彼は、あるときふと思いついたかのように、サーフボードの上をテイルまでうしろむきに歩いた。波の上を彼は素足でうしろむきに歩いていくように、そのときの僕には見えた。そして再び、テイルからノーズまで、彼は歩いた。

 ハリー・オーは双眼鏡を持って来ていた。軍隊を除隊するときに記念品として持ち帰った、無骨で頑丈そうな双眼鏡だった。それを使って僕たちは、眼下の波とたわむれるカリフォルニアのサーファーたちを観察した。双眼鏡の鮮明な視界には、縦にも横にも目盛りがついていた。双眼鏡で自分の手のなかにたぐり寄せるサーファーの動きは、見ている僕の胸のなかのどこかに、それまでまったく知らなかった別世界を作った。

 彼らの波乗りを、僕たちは一時間ほど見物した。崖の上にいる僕たちに彼らは気づいた。彼らは声をあげて手を振り、僕たちも手を振った。帰るとき、樹の下に停めてある百マイル・カーのかたわらを、僕たちは再びとおった。ステーション・ワゴンのなかで、白人の青年はおなじ姿勢で口を開け、眠ったままだった。

 ハイウエイに面したハリー・オーの修理ガレージは、いつとはなしに、カリフォルニアから来たサーファーたちのたまり場となった。幼かった僕でさえ、彼らの顔と名前が一致するまでに親しくなった。正月が過ぎ、春が来て夏になるまで、サーファーたちは島にいた。ただ同然の安い宿に泊まるかステーション・ワゴンのなかで眠るか、あるいはどこか適当な場所を見つけて、彼らは野宿していた。

 僕はホットドッグという言葉の別の意味を知った。食べ物あるいは感嘆詞としての使いみちのほかに、波乗りの用語であることを、僕は発見した。おだやかに長くのびていく、さほど高さのない波のスロープを使って、快適なテンポでアップ・アンド・ダウンをくりかえすことを、彼らはホットドギングと呼んでいた。カリフォルニアにおける彼らの根拠地はマラブーだった。略して彼らはブーと呼んでいた。

 北海岸の海が夏の海になって、サーファーたちはいなくなった。そして僕は一冊の雑誌を手に入れた。ハリー・オーが事務所で読んでいた波乗りの雑誌だ。僕はそれを彼からもらった。

「隅から隅まで読んだよ」

 とハリー・オーは言った。

「これはビジネスに結びつくかもしれないなあ」

 というのが、その雑誌を読みとおしたことに対する、ハリーの結論だった。いろんなことを考えついては、それをハリーは商売に結びつけていた。損もしたけれど、おかげで晩年の彼は裕福に過ごし、子供たちは彼が作り出したいくつもの商売を継いで、いまもそれぞれに多忙だ。

 ハリー・オーにもらったその一冊の波乗り雑誌は、僕の愛読書となった。幼い僕が波乗りについての最初の知識をいくつか身につけたのはこの一冊の雑誌をとおしてだった。

 その雑誌をハリー・オーのところに置いていったカリフォルニアのサーファーたちの波乗りは、僕が実際に見た最初の波乗りだったと僕は思っていた。だが本当は、六歳か七歳のときに、僕はワイキキで最初のささやかな波乗りの体験をしていた。

 どのような事情や成りゆきでそうなったのか僕は覚えていないが、夏の暑い日の午後、アイスクリーム・パーラーの快適な陽陰から大人たちに外へ連れ出された僕は、カラカウア・アヴェニューを渡り、ワイキキ・ビーチの熱い砂の上を歩き、波打ちぎわに横たえたロングボードのまんなかにまたがらされた。

 父親の親友のひとり、アーネスト藤重という男性が、どこからか持って来た大きなサーフボードだった。ビーチにいくつかあったレンタルの小屋で借りて来たものかもしれない。幼い僕に波乗りを体験させようという遊び半分の思いつきを、大人たちは実行に移したのだったにちがいないと、いまの僕はそのときのことを回想している。

 大きな重いサーフボードのまんなかにちょこんとまたがっている僕の右の足首に、彼らはリーシュをくくりつけた。四メートルほどの長さのそのリーシュの端を、父親が腕に巻いて持った。アーネスト藤重がサーフボードを押し、僕たちは遠浅の海へ出ていった。やがて彼らは顎まで水につかるようになり、ふたりは泳ぎはじめた。泳ぎながら左右から僕のまたがるサーフボードを押し、さらに沖へ出ていった。

「このへんでいいだろう」

 父親が言った。幼い僕にとっては海のまんなかと言っていいその場所から、僕はワイキキを広く見渡すことができた。海のむこうからワイキキを見るのも、そのときがはじめてだった。

 ふたりの大人たちがサーフボードを停めたその場所は、サーファーたちのあいだではクイーンズとして知られている場所ではなかっただろうか。ボードにまたがっていた僕は、右肩ごしに沖をふりかえり、太平洋を見たことを記憶している。そのとき、カピオラニ公園のずっと沖に、何人ものサーファーたちが出ているのを僕は見た。彼らがいたのは、まちがいなくスティーマー・レインだ。

 沖から入って来る、小さいけれども力の一定したうねりを、アーネストがつかまえてくれた。ボードのうしろにまわった彼は、タイミングを合わせて、僕のまたがったボードを力いっぱいに押し出してくれた。ボードは波をつかまえた。なにも知らない僕がただまたがっているだけのボードは、あるとき突然、それ自体の命と動きとを持ったかのように、波の動きと完璧に同調して、海岸にむけて進んでいった。

 リーシュを持った父親が、斜めうしろからクロールでついて来ていた。砕け波とほとんど区別のつかないような波とともに、僕は海岸にむけて百メートル以上、滑走した。生まれてはじめて体験する種類の、なんとも言いがたい爽快な気持ちを、僕はこのとき体験した。

 自分の内部がなぜか完全に洗い清められて空洞になり、そこへなにか別の、きわめて純なエネルギーが入りこみ、ほんのしばらくだけそこにとどまったあと、すぐにまたどこかへいってしまったような感覚だった。本当の生きた状態をはじめて知らされたような、懐かしくて新鮮な、体ぜんたいで微笑してしまうようなうれしさを、幼い僕は覚えた。

 大人たちふたりにせがんで、僕は続けて七、八回、そこで波乗りをした。一度だけタイミングがずれた。砕ける波の白い泡のなかにとりこまれたまま、僕は滑走を続けなければならなかった。またがっているだけの状態から、レールにつかまって正座することを僕はすぐに覚えた。両膝立ちになって手を離すこと、そして片足の膝を立ててバランスを取る感覚なども、そのときに学んだ。

 島の北海岸がまだ夏の海のあいだに、姉はサーフボードを手に入れた。そしてそれがなにかの合図ででもあったかのように、冬のあいだいた五人のカリフォルニアのサーファーたちのうちふたりが、島へ戻ってきた。

 ひとりはハリー・オーの修理ガレージで雑役として働きはじめた。もうひとりは、食堂で料理人たちの下働きとなった。ふたりは給料の一部を前借りして、ハリーズ・オートから百マイル・カーを一台、買った。カリフォルニアでの生活体験を持ち、カリフォルニアの言葉を完璧に喋る姉は、彼らとはすでに仲良しだった。と言うよりも、彼らは姉をたいへんに大事にした。そして彼らは彼女に波乗りを教えた。

 彼らが海へいくたびに、僕も連れていってくれと言って、僕はうるさく彼らにつきまとった。食堂で働いていたほうの青年が、ある日、僕にベリー・ボードを進呈してくれた。食堂でかつて使っていた、固いスチロール製の長方形のクーラー・ボックスの蓋だった。ノーズは両側ともナイフで丸く削って角を落としてあり、先端にむけてテーパーをつけて薄くなっていたが、レールもテイルもはっきりと四角いままだった。もちろんボトムにロッカーなどついていず、ぜんたいはまっ平らだった。

 十歳の僕が腹ばいになって操るのに、ちょうどいい大きさだった。そのベリー・ボードを持ち、僕も彼らとともに海へいくようになった。ひと月もたつと、僕はそのベリー・ボードを操って思うままに波に乗ることができるようになった。両足で水をキックしてボトム・ターンするこつも身につけた。ノーズの両わきに穴をあけてそこに紐をとおし、手綱のように持って正座して波に乗ることも、僕は上手になった。クーラー・ボックスの蓋でしかないそのベリー・ボードを、僕は愛するようになった。

 そのボードに関してもっとも面倒だったのは、何度も砂利の海岸に上がっては、自分でボトムにロッカーをつけなおさなければならないことだった。ボードを垂直にしてテイルを砂利の上に置き、体重をかけてノーズを両手で下へ押しながら、膝でボトムを曲げるのだ。そのようにしてボトムにロッカーをつけると、三度くらいはロッカーのあるボードのライディングを楽しむことができた。四度めには、ボトムは平らに戻っていた。

 ごく短い期間のなかで、姉はノーズ・ライダーを自由自在に操ることができるようになった。僕たちがいつもいっていた海岸では、ほんのすこしだけ誇張して言うなら、テイクオフの場所まで波打ちぎわから歩いていくことができた。砂利の浅瀬のいちばん内側から波は立ちあがっていた。波打ちぎわからそこまで、大人なら歩いていけた。カリフォルニアから来たサーファーたちの、ちょうど胸のあたりまでの深さの場所だった。そこへむけて、自分のボードにはじめて腹ばいになり、最初のパドリングをおこなった姉の波乗りの初日から、僕は姉の上達ぶりを見ていった。ごく初期の彼女がもっとも得意としたのは、ノーズ・ライディングだ。

 テイクオフして優美に立ちあがると、波に合わせてボードに速度をつけ、スロープを斜めに滑走する。そしてあるときふと、彼女はボードの先端まで歩く。歩いてそこにしばらく立ちどまり、こんどはうしろむきに歩いてテイルまで戻る。そして再びノーズへ歩いていく。ボードの先端にすっきりと立って完璧なハング・テンをきめ、砕けつつ進む波を従者にして、波の稜線の内側のスロープを彼女は美しく滑っていった。

 姉の顔立ちや体つき、あるいはぜんたいの雰囲気のなかに、鋭い精悍さが持ち味としてはっきり認められるようになったのは、彼女が波乗りを知ってからだ。細身のひきしまった体には、胸のふくらみがはじまっていた。簡潔なワン・ピースの水着が濡れて体に貼りつき、髪をゆるやかにうなじで束ねていたゴム紐の、赤いふたつの玉飾りが、アクセントとして効いていた。なんら無理することなく、必要以上に頑張ったりすることもいっさいなしに、すべてのことをいつのまにか完璧にこなすことができるようになってしまう万能の姉は、波乗りも自分のものにしていった。

「彼女には品格がある」

 とカリフォルニアから来たサーファーたちは言っていた。姉が波乗りに関して最初にもらった褒め言葉だ。

 僕はクーラー・ボックスの蓋で作ったベリー・ボードに乗る、どちらかと言えば邪魔っけな子供でしかなかった。しかし、そのベリー・ボードのおかげで、僕は姉のノーズ・ライディングの優美で精悍な品の良さを、もっとも有利な視点から何度も見ることができた。

 波の内側にすこし距離を取ってベリー・ボードを浮かべ、腹ばいになり、顎をボードにつけて波のほうを見ると、海面すれすれに、あるいは海面に視界をさまたげられながら、低いアングルから波を見ることになった。テイクオフしてくる姉は、波のむこう側からボードとともになにげなく現れると、いつもの身のこなしそのままに、優雅に優しくもの静かに、ボードに立ちあがった。

 そして波のスロープを滑り降り、ボードを波とおなじ速度にしたうえで、彼女はボードの先端まで滑らかに歩いた。僕の視点は低いから、ほとんどの場合、姉のボードは見えなかった。僕が見た波乗りをするごく初期の姉は、だから、水に濡れた姿も凜凜しく、素足でこともなげに波の上を歩いていた。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 一九九五年

タグで読む10▼|彼女

9月タグ_彼女


サーフィン ハワイ 彼女 片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』
2017年9月21日 00:00
サポータ募集中